大和市白神区の孤地公園で遊ぶ子供たちを眺めながら、空とムラトは静かにベンチに座っていた。どこか懐かしい笑い声が、公園の緑に溶け込んでいる。
「今日も、疲れたな」
ムラトに顔を向けながら空がつぶやいた。少し風が強くなって、彼の髪が乱れる。ムラトはその言葉に反応するように、小さくうなずきながら空を見つめた。
「まぁな、一番きつかったのは断食ぐらいかな」ムラトは少し笑みを浮かべたが、その瞳はどこか曇っていた。彼女の声には、まだ今日の出来事の余韻が残っているようだった。
空は手に持っていた木の枝で砂地を軽く叩きながら、考え込むように視線を落とした。二人はしばらくの間、言葉を発さずに遠くを見つめた。その視線の先には、無邪気に遊ぶ子供たちの姿があった。彼らの笑い声は、どこか遠い記憶を呼び覚ますような響きだった。
「ねえ、お兄さんとお姉さん、買ってください!」
目の前に現れたのは、少し年下の女の子だった。彼女は無邪気な笑顔を浮かべながら、藁で作られた小さな皿を両手に大事そうに抱えている。その皿には花びらや小石、どんぐりなど、近くで拾ったと思われる小さな宝物が並べられていた。
「これ、何のお店?」空は軽く笑いながら問いかけた。その表情には少しだけ疲れが滲んでいたが、どこか優しい目をしていた。
「お花屋さんだよ!全部で、50円!」女の子は目を輝かせながら言った。子供の頃遊んだおままごとだと思うと空は微笑んで、女の子の差し出した小さな藁の皿をじっと見つめた。色とりどりの花びらや丸い小石が、小さな手で丁寧に並べられている。彼はポケットに手を入れて、小銭を探しながら笑った。
「50円かぁ……じゃあ、お兄さん、お花屋さんの常連になっちゃおうかな。」
そう言いながら、空はポケットから50円玉を取り出して、女の子の手にそっと渡した瞬間ムラトが止めに入った。
「空、この人詐欺師の可能性もあるよ、気をつけなきゃ」
ムラトの冗談混じりの言葉に、空は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに肩をすくめて笑い返した。「詐欺師かぁ。こんな可愛い詐欺師なら、騙されてもいいかもね」
「アホ!笑い事じゃないんだよ!50円っていうのは花ビラ一枚だけなあって本当に買うと何千円かかるかもしれないだぞ!」ムラトは口元をきゅっと引き締めたが、その表情にはどこかおかしさが混じっていた。彼女の目が輝くたび、彼女自身の過去の傷や今のもやもやを押しのけるような無理な笑顔が浮かんだのが、空にはわかる。
女の子はムラトの反応に驚き、一瞬だけ動揺したように見えたが、すぐにまた無邪気な笑顔を取り戻した。「じゃあ500円ならどうかな?負けてあげるよ!」
「空、行くぞ。この人と遭遇したらのちの人生が台無しにされる可能性があるからな」ムラトは、少し真剣な表情を作りつつも、冗談交じりに空を促すように立ち上がった。
「おいおい、本気で逃げるのかよ。そこまで言うなら、もう行くしかないな」と、空も冗談めかしながら立ち上がる。二人は女の子の無邪気な笑顔を残して、少しずつ歩き始めた。背後では、女の子が元気な声で「ありがとうございましたー!」とお辞儀をした。その声が風に乗って、耳元をかすめる。
公園の出口へ向かう途中、空はふと立ち止まり、振り返った。まだ物売りする女の子の元気な声が、どこか遠い記憶の扉を叩くように聞こえてくる。彼は、ムラトの顔を見つめて言葉を選ぶように口を開いた。
「本当にいいのか?500円なら買ってあげられるよ。思い出の中の宝物みたいなものさ。」
空の言葉にムラトは一瞬黙り込んだ。彼女の目には、子供の頃の記憶がちらついているようだった。自分もあの女の子のように、無邪気な笑顔で何かを売ろうとしたことがあったかもしれない。だが、今の自分にはその無邪気さを完全に取り戻すことはできない――そんな気持ちが彼女を捉えていた。
「空、思い出に引きずられてばかりじゃダメだよ」
その言葉は、どこか自分自身にも言い聞かせているようだった。ムラトは再び歩き出し、空も静かにその後を追った。公園の出口に近づくにつれて、二人の背後で響いていた子供たちの笑い声が次第に遠ざかっていく。冷たい風が木々を揺らし、葉がひらひらと地面に落ちる。二人はその音に耳を傾けながら、黙々と歩き続けた。
やがて、ムラトはぽつりとつぶやいた。「空、今みたいな人は既に親とか支援が滞ったことで、あんな無邪気さの裏には、もしかしたらもっと切実なものが隠れているかもしれないんだよね。私たちが見たのは一瞬の笑顔だけど、その裏に何があるのかなんて、わからないよね」
空はムラトの言葉を聞きながら、何かを考え込むように目を細めた。彼もまた、過去の記憶が胸をよぎったのだろう。かつて無邪気だった自分や、ムラトと出会った頃のこと。そのときも、何かしらの傷や孤独を抱えていた子供たちが、この世界にはたくさんいた。だけど、そのことをすべて知ることはできないし、すべてに手を差し伸べることもできないのだという現実を、彼らはもう痛いほど理解していた。
「空、今の時代は崩壊したんだよ。今まで親が居て有難かったことや、何気ない支えが当たり前だと思っていたこと――そんな日常すら、どこかで壊れてしまった人たちがいるんだよ」とムラトは、空に視線を合わせないまま静かに続けた。その声には、儚さと少しばかりの無力感が混ざり合っていた。
空は言葉を選びながら、思いを巡らせる。過去に囚われることが多い彼にとって、ムラトの言葉は鋭く心を刺した。彼らが抱えるもの、失ったもの、その重さを考えれば考えるほど、彼もまた自分の無力さを痛感せざるを得なかった。
「でもさ、何か救いはあったはずでしょう?」
空は小さく息をつきながら、ムラトに目を向けた。彼の瞳は、何かを探し求めるように揺れている。希望を信じたい気持ちと、それが見えない現実の狭間で揺れ動く心が、その視線に映し出されていた。
