朝。
目覚めると、夢の余韻が指先に残っていた。
夢の中、アラタは誰かと肩を並べて歩いていた。
キャンパスのような広場。風が強く吹いていて、二人の声が風にかき消されそうになっていた。
その隣にいたのは、眼鏡をかけた青年。どこか生真面目で、けれど柔らかく笑うその表情は、妙に心に引っかかる。
夢の中では自然に名前を呼んでいた気がする――「ユウ」、そう口にしていたような気がした。
アラタは手帳に夢の内容を書き留めた。
夢:
場所 → 大学? 青いベンチと掲示板
人物 → 眼鏡の青年(ユウ?)
内容 → 二人で作品を出そう、と話していた
気持ち → 安心感。信頼していた。大切な人。
記録を終えると、胸元にぶら下がった銀色のペンダントにふと視線を落とした。
このペンダントも、もしかしたらその“ユウ”という人物と関係があるのかもしれない。
そして――枕元にあったあの古い鍵。あれも。
アラタは、鍵を握りしめた。
(この鍵の先に、“彼”との記憶がある気がする)
それは、言葉にできない直感だった。
だが、何かが呼んでいる気がした。
その日の夕方、アラタは風に頼んだ。
「この鍵……どこかの部屋の鍵だと思うんです。試してみたい」
風は一瞬だけ表情を止めた。
ほんのわずか――本当に一瞬の、静止。
けれどアラタは、それを見逃さなかった。
「……もちろん、協力しますよ」
すぐに風はいつもの笑みを取り戻した。
「鍵に刻印はないですね。恐らく古いマンションのものだと思います。明日、心当たりを一緒に回ってみましょう。少しずつ、でも確実に。あなたの記憶を、取り戻しましょう」
アラタはうなずいた。
けれどその夜――風の後ろ姿を見送った時、なぜか背中に冷たいものが走った。
まるで、背中に目を感じたような、そんな感覚。
その夜も、夢を見た。
今度は、暗い部屋だった。
自分は泣いていた。縛られていた。
そしてその前にいたのは、黒い影。
影は言った。
「君は、僕のものだ。ずっと前から」
目が覚めると、アラタは汗でシャツを濡らしていた。
息が荒く、胸の奥がざわざわと波立っている。
けれど、同時に確信した。
この夢は、ただの幻ではない。
過去に“本当に起きたこと”だ――。
翌朝。
風は車で迎えに来てくれた。
車内での会話は、いつも通りに穏やかだった。
だが、アラタはふと、サイドミラーに映る風の表情を見た。
窓に映るその瞳は、まっすぐではなかった。
どこか、別の場所――誰か別のアラタを見ているようだった。
その日、二人は新宿周辺の古びたマンションを数件巡った。
アラタが持つ鍵が合うか、ひとつひとつ確かめていく。
結果は――すべて不一致。
だが、ある一棟のマンションに立ち寄ったとき、アラタは足を止めた。
見覚えがある。目の奥がチカチカするほど、何かが蘇りかけた。
「……ここ、かも」
「試してみましょう」
鍵を差し込む――回らない。
だがその瞬間、アラタの頭の中で何かが弾けた。
視界が歪む。
黒い部屋、冷たい床、ドアの前に立つ自分。
そして――ドアの向こうにいる風の姿。
「開けて……開けてよ……!」
必死に叫んでいる自分。
それを、ドア越しに静かに見つめる風。
「……君は、外に出ちゃいけないんだよ、アラタ」
「アラタくん?」
風の声で、現実に引き戻された。
目の前には、何も変わらないマンションのエントランス。
だがアラタは、全身から汗が噴き出しているのに気づいた。
「……ごめんなさい。ちょっと、記憶が混ざってきたのかも」
「無理はしないでください。今日はもう戻りましょう」
風の声は相変わらず優しかった。
けれど、アラタはもう、完全にはその声を信じきれなくなっていた。