魔王城の大広間は、ひどく広くて、冷え冷えとしていた。
高い天井は薄暗い影の中だ。黒い石の柱が何本も並び、壁の青白い魔法の灯りがゆらゆらと揺れている。
広間は静まり返っていたが、どこかから聞こえる低い古い言葉の詠唱だけが、単調に響き続けていた。香の匂いが鼻につく。死者の魂を導くためのものだという。
「ヴァレリウス様も、とうとう逝かれたか」
誰かがひそやかに囁いた。
「ああ。これで魔界も変わるだろうな……良くも、悪くも」
別の声が応じる。その声には、悲しみよりも別の感情が滲んでいた。
──そう、今行われているのは長い間、魔界を支配した先代魔王ヴァレリウスの葬儀。
彼の力が失われた今、この場にあるのは、表向きの悲しみと……空になった玉座を巡る、むき出しの野心。
「……」
魔王の葬儀に、集まった魔界の有力者たち。その中でも、ひときわ強い気配を放ち、互いを窺う九人の姿があった。
この九人こそ、次期魔王の座を争う後継者候補たち。いつ何が起きてもおかしくない危うさが、荘厳な儀式の裏で渦巻いていた。
──なんという茶番。主役が死んで、次の主役を狙う役者たちが、悲しい顔で集まっている。
そんな冷めた声が、広間のどこかから聞こえた気がした。いや、声に出した者などいるはずもない。
ただ、張り詰めた空気そのものが、そう囁いているかのようだった。
集まった有力者たちの中でも、九人の後継者候補たちは、否が応でも注目を集めていた。
彼らは互いを意識し、探り合いながら、それぞれのやり方でこの場に「存在」していた。
「おぉ、おぉ……我が君よ!何故、ワシよりも早く逝ってしまわれたのだ……!」
最前列に立つのは、歴戦の勇将、オーガ族のボロク将軍だ。山を思わせる巨大な体躯に、古傷の残るいかつい顔。その顔を、今は大粒の涙が濡らしていた。
彼は声を震わせ、男泣きにむせんでいる。忠誠心に厚い、武骨な将軍──少なくとも、表向きはそう見えた。
だが、涙に濡れたその目が、時折他の候補者へ向けられる瞬間、そこに殺意の光が宿るのを、注意深い者なら見逃さなかったかもしれない。
「あぁ陛下。おいたわしいこと……」
その少し斜め後ろには、宮廷魔術師筆頭のリラ女史が控えている。艶やかな黒絹のドレスをまとい、背中から漆黒の翼を広げ、扇子で口元を隠した姿は、悲しみの場には不釣り合いなほど妖艶だ。
彼女の唇には、常に微かな笑みが浮かんでいるように見える。呟く声も、どこか芝居がかっていた。
扇子の陰から覗く瞳は鋭く、獲物を品定めするように、他の候補者たちや広間の隅々までを素早く、そして正確に観察していた。
「……」
また別の場所には、全身を漆黒の鎧で覆った騎士が、石像のように微動だにせず立っていた。兜の面頬が降ろされ、その素顔も、性別すらも窺い知ることはできない。
ただ、その場にいるだけで周囲の空気を圧するような、ただならぬ威圧感を放っている。他の者たちも、不用意に近づこうとはしない。
沈黙こそが、この騎士の不気味な力の証明だった。
「ふん」
そして──ひときわ不遜な態度で柱に寄りかかっているのが、マルバス公爵だ。
彼は他の候補者たちを、隠そうともしない侮蔑の視線で見回している。荘厳な儀式も、悲嘆にくれる者たちも、彼にとっては退屈な道化芝居にしか見えないらしい。
時折、小さく鼻で笑うような仕草を見せ、その傲慢さを隠そうともしなかった。彼にとって、先代魔王の死は悲劇ではなく、待ち望んだ機会の到来でしかなかったのだ。
将軍は涙し、魔術師は微笑み、騎士は沈黙し、公爵は嘲笑う。
その広間の、端──。
蝋燭の火が届かぬ、深い影の中に、一人の青年がひっそりと立っていた。書庫番が着るような、飾り気のない質素な灰色のローブをまとっている。
「……」
手には記録用らしき薄い石板を持っているが、特に何かを書き留める様子もない。ただ、広間の中央で繰り広げられる光景を、何の感情も映さない静かな瞳でじっと見つめているだけだ。
彼の存在はあまりに地味で、巨大な広間の装飾の一部か、あるいは壁の染みのように、ほとんど誰の注意も引いていなかった。
荘厳な詠唱はまだ続いている。
先代魔王ヴァレリウスは死に、玉座は空位となった。
魔界の運命は、今この場に集う者たちの、仮面の下の素顔に委ねられている。
広間の影では、名もなき書庫番の青年が、ただ静かに全てを見つめていた。