「無い。私はそれを経験してるから、簡単に希望を語るのは無責任だと思ってる」ムラトは強い口調で言い切りながらも、その声にはどこか震えが混じっていた。彼女の中で、過去の辛い出来事や失ったものへの思いがよぎったのだろう。空はその様子に気づき、静かに彼女を見つめた。
「ムラト、少し冷たすぎないか?」
ムラトはふっと息を吐いた。彼女の口元が少しだけ緩んだようにも見えたが、その目はまだ硬いままだった。空の言葉が痛みを刺激し、過去の苦しさが彼女の心を締め付けているのだろう。
「空、ここは日本だ。私はずっと、自分がここに馴染むのは無理だと思っていた。何かを失って、何かを得て、でも心のどこかで何かが欠けたままだった。それは誰のせいだと思う?」
空は少しの間、ムラトの言葉を受け止めて黙り込んだ。公園から離れる道すがら、無邪気な子供たちの笑い声はもはや聞こえない。静かな道を進みながら、彼はムラトの瞳の奥にある悲しみと怒りを感じ取ろうとしていた。
「ムラト……」
「何て? この国の住人じゃないか、空。私がこの子供を助けなかった理由ならこの国のトップを呼べばいい。もし私が故郷に帰ったら死刑だ死刑。でも今したら皆が愚痴愚痴言うから出来ないんだ」
空はムラトの心に残る苦しみや、彼女が背負っている重荷の重さを受け止めようとしていた。しかし、どう声をかけていいか分からず、再び公園の出口を見つめる。そして少し間を置いた後、彼女は静かに言葉を紡ぎ出す。
「空、私は冷たい人でも悪い人でもない。ただ現実があまりに複雑で、どうにもならないことが多すぎるだけなんだよ。時に、何かを見て見ぬふりをするしかないんだ――私たち自身を守るためにもね」ムラトはそう言いながら、公園を出た先に伸びる道をじっと見つめていた。彼女の言葉には、どこか諦めと、それでも何かを信じたい気持ちが入り混じっていた。
空はムラトの横顔を見つめながら、言葉の意味をかみしめる。何かを守るために、何かを見過ごす――それが時には残酷な選択であっても、現実の中で生きていくためには仕方のないこともあるのかもしれない。
「分かってる。俺も同じように感じることがあるよ。目の前にある現実から目を逸らしたい時だって。けど、あの女の子の笑顔は……たとえ一瞬でも、誰かの記憶に残るかもしれないだろう。それが、ほんの少しでも何かの救いになることを願いたいんだ。」
空の言葉に、ムラトは少しだけうつむいた。彼の心の奥底にある優しさと理想、それを受け止めることができない自分の弱さに気づきながらも、彼女は自分の感情を隠すように笑みを浮かべた。「そういうところ君らしいよな。無駄な希望を抱いて、何もできなくなるのは」
ムラトの冷ややかな言葉には、どこか自己防衛的な響きがあった。しかし、空はその裏にある本当の気持ちを感じ取っていた。彼女もまた、何かを信じたいと願っているのだろう。その願いが無残に打ち砕かれた経験を積み重ねてきたからこそ、彼女は今の自分を作り上げたのだ。
「空、さっきのあれは君の危険が過去がよみがえるのが怖いだけ。だから、少し距離を取ってしまうんだ。もし救いたいのなら今のうちに呼んだら?」空はムラトの言葉に耳を傾け、彼女の胸の内にある葛藤を感じ取った。公園を出た道は、どこか無機質な静けさに包まれているように感じられるが、二人の間にはまだ多くの感情が渦巻いているようだった。彼は歩みを止め、ムラトに向き直った。
「わかった」
空は一度深く息を吸い込み、改めてもう一度ベンチの場所に戻って、空はベンチの方を見つめた。公園のベンチは先ほどと同じように、子供たちの笑い声が遠くからかすかに聞こえる中、空は一瞬立ち止まってベンチを見つめていた。彼の瞳はどこか寂しげで、同時に何かを決意するかのような強さも見えていた。
ムラトもまた、空の視線を追い、ベンチに座っていた時の静かな時間を思い返していたかのようだった。
「ムラト、もう余計なこと言うな」
空の言葉は、どこか説得に満ちていたが、同時に静かで重かった。その言葉を受けて、ムラトは何かを言いかけたが、結局口を閉ざした。彼女の瞳には、複雑な感情が浮かんでいる――痛み、悲しみ、そしてほんの少しの希望のようなもの。
空は再び、あのベンチの方へ歩き出した。その背中を見つめながら、ムラトは目を閉じて深く息を吸い込む。過去に囚われていた自分自身と、そこから抜け出したいと思う自分の葛藤が胸の中で渦巻いているのを感じていた。
「空、私は悪くないよ。動けないだけだから」
「あーそうか。いつでもお前を訴えてたっていいさムラト。動けるか動けないかなんて関係ない」
空は静かにムラトの方を振り返り、少し硬い表情を浮かべながら言った。彼の目には、何かを超えようとする意志が宿っていた。その言葉にムラトは、一瞬だけ驚いたような顔を見せたものの、すぐに視線を逸らした。
空は再びベンチの方へ向かい、あの物売りの女の子を探した。しかし、彼女の姿はもう見当たらなかった。辺りには風が吹き抜け、先ほどの子供たちの笑い声も、どこかかすかに聞こえるだけだった。まるであの出来事が一瞬の幻であったかのように、静寂が公園を包んでいた。
空は立ち止まり、しばらくその場に立ち尽くした。どこか物寂しい気持ちを胸に抱えながら、辺りを見渡す。彼はただの子供の遊びだったのか、それとも何か別の意味を持つ出来事だったのか、はっきりとした答えは得られなかった。しかし、自分の中で何かが変わろうとしているのは確かだった。
少し離れたところから、ムラトが歩み寄ってきた。その歩みはゆっくりで、どこか躊躇するようなものを感じさせる。彼女もまた、何かを考え込んでいたのだろう。彼女の表情は、普段の冷たさをまとったものではなく、どこか疲れたようで、そしてほんのわずかに優しさが漂っていた。
「居ないな空。あいつ、どこかに行ったんだろうな」
ムラトがそう言って、少しだけ微笑んだ。その笑みには人を嘲笑うような冷たさで全く穏やかなものが感じられなかった。
