新宿。
昼でも夜でも、騒がしさの途切れない街。
無数のネオンと看板、溢れる人の波、入り組んだ路地裏。
アラタは、その喧騒の中に足を踏み入れた。
夢で見たビル街に、どこか既視感があった。
それだけを頼りに、地図も見ずに歩き回る。高層ビルが並ぶ西口。雑多な居酒屋と風俗店の連なる歌舞伎町。煌びやかさと裏腹の匂いが混ざった空気。
(……どこかに、何かがある気がする)
見たことのないはずの街を、なぜか懐かしく感じる。
それは帰る場所を探すような感覚ではなく、「取り残してきた何か」を拾いに来たような――そんな気持ちだった。
夜。
アラタは新宿駅東口近くの広場にいた。
腰を下ろしたコンクリートの縁石は冷たく、通り過ぎる人々の会話が断片的に耳に届く。カップルの笑い声、サラリーマンの酔い声、若者たちの騒ぎ。
誰も、アラタを気にしない。
いや――一人だけ、違う人間がいた。
「……寒くないですか?」
ふと、声をかけられた。
低く、落ち着いた声。聞き慣れないはずなのに、鼓膜が微かに震えた。
振り返ると、黒いコートを羽織った男が立っていた。
30代前半、整った顔立ちに無駄のない所作。黒髪は丁寧に整えられていて、目元は切れ長で涼しい。だが、その奥の何かが、読めない。
彼の目を見た瞬間、アラタの心臓が一拍、強く打った。
「……あなたは?」
「ああ、ごめんなさい。驚かせましたね。僕は黒羽 風(くろば・かぜ)といいます。弁護士です」
「弁護士……?」
「この辺りで、若い子たちの保護活動をしていまして。あなた……まだ十代くらいかと思ったので、声をかけたんです」
風は穏やかな笑みを浮かべた。
けれどその笑みは、どこか温度がなかった。演技というほどではないが、あまりに整いすぎている。それに――目が笑っていない。
「……俺、アラタです。多分、20代だと思います」
「“多分”?」
アラタは少し躊躇ったが、正直に打ち明けた。
「……記憶がなくて。数日前に目が覚めたら、何も思い出せなかったんです」
風はわずかに目を細めた。
その瞬間、アラタは確信した。
この男は、自分に“何かを知っている”。
けれど彼は、何事もなかったように頷いた。
「……それは、大変でしたね。でも、生きていてよかった。今夜は冷えます、よかったら温かいものでも一緒にどうですか?」
一瞬迷ったが、アラタは頷いた。
“この人に何かを知っているかもしれない”という直感が、理性を超えていた。
ファミレスの隅。
風は静かにコーヒーを飲みながら、アラタの話を聞いていた。
自分の記憶喪失のこと。夢を見ること。ペンダントと鍵しか持っていなかったこと。話すほどに、風は興味深そうに微笑み、時折メモを取った。
「……夢の中で、新宿を見たんです。それで、ここに来てみたら……あなたに会った」
「運命、という言葉は信じますか?」
風の声が、妙に耳に残った。
「僕は……偶然のように見えて、全ては理由があると信じてる。たとえば今日、ここであなたに再会できたことも」
「“再会”……?」
アラタの眉がわずかに動く。
その言葉に、何かが引っかかった。
風はそれ以上言葉を重ねなかった。
ただ、優しく微笑んだまま、視線を逸らした。
その夜、アラタは風の紹介で簡易シェルターに泊まることになった。
だが、目を閉じても眠れなかった。
あの男――黒羽風。
彼の目の奥には、何かを「隠している」気配があった。
けれど、決して怖くはなかった。むしろ、妙な懐かしさがあった。
そしてアラタは、その夜もまた夢を見た。
今度は――自分の名を、あの男が囁く夢だった。