しばらくして、部屋のドアが軋むような音を立てて開いた。
「目が覚めたんですね」
現れたのは、白衣を着た中年の医師だった。表情は穏やかだが、目の奥に職業的な観察眼が宿っている。その後ろに、控えめな看護師が一人。何か言いかけたが、アラタの顔を見て口をつぐんだ。
「ここは病院です。新宿近くの救急搬送先です。あなたは三日前、駅前の高架下で倒れているところを通行人に発見されました。幸い、命に別状はなく、外傷も軽い打撲程度でしたが……記憶が、ないんですね?」
アラタは小さく頷いた。
「名前も……全部、わかりません」
「警察にも確認しましたが、身元を特定できるものが何もなくて。財布や携帯も持っていなかったようです」
医師は少し躊躇いながら言葉を選んだ。
「あなたは、おそらく……記憶喪失です。一過性のものか、何らかの強いショックによるものかは、今はまだ判断できませんが。少しずつ思い出す可能性もあるので、焦らずに過ごしてください」
アラタはもう一度、胸元のペンダントと枕元の鍵を見た。
自分の“過去”を指し示す手がかりがそれしかないことに、改めて冷たい現実を突きつけられる。
「――名前、決めてもいいですか?」
「……?」
「呼ばれる名前がないと、落ち着かないので。今、なんとなく……“アラタ”って名前が浮かびました。自分でつけるのも変ですけど……」
「アラタくん、ですね。構いませんよ。じゃあ、今後はそう呼びましょう」
アラタ。
それが本名かどうかもわからないが、不思議とその音がしっくりきた。
“新しい”という意味を含むその名は、過去を失った自分にぴったりだった。
退院後、アラタは仮設の保護施設に送られる予定だったが、それを断った。
何かを思い出すには、“他人に守られる場所”よりも、“自分で歩ける場所”が必要な気がした。
持ち物は病院で預かっていた鍵とペンダント、そして施設から渡された小銭程度の生活費。
数日分の衣服は寄付品から選んだ。サイズはぴったりだったが、それすらも奇妙に感じる。
そして、アラタは街に出た。
都市の風は冷たかった。
誰もが忙しなく歩き、誰もが誰かを見ていない。
アラタのような“名前を持たない人間”でさえ、道の片隅に溶け込めてしまう。
それは奇妙な安心感でもあり、同時に途方もない孤独だった。
数日間、アラタは街を彷徨った。
人々の所作を真似してコンビニの使い方を覚え、公園のベンチで夜を越した。
ふらりと立ち寄った図書館で人の言葉を学び直し、Wi-Fiのあるカフェで他人の話を盗み聞いた。
そうして少しずつ、名前のない自分のために、“仮の人格”を貼り付けていった。
そして――ある夜。
夢を見た。
いや、夢というにはあまりに生々しく、痛みがあった。
白い部屋の中で、誰かが泣いていた。
その声は微かに震えていて、それを聞いた自分は、酷く胸がざわついた。
泣いていたのは、男だった。
白いシャツに、黒いジャケット。鋭い目つき。けれど声は優しかった。
その男がこちらを見て、名前を呼んだ。
「……アラタ」
その声で、アラタは目を覚ました。
喉が渇いていた。額には汗。
息が荒く、心臓がバクバクと騒がしく鳴っている。
夢の記憶は、朝の光の中で輪郭を失っていく。
けれど、あの男の声だけは、確かに記憶に焼き付いていた。
そして、その夢の中で――見覚えのあるビル街が一瞬、背景に映っていた。
それは、どこかで見たことがある風景。だが“どこか”が思い出せない。
けれど不思議と、“その場所”へ行かなければならない気がした。
数日後。
アラタは“夢に出てきた風景”を手がかりに、新宿へと足を向けた。
それが、“再会”の始まりになるとも知らずに――。