空はムラトの笑みに怒りを燃やし、砂を投げるとムラトは驚きながらも、素早く砂を避けた。彼女は一瞬、驚きに目を見開いたが、その後すぐに冷たい笑みを浮かべて空を見つめた。
「空、何の真似だ?」
「ムラト、いい加減にしろよ」空の声は、怒りを抑えつつもどこか切実な響きを帯びていた。彼は再び砂を握りしめながらムラトを見据えた。
「今まで我慢してたけど、もう我慢できない。お前がずっと自分を守るために壁を作って、誰も寄せ付けないのは見てきた。でもな、人を笑うのはおかしいだろ!!」
ムラトの表情が一瞬強張り、彼女はゆっくりと目を細めた。風が二人の間を通り過ぎると、その静寂は、次の言葉を引き出すためのわずかな間を生んだ。砂を握りしめた空の手は、少し震えているように見える。彼の言葉は深く刺さり、ムラトの心に残った壁を揺るがしていた。
「空、私が笑ったのは――自分自身のことだ。そしてあまり大声出すな」
「あ?いい加減にしろ。お前が摘発したんだろ」
空はムラトの言葉を飲み込むように沈黙したが、次第にその沈黙の重さが彼の胸にのしかかっていく。彼は深く息を吸い込むと、少しずつ言葉を紡いでいく。
「ムラト……お前が自分を笑うのは、勝手だ。だけど、他の誰かの傷つく笑顔まで巻き込んでしまうのは違うだろう? 空気読めないのか?」
空の言葉にムラトは再び表情を曇らせた。彼女の中で何かが張り詰めていたようで、その緊張が彼の言葉によってほんの少し解けるように見えたが、すぐに冷たい目を取り戻して空を見つめた。
「環境かな」
「あ? 本当にいい加減にしろ」
ムラトは目を細め、冷静な声でそう言った。しかしその声の奥には、隠しきれない痛みと哀しみが感じられた。彼女が作り出す壁は、無意識のうちに自分自身を守るためだけではなく、過去の傷を外に見せないための防衛策でもあったのかもしれない。彼女は、自分の内側の傷ついた部分を誰にも触れさせたくない――そう強く思っているのだろう。
空はその言葉を聞きながら、再び怒りを抑え込んだように大きく息を吐いた。彼はムラトの言葉の裏にあるものを感じ取りつつも、簡単にそれを許すことはできなかった。彼女が抱える痛みと、それを他人に向けている無意識の行動が、彼自身をも苦しめていたのだから。
空とムラトの間に沈黙が広がり、冷たい風が二人の間をそっとすり抜けていった。すると背後から、彼らの名を呼ぶ小さな声が聞こえた。二人はその声に振り返った。そこには、先ほどの小さな女の子が立っていた。手にはまだ藁で作られた小さな皿を大事そうに抱えている。
「お兄さん、お姉さん、まだここにいたんだ!」
その声には、無邪気な明るさがあった。しかし、空とムラトにはその明るさの裏にある小さな不安や寂しさが、少しだけ見えたような気がした。空はその場で少し黙り込んだが、やがてゆっくりと女の子に歩み寄った。彼女は皿を差し出し、目を輝かせながら言った。
「これ、特別なものだから、もう一度買ってほしいの!」空は女の子の差し出す藁の皿をじっと見つめた。中には、さっきと同じように花びらや小石、どんぐりが並べられていたが、その配置が少し変わっているようだった。
彼はその小さな違いを見つけ、微笑んだ。
「ありがとう。でも、君がこれを持っていてくれると、もっと価値が上がるんじゃないかな?」女の子は首をかしげ、少し考え込んだような表情を浮かべた。
「でも……売らなきゃいけないんだよ」と、かすかに悲しげな声で言う。空はその言葉を聞きながら、胸が少し締め付けられるような気持ちになった。
その時、ムラトが一歩前に出た。「なぁ、君。どうしてそれを売りたいんだ?」彼女の声はいつものように冷たくはなく、どこか優しさがにじんでいた。
「……お母さんが喜ぶって言ってたから」
その一言に、空とムラトは一瞬、言葉を失った。女の子の背後にある事情が、彼らには少しずつ見えてきた。お母さんのために――ただそれだけの純粋な気持ちで彼女は頑張っていたのだ。空は静かに女の子の頭に手を乗せ、優しく微笑んだ。
「君はすごく頑張ってるね。でも、これを無理に売らなくても、お母さんはきっと君の笑顔が一番の宝物だよ。」
その言葉に女の子は目を丸くし、しばらく空を見つめていたが、やがて涙を浮かべて静かに頷いた。彼女の目からこぼれた涙は、まるで長い間抱えてきた重荷が少しだけ軽くなったかのように見えた。ムラトもその様子を見つめながら、自分の胸に手を当てて、静かに息を吸い込んだ。
「おい君、金だろ? いくらだ」
二人の話を遮ったのは、先ほどまで沈黙していたムラトの声だった。手に軽く小銭入れを握りしめていた。彼女の目にはどこか優しさが宿っており、子どもの純粋な努力を応援しようとするような温かさを感じさせる表情を浮かべていた。
「金だ。いくらだだって」
女の子はムラトの声に目を瞬かせ、一瞬戸惑った表情を浮かべたが、すぐに笑顔を取り戻して「うん!500円でいいよ!」と言った。その言葉に空も少し驚いた表情を見せたが、すぐに静かに微笑んだ。ムラトが少しおどけた表情を浮かべながら小銭入れを開け、5000円札を手に取る。
「じゃあ、これで交渉成立だな」と言いながら、ムラトは5000円札を女の子に手渡した。その手つきは丁寧で、どこか温かみがあった。女の子は5000円札を両手で受け取ると、驚いた表情でムラトを見上げた。彼女の目には、大きな驚きと喜びが混ざり合っていた。
「え!? お、お札!? う、受け取れないよ!?」
「5000円だろ? 丁度じゃないか」
ムラトはやや意地悪そうに笑いながら、女の子に言った。彼女は困惑しつつも、その純粋な眼差しをムラトに向けた。「でも、そんなにたくさんもらえないよ…お母さんに、ちゃんとした金額でって言われてるから…」彼女の声は、必死に自分の役割を守ろうとするような響きがあった。
その姿を見て、ムラトの表情は少しだけ柔らかくなった。「わかったよ。じゃあこうしよう、最も高級な花を買おう。残りのお金は、チップだ。どうかな? 公正な取引じゃないか?」
