翌朝、と言っても昼頃か。
きゅうりマタタビ堂に泊めてもらったオレは、おいしい朝食をいただいたあと、大阪のビジネス街に足を運んでいた。
通勤時間がとっくに過ぎていると言っても、ダルくなるほど人が多い。慌ただしく早足で颯爽と歩いて行く姿は、なんとも哀れに見えた。
いや、わかるよ。この時代、ただ生きることがどんなに金のかかることか。
普通に生きようとするだけで電気代もスマホ代も、光熱費も保険料もかかる。平安の頃のような働き方じゃ、とてもじゃないけど生きられない。
だけどなぁ、なんて思ってしまうわけだ。
心と体を殺してまで仕事に捧げる人生なんて、生きてる意味がないじゃないかと。
「獏が見せてくれたのは、確か……」
キョロキョロと見回し、記憶と一致する場所を探す。
あの夢はあまりに鮮明で、起床から通勤風景、勤め先、いつも通っている定食屋、帰りに惣菜を買って帰るコンビニに至るまで、すべてが現実感を
おかげで──
「あ、あった!」
なんなく目的の場所を発見する。
ビルの一階にある、小さな店だ。夜は居酒屋らしいが、昼の間は手頃な値段で定食を食べさせてくれる、らしい。
ちょうど掛け看板が「準備中」から「商い中」に変わったのを確認し、暖簾をくぐる。
気のよさそうなおばさんに定食の注文と、少し長居したいことを伝えると、快く了承してもらえた。
ゆっくりと食事をしながら待つこと、およそ三十分。
「こんにちわぁ」
悪夢の主が、精根尽き果てた表情で入店した。
……本当に、夢で見たままの姿だ。
ヘロヘロのスーツを着た、くたびれきった中年の男。清潔感を指摘されたのか髪だけは整えているけど、それもあってなんともアンバランスだ。むしろボサボサでいたほうがまだ違和感がない。
そんな彼に、店のおばさんが話しかけている。
「今日も大変そうねぇ。また叱られたの?」
「いやぁ、僕の顔色が悪いのがダメなんで……。今度から化粧でもしてこいって言われちゃいましたよ。こんな不景気な顔の社員がいたら、ブラック企業だなんだって言われるからって……」
笑う声にも生気がない。せめて食べて元気を出しなさいと、おばさんが鶏レバーの生姜煮定食を大盛りで出すのが見えた。
それにも、彼は気力のない顔で、引き攣ったように笑うだけだ。
「ありがとうございます、でも大丈夫ですよ。きっと起きれば、なんてことないですから。こんなの、ひょいひょい忘れられますから」
ボソボソと呟きながら、押し込むように食事をとる。
オレが食べた限り、ここの定食はおいしかった。なのにとてもじゃないけど、味わっているようにも見えない。
なんだか見ていられず、会計して店を出たあと、電話を掛ける。
掛けた先は当然。
「もしもし、銀花さんですか?」
「よっしゅきさん! どうえ? 夢主さん、見つからはった?」
「はい、本人を確認してきました。終わらない悪夢、たぶん銀花さんの考えたとおりですね。……これ、獏を治すのむずかしくないですか?」
「そやねぇ。……せやけど、ほっとくのもひどい話やしなぁ」
「なんとかしちゃうんですか?」
「んふふ。なんとか、しよかぁ」
スピーカーの向こうから、くふくふと笑う声が聞こえる。きっといたずらっ子みたいな顔で笑ってるんだろう。
銀花さんがなんとかできるって言うなら、オレはそれに従うだけだ。
実際、なんとかできちゃうんだろうなぁと思っている。
「そしたら、なんとかできるようにいろいろ準備するわ。よっしゅきさんは堪忍やけど、夢主さんのお家も確認してきてくれはる? そのあと、またお電話してくれはるやろか」
「分かりました。確認だけでいいですか?」
「うん、充分え」
また、電車移動だ。今度は地下鉄移動だから少し歩く。この時代に来てから初めて歩く辺りだが、とにかく建物が高すぎて、見上げるだけで口が開いてしまうのは許してほしい。
テレビの中では高層ビルなんて当たり前のように登場してくるけど、実物を見る機会はなかなかない。途中で折れたりしないのか、この時代の技術ヤバいな、なんて感想ばかりが頭をよぎっていく。
そこで不意に、気づかないくてもいい違和感に気づいてしまった。
「……そういえばどうやってこの世界の電話が、妖怪細道に繋がってるんだ?」
それを言うなら携帯電話というやつについても、どういう理屈で他人と話せるようになってるのかも知らないんだけど。
あまり深く考えないようにしようと、頭を振る。考えたところで、今の時代の前提知識そのものが入っていないオレの頭で、理解できるとは思えなかった。
彼の自宅の前まで行って、とりあえず銀花さんに連絡する。場所の確認さえできればそれでいいとのことだったから、あとは一度自宅に戻ってバイトに出た。
なんというか、理不尽に怒られている人間を見たあとのバイトは、あんまり気分がいいモノじゃなかった。いつものクソジジイに舌打ちの一つもしそうになったから、姿を見たらバックヤードに引っ込む始末だ。
その結果、店長から心配されてしまった。そろそろカスハラで出禁にしようかと思ってると告白されが……それはその、一刻も早くやってほしい。悩む必要なんかないだろ。
なんにせよ、今日のオレは大忙しだ。
バイト上がりに半額の刺身やらきゅうりの漬物なんかを買い込み、妖怪細道へと走る。
獏が夢の中じゃなく、現実世界に現れていることの始末をつける予定だと聞いていたから、なんとしてでも駆けつけたかった。
鳥居前で通りゃんせを歌う間にも、足踏みをしてしまう。
「銀花さん、間に合いました!?」
「あにゃ、よっしゅきさん。今日は早いんやねぇ」
「走ってきました! どう始末つけるのか、見届けたくて!!」
「慌てんでも、ちゃあんと待っとるんに。困ったお人やねぇ」
あ、困ったお人発言ありがとうございます、ご褒美です。
なんだろう、人間って優しく叱られたい欲求でもあるのかな。いけない子とか困った人とか、そういう感じの言葉って妙に刺さる気がする。
いや、少なくとも元の時代にはそういう流行はなかったから、オレが令和に毒されただけかもしれない。……それはそれで仕方ない。
「今日よっしゅきさんが、夢主さんのお家から連絡してくれはったやろ? あのとき、電話繋いでくれはった雷獣さんが道筋覚えてくれはってな、それを
にこにこと説明されたけど、思ったよりなにも頭に入ってこなかった。なんか知らない名前がいくつかあった気もするけど、なにより。
……今、銀花さん、雷獣って言った?
