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記憶の追従
記憶の追従
ごだい
BL現代BL
2025年05月11日
公開日
4,272字
連載中
――目を覚ましたとき、彼はすべてを失っていた。 名前も、過去も、愛した人さえも。 都会の喧騒に紛れ、見様見真似で日々をつないでいたアラタ。 そんな彼の中に、ある夜から「夢」が差し込むようになる。 それは誰かと過ごした記憶――温もりと、確かな恐怖が混ざり合った断片。 そして夢が導いた先は、新宿の雑踏。 そこで彼は、不思議な男と出会う。 弁護士・黒羽風は、どこか優しく、どこか冷たい。 表情の奥に潜む狂気を、Aはまだ知らない。 黒羽は言う。 「家がないなら、僕のところに来ればいい」と――。 夢と現実の境界が曖昧になる中、少しずつ戻っていく記憶。 その先に待っていたのは、愛と執着、そして罪で結ばれた過去。 「君は僕のものだ。ずっと、前から。」 これは、記憶を失った青年が、かつて愛し、そして逃げた男との 終わらない”再会”に巻き込まれていく物語。 ミステリー×ホラー×BL×恋愛。 甘く狂おしい執着の先に待つ、驚愕の真実とは――。

第1話 目覚め

目を覚ましたとき、世界は灰色だった。


いや、正確には――色が、感じ取れなかった。

視界に映るものすべてが、何か一枚、薄い膜を隔てて存在しているような感覚。輪郭はあるのに、手応えがない。現実感が希薄だった。


意識の底で、誰かが自分を呼んでいる気がした。

けれど、その声は水の中から聞こえてくるように曖昧で、遠くて、輪郭がぼやけていた。男か女かもわからない。ただ、その声に心がかすかに震えた気がした。

思い出そうとすると、頭の奥で小さな痛みがはぜた。

わからない。わからない。

――そもそも、自分が誰なのかさえ、思い出せなかった。




目を開けたまま、しばらく動けなかった。

身体が重かったのではない。ただ、何かを動かしていいという確信が持てなかった。

世界に対して、自分が何者かすらわからないまま、勝手に存在していいのかどうか。それすらも判断できなかった。




肌に触れるのは、ざらついたシーツの感触。

背中に当たるマットレスは薄く、下の硬さがじかに伝わる。

白い蛍光灯が天井に灯っていた。まるで生命を持たないような光が、部屋全体を無表情に照らしている。

無機質で、整然としていて、どこか“現実味”のない空間。

目を動かすたび、壁の色も、床の質感も、「知っているはずなのに知らない」感覚がつきまとった。


喉を動かしてみる。


「……ここは、どこだ」


くぐもったような、自分の声が耳に届く。

その音に、またしても違和感を覚えた。

自分の声なのに、他人が発したように思える。若い。男の声だと思うけれど、どこか高く、細い。少し息を混ぜたような、繊細な響きだった。




ベッドの脇には、安っぽい金属のフレームがはまった窓。

夜なのか昼なのかもわからない、薄曇りの外光がぼんやりと射し込んでいた。

そのガラスに、自分の影が映った。


黒髪の青年。

頬のラインが柔らかく、整いすぎた顔立ち。唇は薄く、目元にはどこか陰がある。

長めの前髪が瞳を隠し、首筋にかかる髪は風にゆれるような軽やかさを持っていた。

女に間違えられることがあっても、不思議ではない――それが、自分なのだという事実だけが、唯一の手がかりだった。




けれど、その青年の名前も、年齢も、生きてきた日々の記憶も、一つも浮かんでこなかった。

家族の顔も、友人の声も、何もかもが空白だった。


まるで自分が、「物語の途中で書かれなくなった登場人物」のように思えた。

設定だけ与えられて、物語を生きるはずだったのに、途中で捨てられてしまった存在。




胸元で、何かが揺れているのに気づく。


指先でそれをたぐり寄せると、冷たい金属の感触。

銀色の、細いペンダントだった。小ぶりなトップには文字も模様も刻まれていない。

ただ、触れるたびに、妙に心がざわめいた。




そしてもう一つ。

枕元には、ひとつの鍵が置かれていた。

シンプルな、手のひらに収まる大きさの古いタイプの鍵。マンションの玄関用だろうか。キーホルダーなどはついておらず、どこのものかは判然としない。


――これが、自分に残された唯一の「過去」なのか。


指先で鍵を握りしめた。ひんやりとした感触が、やけにリアルだった。

そしてそのリアルさだけが、今の世界で“生きている”という実感をわずかに与えてくれた。


だけど、感情は、まだどこにもなかった。

悲しみも、恐怖も、安堵も。

すべてが、“自分”という器の外側で、ただ静かに浮かんでいるだけだった。


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