ムラトの提案に、女の子は少しの間戸惑っていたが、やがて少しずつ笑顔を取り戻した。そして、うなずくと涙をこぼしながら「ありがとう!」と大声で叫んだ。その声は公園中に響き渡り、周囲の人々も一瞬立ち止まって二人を見つめた。ムラトの目にも、かすかな涙が浮かんでいた。彼女は素早く顔を背けて、空が気づかないようにしたが、空はその仕草を見逃さなかった。
「なんだ、ムラト優しいじゃないか」
空の軽い言葉に、ムラトは少しだけ目を細めた。「違う。ただの気まぐれだよ」と言いながらも、その声にはどこか穏やかさが混ざっていた。空はそれを感じ取り、静かに微笑んだ。
女の子は満面の笑みでムラトに「ありがとう!」と何度も言いながら、何度もお辞儀をした。その姿は無邪気で、目の前に広がる現実とはかけ離れた温かさを持っていた。ムラトはその無垢な笑顔に少し目を細め、心の中で何かが解けていくような感覚を覚えた。しかし、それを表には出さずに軽く頷いた。
「おい、気をつけろよ。大事に使えよ」と、ムラトは冗談っぽく言いながらも、その言葉の裏には真心がこもっていた。女の子は何度も「うん!」と力強く頷き、走り去っていった。その小さな背中を見送る空とムラト。しばらくの間、二人は何も言わずにその場に立ち尽くしていたが、やがて空が静かに口を開いた。
「ムラト、さっきの口調が嘘みたいにあの子供優しい顔をしてたよ」
「口だけだ。覚えとけ」
「それでも、ありがとな」空はムラトの言葉を軽く受け流すように微笑んだが、その目は真剣だった。彼にとって、ムラトの少し強がるような態度の裏に隠された優しさが見えた瞬間だった。
「これからもさ、たとえ口だけでもいいから、そういう一面を見せてくれよ」空は歩きながらそう言った。どこかでムラトがこれ以上自分を傷つけないよう、少しでも心を軽くして欲しいと願う気持ちが込められていた。
ムラトは沈黙を続けながら、空の言葉を聞いていた。胸の中では複雑な思いが渦巻いていた。自分の内側にある弱さを誰にも見せたくなかった。強がることでしか自分を守れなかった――でも、それがいつか自分の心を縛りつける鎖になっているのかもしれないと感じていた。
「空、お前、余計なこと言うなよ。絶対誰にも言うなよ」ムラトの声は低く、少し震えていた。彼女の目はどこか遠くを見つめていたが、その瞳にはほんの少しの揺らぎが見えていた。
「分かってるよ。何も言わないよ」空はそれ以上追及せず、ただムラトの隣を歩き続けた。公園から続く道を進みながら、二人の間には以前よりも少し柔らかな空気が漂っていた。
風が再び吹き抜け、木々の葉がさやさやと揺れる音が響く。先ほどの女の子が去った公園のベンチを、二人は一度振り返って見つめた。そこには、彼らが少しだけ触れた温かい思い出が残されているように感じられた。
「ムラト、お前はこれからもその姿でいてくれよな」
「うるさい。私は自分の姿でいく」ムラトは空をちらりと見て、少しだけ微笑んだ。その微笑みは、わずかに力を抜いたように見えた。
「じゃあお前は嫌いだな~」
「はいはい、ごめんなさいな」ムラトは笑いながらも、どこか安心したような表情を浮かべた。その表情を見た空もまた、心が少しだけ軽くなるのを感じた。
彼らはその後も、風の吹く道をゆっくりと歩き続けた。あの物売りの子も再び姿を見せ、彼女の笑顔や涙の瞬間は、二人の心の中に深く刻まれたようだった。今までの怒りが吹き飛んだようにムラトのお陰で先ほどまでの重い空気は少し和らいでいた。
風が再び吹き抜け、公園の出口に近づくと、ムラトがふと立ち止まった。「空、さっきのことなんだけど……」彼女の声は、どこか迷いと決意が入り混じった響きだった。
空は歩みを止め、ムラトに振り返る。その目には静かな優しさと、彼女の言葉を待つ余裕があった。「なんだ?」
ムラトは一瞬言葉に詰まり、目を伏せた。彼女の中で何かを伝えたい気持ちと、それをどう表現していいのかわからない混乱が交錯していた。そして、ようやく彼女は口を開いた。「……私がさっき言ったこと、忘れてくれ。無意識に言ったつもりだったけど、お前には伝わりすぎたみたいだな」
空はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。「忘れるなんてできないだろう。それに、お前が本音を見せたのは、俺にはちゃんと伝わった。だから、そう言われても困るよ。」
ムラトは何も言わず、しばらく黙っていた。彼女の心の中では、いろんな思いが交錯していたが、言葉にするのは難しかった。空がそんな彼女をじっと見つめ、そっと近づいて手を伸ばした。「ムラト、恥ずかしいのは分かるよ。俺も昔はそうだったし上手く人に伝えれなかったよ。寧ろ君の方が偉いしね」と空は優しく語りかけた。その声にはどこか落ち着きと、ムラトの心にそっと寄り添うような温かさが感じられた。
ムラトは空の言葉を静かに聞きながら、少しの間じっと空を見つめた。彼の眼差しはまっすぐで、どこか揺るぎないものを感じさせる。「偉いなんて君の方が……」
「俺はまだ子供だよ。そう、いろんなことに振り回されて、どんなに背伸びしても結局は迷ってばかりだ。でも、それでも俺は今を生きてる。君だって同じだろ?」
空の言葉にムラトは一瞬黙り込み、目を伏せた。彼の言葉は、彼女の胸の奥に何かを響かせた。自分も同じだ。過去や未来に引き裂かれるようにして、今の自分をどう捉えればいいのか分からない。それでも、目の前の瞬間を必死に生きている。
「空、君はさ……」ムラトは口を開いたが、言葉を見つけるのに少し時間がかかった。「まだ子供だって言うけど、君のそういうところが嫌いになれない。何だか、見てると少しだけ、忘れてしまいそうになるんだよ。全部の重いものをね」
彼女の言葉は、静かでどこか穏やかな響きを持っていた。空は彼女の顔をじっと見つめ、優しい笑みを浮かべた。「それなら、それでいいんじゃないか? 重いものを全部抱えたままだと、どこかで潰れちゃうんだろうし。少しでも、楽になれたらさ」
