「アラタくん、おはよう。昨夜は眠れましたか?」
朝。
陽の差さない地下の簡易シェルター。
パーティションで区切られた簡素なベッドに腰掛けていたアラタは、入口に立つ黒羽風の声に顔を上げた。
「……うん。まあ、なんとか」
言葉とは裏腹に、目の下には薄くクマができていた。
眠れなかった原因は、夢だ。
昨夜の夢は違っていた。
どこかの部屋。暗く、狭く、鉄の扉が閉ざされている。
その中に、自分はいた。拘束されて。
誰かの声がする。男の声。耳元で、やさしく名前を呼ぶ声――「アラタ」と。
(あれは……風の声に似ていた)
思い出そうとするたびに、意識の奥で何かが疼いた。
「……体調が悪いようなら、今日は休んでもいいですよ」
「いや、大丈夫です。……どこか、連れていってくれるって言ってましたよね?」
「ええ」
風は穏やかに微笑んだ。
アラタの返答を、すでに予想していたかのように。
午前中、二人は新宿御苑を歩いた。
風の提案だった。朝の散歩と、新鮮な空気。都会の騒がしさから離れ、心を落ち着かせる場所。
季節は秋。風に乗って色づいた葉が舞い、アラタの肩に一枚、はらりと落ちる。
「……不思議だな。こうして歩いてるだけなのに、どこか懐かしい感じがする」
アラタはつぶやいた。
「たぶん、以前も来たことがあるんでしょうね。誰かと。……記憶って、完全には消えません。どこかに、必ず痕跡が残るものです」
「……“誰か”って、誰だろう」
風は答えなかった。
けれど、ふとアラタの方へ視線を向けたその表情には、一瞬だけ翳りが差した。
その後、カフェで軽い昼食を取った帰り道――
アラタはふと、ある言葉を口にした。
「ねえ、風さんって……前に、俺と会ったこと、ある?」
風は少しだけ足を止めた。
そして笑みを浮かべたまま、答える。
「どうして、そう思ったんですか?」
「なんとなく、なんだけど。……初めて会った気がしないというか。夢の中で、誰かが俺を呼ぶんです。“アラタ”って。その声が……風さんに似ていて」
風の笑みが、わずかに深くなった。
「だったら、そうかもしれませんね。夢というのは、時に真実の影を映すものですから」
答えになっていない。けれど、否定もしない。
アラタは胸の奥がざわめくのを感じた。
「もし……もし、俺が風さんの知り合いだったとしたら、どうします?」
「そうですね」
風は手にしたコーヒーをゆっくりと口に運び、静かに言った。
「たぶん、もう一度……あなたに惚れると思います」
アラタは言葉を失った。
何かが心の奥で引き金を引いた。
懐かしくて、だけどどこか怖い――そんな感情。
その夜、アラタはまた夢を見た。
今度は、誰かと笑っていた。
大学のキャンパスのような場所。自分の隣には、短髪で眼鏡をかけた青年――誰だ? ……
夢の中では、その青年と何かを誓い合っていた。
「俺たち、絶対、作品を出そうな。二人の名前で」
目が覚めたとき、アラタの手は小さく震えていた。
夢の中の彼は、現実よりもずっと“自分”らしかった。
彼と笑っていた時間が、確かにあったような気がした。
翌朝、アラタは小さなノートを買った。
夢の内容を忘れないように、書き留めておこうと思ったのだ。
ページの一番上に、こう記した。
「夢の記録――自分を探すために」