目を覚ましたとき、世界は灰色だった。
いや、正確には――色が、感じ取れなかった。
視界に映るものすべてが、何か一枚、薄い膜を隔てて存在しているような感覚。輪郭はあるのに、手応えがない。現実感が希薄だった。
意識の底で、誰かが自分を呼んでいる気がした。
けれど、その声は水の中から聞こえてくるように曖昧で、遠くて、輪郭がぼやけていた。男か女かもわからない。ただ、その声に心がかすかに震えた気がした。
思い出そうとすると、頭の奥で小さな痛みがはぜた。
わからない。わからない。
――そもそも、自分が誰なのかさえ、思い出せなかった。
目を開けたまま、しばらく動けなかった。
身体が重かったのではない。ただ、何かを動かしていいという確信が持てなかった。
世界に対して、自分が何者かすらわからないまま、勝手に存在していいのかどうか。それすらも判断できなかった。
肌に触れるのは、ざらついたシーツの感触。
背中に当たるマットレスは薄く、下の硬さがじかに伝わる。
白い蛍光灯が天井に灯っていた。まるで生命を持たないような光が、部屋全体を無表情に照らしている。
無機質で、整然としていて、どこか“現実味”のない空間。
目を動かすたび、壁の色も、床の質感も、「知っているはずなのに知らない」感覚がつきまとった。
喉を動かしてみる。
「……ここは、どこだ」
くぐもったような、自分の声が耳に届く。
その音に、またしても違和感を覚えた。
自分の声なのに、他人が発したように思える。若い。男の声だと思うけれど、どこか高く、細い。少し息を混ぜたような、繊細な響きだった。
ベッドの脇には、安っぽい金属のフレームがはまった窓。
夜なのか昼なのかもわからない、薄曇りの外光がぼんやりと射し込んでいた。
そのガラスに、自分の影が映った。
黒髪の青年。
頬のラインが柔らかく、整いすぎた顔立ち。唇は薄く、目元にはどこか陰がある。
長めの前髪が瞳を隠し、首筋にかかる髪は風にゆれるような軽やかさを持っていた。
女に間違えられることがあっても、不思議ではない――それが、自分なのだという事実だけが、唯一の手がかりだった。
けれど、その青年の名前も、年齢も、生きてきた日々の記憶も、一つも浮かんでこなかった。
家族の顔も、友人の声も、何もかもが空白だった。
まるで自分が、「物語の途中で書かれなくなった登場人物」のように思えた。
設定だけ与えられて、物語を生きるはずだったのに、途中で捨てられてしまった存在。
胸元で、何かが揺れているのに気づく。
指先でそれをたぐり寄せると、冷たい金属の感触。
銀色の、細いペンダントだった。小ぶりなトップには文字も模様も刻まれていない。
ただ、触れるたびに、妙に心がざわめいた。
そしてもう一つ。
枕元には、ひとつの鍵が置かれていた。
シンプルな、手のひらに収まる大きさの古いタイプの鍵。マンションの玄関用だろうか。キーホルダーなどはついておらず、どこのものかは判然としない。
――これが、自分に残された唯一の「過去」なのか。
指先で鍵を握りしめた。ひんやりとした感触が、やけにリアルだった。
そしてそのリアルさだけが、今の世界で“生きている”という実感をわずかに与えてくれた。
だけど、感情は、まだどこにもなかった。
悲しみも、恐怖も、安堵も。
すべてが、“自分”という器の外側で、ただ静かに浮かんでいるだけだった。