「簡単に言うなよ……」ムラトはつぶやき、顔を少し赤らめながら空を見つめた。しかしその目には、どこか柔らかさが戻っていた。彼女の中で、少しずつでも何かが解けていくのを感じているようだった。
「簡単に、だよ。俺たちにできることなんて、結局そんなに多くないんだと思う。でも、少しでも心が軽くなる瞬間があるなら、そいつを大事にしていこうぜ。」
空の言葉に、ムラトは少しだけうなずいた。風が二人の間を通り過ぎ、葉が舞い落ちていく。その中で二人は、公園から続く道を再び歩き始めた。目の前の空には、薄い雲が広がっているが、少しずつ光が差し込み始めていた。その光が二人の背中を照らし、やがて彼らの影を地面に映し出す。
歩きながら、空はふとムラトに目を向けた。「ムラト、もう一度さ、あの子がいたら何て声をかける?」
「次に会ったら……そうだな……なんて言えばー」
「ムラト、俺は君のことを馬鹿にしないし、全く怒らないよ」
ムラトは一瞬だけ言葉を詰まらせたが、そのあと深く息を吸い込んだ。彼女の中で、どこか心の奥底に沈んでいた感情がほんの少し顔を出したような気がした。そして、少し苦笑いを浮かべながら、肩をすくめて言った。
「次に会ったら、もう少しまともな話ができるようにするよ。でもさ……もしあいつが今みたいに無邪気でいられるなら、それを壊すような言葉は言いたくないんだ」
ムラトの言葉に、空は静かに頷いた。彼女の言葉の裏に隠れた優しさと、傷つくことを恐れながらも誰かを気遣う気持ちが伝わってきた。二人は言葉を交わさず、ただ並んで歩き続ける。
空はふと空を見上げて、少し曇った空に差し込む陽の光を見つけた。
「秋なのにまだ日差しが熱いなー」秋の陽射しが強く、空は少し汗ばむ額を拭いながら、目を細めて空を見上げた。太陽の光が雲間から差し込み、彼の瞳には眩しく映る。ムラトはその様子を横目で見ながら、少しばかり苦笑いを浮かべる。彼女もまた、陽の光に目を細めていたが、心の中に重くのしかかっていたものが少しだけ軽くなった気がしていた。
「今日の気温25度らしいぞ」空は額の汗を拭いながら、木々の揺れる音を耳にして立ち止まった。ムラトも同じく、視線を遠くの空に投げかけていたが、彼女の中には微かな動揺と何か新しい気持ちが混ざり合っていた。
「25度かー秋とは思えないなー」空はつぶやきながら、少し汗を拭った。「うん、ちょっと熱いかな」
「そうだな。でも、これが今の俺たちにはちょうどいいのかもな。少し暖かい方が、心も冷えなくて済むだろ」空は冗談めかして笑い、額の汗を軽く手で拭った。二人はしばらく言葉を交わさず、ただ歩き続けた。道の両側には秋の紅葉が色づき始めており、木々の葉が風に揺られては舞い散る様子が美しかった。その景色を見ながら、ムラトは少しだけ微笑みを浮かべた。空はまだ汗を拭って、彼が本当に熱のかと思うと何か手伝う必要があった。自分の中で揺れる感情を抱えながらも、ムラトは裾からハンカチを取り出し、空に差し出す。「ほら、使え」
「おう、ありがとう」空は少し照れくさそうに笑いながら、それを受け取った。その仕草に、ムラトもほんの少しだけ顔を緩めた。二人は歩き続けながら、秋の風を感じていた。風が吹くたびに木々の葉が舞い、季節の移り変わりを告げる。公園の喧騒から離れた静かな道を進む中、二人の間には言葉にできない何かが流れていた。空はムラトに手渡されたハンカチで額を軽く拭きながら、ふと笑みを浮かべる。「こんなに気を使ってもらえるとは思わなかったな。ありがとう、ムラト」
「気を使ったわけじゃない。単に、お前が汗だくで見苦しいからだ」
ムラトは軽く肩をすくめて言い放つが、その表情はどこか柔らかい。空もそれを感じ取って、口元に微笑を浮かべた。二人が共有する静かな時間は、少しずつ彼らの間にある隔たりを埋めていくようだった。
その瞬間、歩いた方向から女の子の叫び声が聞こえてきた。後ろを振り向き、歩いたルートを目視で辿ると何か嫌な予感がした。空とムラトは互いに顔を見合わせ、歩いてきた道の方へ見る。遠くから聞こえてきた女の子の声には、何か切羽詰まったものが感じられた。ムラトは眉をひそめ、足早に戻るように歩き出した。空もすぐにその後を追いかけた。
二人が公園へと戻ると、そこにはさっきの物売りの女の子が、不良たちに囲まれながら怯えた表情で地面に押さえつけられていた。彼女の目には恐怖と混乱がにじんでいる。高身長の不良の一人が、彼女の手にあった藁の皿を取り上げ、粗雑に扱っている。
「こんな木の枝で金を集めてんのか?ちょっと面白いじゃねぇか」不良の一人が冷笑を浮かべ、藁の皿を地面に叩きつけた。花びらや小石が散らばり、女の子は涙をこぼしながらそれを見つめていた。周囲にいた他の不良たちも嘲笑いながら取り囲んでいる。
その瞬間、空が強い怒りを感じた。体の中に火がつくような衝動が走り、彼は駆け寄った。「何してる! やめろ!」声を張り上げながら空は、不良たちの輪の中へと飛び込んだ。彼の瞳には、ただ一心に女の子を守りたいという気持ちが宿っている。
不良たちは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに冷笑を浮かべた。「なんだよお前? 関係ねぇだろ」
一人の不良が空に向かって挑発的に言い放った。空は鋭い目で不良を見つめながら言葉を吐き出す。
「いいから、その子から離れろ」
ムラトもまた冷静な表情を浮かべて不良たちの前に立った。その目は鋭く、普段見せる冷たい態度とは異なり、静かな怒りが滲んでいた。「数で威圧するのは卑怯だな。ここで何してるんだ?」
不良たちはムラトの強い眼差しに一瞬ひるむが、すぐに顔を歪める。「なんだよガキ。怖い顔して」
「こいつ強がってんじゃないか? 先輩よぉ」
