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第2話 アラタ

しばらくして、部屋のドアが軋むような音を立てて開いた。


「目が覚めたんですね」


現れたのは、白衣を着た中年の医師だった。表情は穏やかだが、目の奥に職業的な観察眼が宿っている。その後ろに、控えめな看護師が一人。何か言いかけたが、アラタの顔を見て口をつぐんだ。


「ここは病院です。新宿近くの救急搬送先です。あなたは三日前、駅前の高架下で倒れているところを通行人に発見されました。幸い、命に別状はなく、外傷も軽い打撲程度でしたが……記憶が、ないんですね?」


アラタは小さく頷いた。


「名前も……全部、わかりません」


「警察にも確認しましたが、身元を特定できるものが何もなくて。財布や携帯も持っていなかったようです」


医師は少し躊躇いながら言葉を選んだ。


「あなたは、おそらく……記憶喪失です。一過性のものか、何らかの強いショックによるものかは、今はまだ判断できませんが。少しずつ思い出す可能性もあるので、焦らずに過ごしてください」


アラタはもう一度、胸元のペンダントと枕元の鍵を見た。

自分の“過去”を指し示す手がかりがそれしかないことに、改めて冷たい現実を突きつけられる。


「――名前、決めてもいいですか?」


「……?」


「呼ばれる名前がないと、落ち着かないので。今、なんとなく……“アラタ”って名前が浮かびました。自分でつけるのも変ですけど……」


「アラタくん、ですね。構いませんよ。じゃあ、今後はそう呼びましょう」


アラタ。

それが本名かどうかもわからないが、不思議とその音がしっくりきた。

“新しい”という意味を含むその名は、過去を失った自分にぴったりだった。




退院後、アラタは仮設の保護施設に送られる予定だったが、それを断った。

何かを思い出すには、“他人に守られる場所”よりも、“自分で歩ける場所”が必要な気がした。


持ち物は病院で預かっていた鍵とペンダント、そして施設から渡された小銭程度の生活費。

数日分の衣服は寄付品から選んだ。サイズはぴったりだったが、それすらも奇妙に感じる。


そして、アラタは街に出た。




都市の風は冷たかった。

誰もが忙しなく歩き、誰もが誰かを見ていない。

アラタのような“名前を持たない人間”でさえ、道の片隅に溶け込めてしまう。

それは奇妙な安心感でもあり、同時に途方もない孤独だった。


数日間、アラタは街を彷徨った。

人々の所作を真似してコンビニの使い方を覚え、公園のベンチで夜を越した。

ふらりと立ち寄った図書館で人の言葉を学び直し、Wi-Fiのあるカフェで他人の話を盗み聞いた。

そうして少しずつ、名前のない自分のために、“仮の人格”を貼り付けていった。




そして――ある夜。


夢を見た。


いや、夢というにはあまりに生々しく、痛みがあった。


白い部屋の中で、誰かが泣いていた。

その声は微かに震えていて、それを聞いた自分は、酷く胸がざわついた。


泣いていたのは、男だった。


白いシャツに、黒いジャケット。鋭い目つき。けれど声は優しかった。

その男がこちらを見て、名前を呼んだ。


「……アラタ」


その声で、アラタは目を覚ました。


喉が渇いていた。額には汗。

息が荒く、心臓がバクバクと騒がしく鳴っている。


夢の記憶は、朝の光の中で輪郭を失っていく。

けれど、あの男の声だけは、確かに記憶に焼き付いていた。


そして、その夢の中で――見覚えのあるビル街が一瞬、背景に映っていた。

それは、どこかで見たことがある風景。だが“どこか”が思い出せない。


けれど不思議と、“その場所”へ行かなければならない気がした。




数日後。


アラタは“夢に出てきた風景”を手がかりに、新宿へと足を向けた。


それが、“再会”の始まりになるとも知らずに――。


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