とある不良の男が皮肉な笑みを浮かべながらムラトに近寄る。空は再び身を固め、不良たちの動きに気を配るように目を鋭く細めた。周囲にはさっきまでの平和な公園の空気が嘘のように、緊張感が漂っている。ムラトもまた一歩前に出て、声を低くしながらも冷静に言葉を発する。
「おい、いい加減にしておけ。あんたたちがやっていることはただの暴力だ。子どもを脅して何を得るつもりだ?」
不良たちは一瞬ムラトの言葉に驚いたが、すぐにゲラ笑いをした。「っははは!!馬鹿だこいつ!! おい!! 写真だ! 写真撮れ!」
不良たちの嘲笑が響く中、空とムラトは互いに視線を交わし、心を固めるようにした。彼らは、目の前の女の子を守り抜く覚悟を決めていた。空は静かに女の子に目をやり、震えるその姿に心を強く揺さぶられる。彼の体中に怒りと使命感が沸き上がり、何よりもこの理不尽な暴力を止めることが必要だと強く感じた。
「もういい加減にしろ!」空が再び声を張り上げる。その言葉に一瞬だけ不良たちは動きを止めたが、すぐに冷笑を浮かべて再び挑発するように動き出す。
「どうしたんですかぁ~?そんな怒っちゃって~?」スマホを片手に二人と細身の男性が来いよっと挑発すると、一瞬だけその場の緊張を感じながらも互いの目を見て、心を固めた。空は拳を軽く握り締め、彼らの挑発に乗るのではなく冷静に状況を見極めようとしていた。しかし、目の前で怯えている女の子を見て、心の中に燃え上がる怒りを抑えるのは難しかった。
ムラトもまた、心の奥で何かを抑え込むように目を閉じ、そして静かに目を開いた。「このままやり過ごすことはできないんだな……」そうつぶやいた彼女の声には、覚悟が感じられた。
「おい、そこのガキ~何か言いたいことがあるなら、言ってみろよ~」不良たちの一人が空に向かって挑発をする。その声は、完全に相手を見下して楽しんでいるようだった。空はその視線を受け止めながらも、ゆっくりと口を開いた。
「俺は、この子を守る。それだけだ。お前らのやり方が許されると思うなよ」空の言葉は静かでありながらも鋭く、不良たちの間に微妙な緊張感を生み出した。しばらくの間、静寂が訪れたかと思うと、一人の不良が突然笑い出し、他の仲間たちもそれに続いて嘲笑を響かせた。
「守るだと? おいおい、ヒーロー気取りかよ!」不良のリーダー格の男が冷笑を浮かべながら近づく。彼の動きに合わせて、他の仲間もじりじりと空とムラトを取り囲むように歩を進めてきた。女の子は地面にしゃがみ込み、恐怖に震えていた。
ムラトは静かに一歩前に出て、女の子を守るように立ちはだかった。「もういい、これ以上ふざけるな。ここで暴れるつもりなら、俺たちも黙ってはいない」
その瞬間、リーダー格の男がムラトに向かって手を伸ばそうとした。しかし、空は素早く動いて男の腕を払いのけた。「触るな!」鋭い声が響き、周囲の空気が一瞬ピリついた。不良たちは明らかに驚き、目を見張ったが、すぐに態勢を立て直して二人を囲んだ。
「おいやったな? ちょっと痛い目合うぞ?」と、不良たちの苛々の口調が二人を脅す。しかし、空とムラトは怯むことなく、その場に立ち続けた。空は目の前のリーダー格を見据え、ムラトは女の子のそばで守るように立ち尽くす。二人の心には、決して引かないという覚悟があった。
「最後の警告だ。ここから立ち去れ」ムラトの声は冷たく響いたが、その言葉の中には相手に対する本気の意思がこもっていた。不良たちもその目を見て、一瞬の迷いを見せた。しかし、その中の一人が声を上げ、勢いをつけるように再び動き出そうとする。
その瞬間、不意に遠くから男性の罵声が聞こえてきた。警察を呼んだのか……しかしパトカーのサイレンは鳴ってない――不良たちは一斉に顔色を変え、焦った様子で辺りを見回した。「おい見ろ!? 銃持ってるぞ!?」
その瞬間、空とムラトは状況を見極めるべく、一瞬で周囲を警戒した。確かに遠くから何者かの影が近づいてくるのが見えたが、銃を持っているようには見えない。だが、不良たちは一瞬にして狼狽し、状況を理解しないまま、その場を離れようとした。
「お、おい! 行くぞ!」リーダー格の男が仲間に指示を飛ばし、彼らは散り散りに逃げていったが、道路から出てきたスーツ姿の男性は素早い速さで走りながら何かを手に持っているのが見えたが、それは携帯ではなく、実銃だった。彼は鋭い眼光で不良たちの姿を追いながら、冷静な声で叫んだ。
「動くな!!」
不良たちは一瞬怯み、男性の声に驚いて動きを止めたが、すぐにその場から逃げ出す者もいた。本物の銃のように見えるが、空やムラトから見て明らかに威嚇用の模造銃であることに気づいた。しかし、リーダー格の男は怯え、銃口を構えるスーツ姿の男性の指示に従った。
「このままここでじっとしていろ!!」男性の声が再び響き、不良たちは完全に動きを止めた。彼の冷静な態度と模造銃の威圧感に押されて、彼らは抵抗する気力を失っていた。やがて、スーツ姿の男性はリーダー格の男に手錠をかけながら、ゆっくりと落ち着いた声で言った。「時刻午前11時36分。暴行容疑で現行犯逮捕!」
スーツ姿の男性がリーダー格の男に手錠をかける一方で、周囲に散り散りになって逃げていた他の不良たちも次々と現場に駆けつけた警察官によって確保されていった。公園は一瞬にして喧騒に包まれ、不良たちが抵抗する声や、警察の命令が飛び交う中で状況は収束に向かいつつあった。
空とムラトは、目の前で展開される出来事を見守りながらも、少しだけ緊張が解けていくのを感じた。容疑者を逮捕した後彼はゆっくりと立ち上がり、空とムラトの方に歩み寄ってきた。その眼差しは鋭く、どこか冷静で、同時に深い経験を感じさせるものだった。空は一瞬、その鋭い目に圧倒されるような気がしたが、すぐに気を取り直して相手を見据えた。
スーツ姿の男性は静かに身分証を取り出し、空とムラトに見せた。そこには特殊捜査機関の徽章が刻まれており、彼がただの一般人ではないことを示していた。「失礼しました。わたくし、こういう者です」と丁寧な口調で言いながら、名乗りを上げる。その声には、冷静さと共に何かしらの重い責任を背負っているような響きがあった。
空は少しの間、彼の言葉を受け止めながら、険しい表情で相手を見つめた。「民警の……4号警備。人の警備か?」
スーツ姿の男性は、空の言葉に首を横に振り、冷静な口調で応じた。「間違ってはないけど惜しいです。警備会社の身辺警備業務に所属しています。主に皇居を守ったり、スポーツ選手なども守ったりしてます。危険から身を守り、安全を保つことが主な役目です。君たちが驚くのも無理はないが、ここ最近、このエリアで不穏な動きが続いている。君たちが関与したことを咎めるつもりはないが、これ以上深入りすることは控えてもらいたい」
その言葉に空は警戒心を緩めることなく、険しい表情を崩さなかった。「深入りするなって、俺たちはただ、あの女の子を助けたかっただけだ。それが間違いなのか?」
「間違いではない。むしろ、彼女が無事だったのは君たちのおかげだと認識している。しかし、この件は単なる不良グループの嫌がらせ以上に複雑な背景が絡んでいる。君たちが無関係でいる方がいいのだ」男性の言葉は淡々としていたが、どこか警告を含んでいるようにも聞こえた。
ムラトが一歩前に出て、男性をじっと見据えた。「待て待て、私たちも一様警備するを学んできた身だ。それに、君の言い方には何か隠しているように感じる。『単なる不良グループの嫌がらせ以上』というのは、どういう意味だ?」ムラトの問いかけには、疑念と少しの怒りが混じっていた。
スーツ姿の男性は一瞬だけ目を細め、ムラトの顔を静かに見つめた後、ゆっくりと視線を外した。そして、低い声で続ける。「そうだな……少し話しすぎたかもしれない。だが、君たちには事情を知る権利があるかもしれないな。ただし、これを聞いて、余計に関わろうなどと思わないでほしい」
空とムラトは黙ってその言葉を待った。男性は深く息をつきながら説明を始めた。
「実は、この地域では最近、複数の組織が暗躍しているのが確認されている。表向きは単なる不良グループだが、裏では何らかの『物資』の取引や、人の管理が行われている疑いがある。そして、我々の調査によれば、その背後にはさらに大きな組織が存在している……」
「物資の取引、人の管理……」空が思わずつぶやいた。「それって……人身売買とか、違法取引の類か?」
男性は目を細め、わずかに口元を引き締めた。「断言はできないが、近いものだと考えている。我々も全貌を把握できていない。だが、今日君たちが対峙した不良たちは、おそらく組織の末端に過ぎないだろう。彼らが女の子を脅していたのも、恐らくは何かの見せしめか、組織に従わせるためのものだ」
ムラトの眉がさらに険しくなった。「それで、君たちはその動きを見て見ぬふりをしようとしていたのか?」
男性は一瞬だけ目を伏せ、答えた。「私たちも動ける範囲に限りがある。しかし、少しでも状況を改善するために動いている。だが、一般の人間が巻き込まれることは避けたい。特に君たちのような……若い人たちにはな」
その言葉に空は息を詰まらせたが、すぐに反論した。「限り? 今さっき逮捕してたじゃないか」
その問いに、スーツ姿の男性はしばし黙り、言葉を選ぶように少しの間を置いた。彼の視線は空の強いまなざしにしっかりと向けられ、その冷静さの裏には、言い尽くせないような重みが宿っていた。
「そうだ、逮捕はした。だが、あの連中は氷山の一角に過ぎない。君たちの行動に感謝はしているが、これは君たちが想像しているよりも遥かに大きな問題だ。この場にいる連中を逮捕しても、すぐに別の手が伸びてくる。組織全体を壊滅するには時間がかかるし、計画的に動かなければならないんだ」
ムラトはその説明に耳を傾けながら、空に解釈をする。「空、相手は保安官だよ。一般の警察と公安とは違って、彼らは通常の捜査や逮捕権限を持ちながらも、より特殊な任務に従事している。つまり、この国のジャーマンシェパードってこと。私たちが知っているような手法では通用しない状況や相手と戦っているんだ」
空はムラトの解説にうなずきながら、スーツ姿の男性に視線を戻した。「つまり、俺たちはこの件には首を突っ込まない方がいいってことか?」
「その通りだ」と男性は静かに答えた。「君たちは、ただあの子を助けた。それ以上の行動に関しては、我々に任せてほしい。万が一、この組織に君たちの存在が知られれば、どんな危険が待っているかわからない」
空はしばらく黙り込んでいたが、ゆっくりと息を吐き出して言った。「分かった。でも、もしまた誰かが危険にさらされていたら……俺はまた動くと思う。黙って見過ごすなんてできない」
男性はその言葉に微かに微笑んで、わずかにうなずいた。「それが君の行動なのだろう。だが、その勇気は敬意を表するが、ここでは命取りになることを覚えておいてほしい」
ムラトは空の肩に軽く手を置き、静かに頷いた。「分かった、私たちはこのことは忘れるよ。でも……彼女たちを守るために、君たちも全力を尽くしてほしい。私たちはいつでも力を貸す準備はある」
「ありがとう。ご協力感謝します」と男性は穏やかに微笑み、再び名刺を差し出した。「もしどうしても連絡が必要な場合、ここに連絡してくれ。私の名は片桐だ。危険が迫った時だけにしてほしいが、約束するよ――必ず応える」
空はその名刺をしばらく見つめ、黙ってポケットにしまった。片桐が女の子の元に戻り、彼女を優しく保護しながら連れて行く姿を見送りながら、二人は静かに公園を後にした。空とムラトの心には、未知なる組織の恐ろしさと、自分たちにできる限界への苛立ちが残っていた。
彼らが歩き出すと、空がふと口を開いた。「ムラト、結局あの人達って誰だ?名前聞いても全く知らないし」
ムラトは少し考え込み、ゆっくりと答えた。「確かに民警っていうと警備会社のではあるけど、あそこまで深い話になるとは思わなかった。普段はセキュリティや身辺警護を請け負う企業のはずだ。でも、『4号警備』と言っていたから、もしかしたら……ただの民間企業の警備だけじゃないのかもね」
空はムラトの言葉にうなずきながら、再び考え込んだ。「確か、皇居とかの警備も担当していると聞いたけど、まさかあそこまで組織的に動いているとは思わなかったな。もしあれが本当だとしたら、表に出せないような特殊な任務も抱えているということか……」空の声には、驚きと不安が入り混じっていた。
ムラトはふと立ち止まり、木々の間からこぼれる陽光を見上げた。「民間の警備会社が、国のためにそこまで動く理由が気になるね。ただ単に契約に基づく業務としてやっているとは思えない。片桐さんが言っていた『複雑な背景』が、何か大きな闇に繋がっている気がする」
「その通りだろうな」と空は小さくつぶやきながら、ポケットにしまった名刺を再び手に取って見つめた。「俺たちが首を突っ込むべきではないと言われても、見て見ぬふりができるほど器用じゃないからな。でも、あの片桐って男の目を見たとき、何かを背負っているのは感じた。単に俺たちに遠ざかって欲しいわけじゃないんだろう」
「そうかもね」とムラトは言葉を継ぎ、少し口元を引き締めた。二人が言いかけたところで、背後からかすかな「痛い」という声が聞こえてきた。二人は振り返り、声の方を見つめた。物売りの少女が腕を抑えながらこちらに歩いてきていた。彼女は少し怯えた表情を浮かべていたが、それでも二人を見つけて安堵の色を浮かべていた。
「お兄さん、お姉さん……さっきの人、怖かったけど、助けてくれてありがとう」
空とムラトは驚き、駆け寄って彼女の様子を確認した。「大丈夫か?腕、痛むのか?」と空が心配そうに尋ねると、少女は小さく頷いた。軽い擦り傷のようだったが、彼女はそれでも笑顔を見せようとしている。
ムラトが少し考え込み、ハンカチを取り出して少女の腕に軽く押さえた。「これで少し楽になるかもしれない。お家に帰ったらちゃんと消毒するんだよ」
少女は小さく「うん」と恥ずかしそうに答えたその時、急に膝が崩れたように少女はその場に倒れた。すぐに空とムラトは少女に駆け寄り、彼女の体を支えた。脈を図ると少女の脈は微かで不安定だった。空は驚きながらも落ち着いた声で言った。「ムラト、すぐに救急車を呼んでくれ!」
ムラトは一瞬戸惑いながらも、素早く携帯を取り出し、救急の連絡を始めた。その間、空はポケットから緊急検査用品を取りだし、空は焦りながらも、少女の瞳孔を小型ライトで確認すると目も薄く開いたまま焦点が合っていなかった。腕や足に障害や痣もないことから脳への直接の外傷だと判断したものの、原因がわからず焦りを感じた。彼は少女の手をそっと握り、安静を保ちながらできるだけ落ち着いた声で「生きてくれ」と囁いた。最悪なケースは脳出血が疑われる場合、このまま放置すると命に関わる可能性が高い。空の心は不安と焦燥感でいっぱいだったが、できるだけ冷静を保ちながら、救急車の到着を待った。ムラトも通信相手に少女の状態を詳しく伝え、応急措置の指示を受けながら周囲の人にも協力を求めていた。
小型心電図では徐々に脈拍が低下し、彼女の生命兆候は不安定さを増していた。空は即座にムラトに命令した。
「ムラト!AED持って来てくれ!」
「わかった!」
ムラトはすぐさま周囲を見渡し、公園にあるAEDの方に、全力で駆け出した。心の中で祈るような気持ちで、少女の命を救うために迅速に行動を起こしていた。しかし、AEDが設置してあるのは限られた場所で、ムラトが最終的に駆け寄ったときは大分時間が経っていた。
空は少女の意識が徐々に薄れていくのを感じながら、できるだけ穏やかに彼女を呼び、意識を保つように声をかけていた。「しっかりするんだ! 寝るな!」
数分後、ムラトがAEDを持って戻ってくると、空は素早く少女の状態を確認し、AEDのパッドを装着して機械を起動した。AEDが心電図を読み取る間、空とムラトの表情は固く、息を飲んで機械の指示を待った。
「ショックが必要です」機械の音声指示が響き、空は周囲に「離れて」と声をかけ、ムラトと共にAEDのボタンを押す準備を整えた。そして、少女の命を救うために、心を強くしてAEDのショックを行った。
一瞬の間があり、少女の体が小さく跳ねた。心電図の方にはまだ脈拍が戻っておらず、空とムラトの胸に緊張が走った。空は少女の手を握りしめ、呼びかけを続けながら冷静に次のステップを考えていた。「もう一度、AEDの指示を待とう」と自分に言い聞かせるように言った。そのとき、ムラトが彼の肩に手を置き、沈黙を破るように言った。「彼女はまだ、頑張ってる。諦めるな。」
機械が再度心電図を解析し、次の指示を出す。「再びショックが必要です」ムラトと空は静かに頷き合い、慎重に周囲の人々に再び注意を呼びかけた。二人の目には、少女を救いたいという強い意志が宿っていた。
「全員、離れて!」空が声を張り上げると、彼とムラトは静かにボタンを押した。再び小さなショックが走り、少女の体がわずかに跳ねる。しかし、全く回復兆しが見えなかった。空の手は震え、胸の中に焦燥感が押し寄せる。ムラトもその様子を見つめながら、内心では祈るような気持ちで次の指示を待った。
「お願いだ……生きてくれ……」空は心の中で必死に願いながら、少女の手を握りしめた。その時、心電図に変化が現れた。微弱ながらも脈拍の波形が再び現れ、わずかに呼吸が戻りつつあることが確認された。空は胸を撫で下ろし、ほんの少しだけ希望を感じることができた。ムラトも深い息をつき、空の肩を叩いた。「まだだよ」
まもなく救急車のサイレンが遠くから響き渡り、公園の入り口に到着した。救急隊員が迅速に駆けつけ、空とムラトは状況を説明しながら少女を引き渡した。
救急隊員は手際よく処置を進め、少女の命をつなぐために全力を尽くしていた。空とムラトは、その光景をじっと見守りながら立ち尽くしていた。
「これはまずい……」
一人の救急隊員が静