雷獣って、帝が家臣に命じて捕まえさせたけど、目が潰れるからって返してこさせたあれ!?
「銀花さん、おめめは!? おめめは無事ですか!?」
「無事え。なぁに、どないしたん」
「どないしたもこないしたもないです! 雷獣なんて使ったら、銀花さんのまん丸おめめが潰れて……!!」
銀花さんのお顔を確認すると、いつも通り可愛いまん丸目がフワフワの毛に囲まれていた。
「……潰れて、ない?」
「お前が言いよぉとは雷神様んことやろ。雷獣とは別モンや」
「あ、トラさん」
トラさんは、背負わないと持てないほどデカい桶を引っさげて奥から出てきた。
ガロンと音を立ててそれを店内に放り出すと、次はそこに、だばだばと水を注ぎ始める。
当然、ホースとかはない。全部トラさんの手から出ていた。
「……以前トラさんに水を掛けられたときも不思議だったんですけど、それってどうやるんです?」
「どうやるもこうやるも、生まれたときからでくるっちゃん。河童は水神ん端くれやけんな、できなぁ名折れや」
「神様なんですかトラさん!?」
「ばかちんが、端くれやて言うたろう。立派なもんやなか」
注がれた水が桶の半分くらい溜まった頃、トラさんは大量の塩をそこに放り込み──最後には奥から、一抱えはある巨大な二枚貝を持ってきた。
……え、怖。
「な、なんですかそれ」
「なにって、
「いや、そもそもシンってのを存じ上げなくて」
「暑い日ぃによぉ見える蜃気楼って、知らはらへん? あれ作ってる妖怪え」
「蜃気楼ってこいつが作ってるんですか!?」
「そうえ。別の場所にいるモンにも、同じようなモンを見せることができる妖怪や。つまり同じモンが見え取る同士なら、どんだけ場所が離れとっても、場を繋げることができるん」
……相変わらず妖怪の理屈は分からない……。
でもそういうもんなんだろう。理解しようとするだけ無理だ。
「
ふん、と銀花さんが力をこめて前のめりになる。可愛い。
それと同時にトラさんが蜃を桶の水に浸し、瞬間、蜃の貝の割れ目からなにかモヤのようなものが噴出した。
あっという間に店内を、モヤが包んでいく。
「ちょ、はぁ……!? 銀花さん、トラさん!?」
「ここにおるえ。大丈夫、心配せんで」
フワフワの手が、オレの手を握る。
……すみません、お恥ずかしい。
真っ白な濃霧の中のようだった視界に、次第になにか別物も浮かび始める。
それこそ、
「なん……え? なんだこれ。オレもう寝ちゃったのか?」
──今日聞いたばかりの、あの疲れ切った中年男性の声だ。
本当に妖怪細道と、大阪にある彼の家が繋がったことに、ちょっと驚いた。もちろん信じてなかったわけじゃないが、こんなにスムーズに繋がるものなのかと絶句してしまう。
「ごめんやす。お兄さん、お話しできはる?」
「はい? ……はぁ。どなたです?」
「嫌やわぁ、お兄さんの夢の中なんやから、好きに呼んでくれはったらええのんよ。うちなぁ、お兄さんの目ぇ覚まさせたげなあかんと思って来たん」
名乗らない、のか。
いや、確かにそのほうがいいのかもしれない。情報量は少ないほうが飲み込みやすい。
「目を覚まさせるって、どういうことですか?」
夢の主は、少し困ったようだった。
「お兄さん、夢の中で夢見てはるやろ? 会社で怒鳴られ続けるって悪ぅい夢、ずっと見てはるやないの」
「っ、じゃああれは! やっぱり現実じゃなくて夢なんですね!? 悪夢なんですね!?」
そういうことだ。
この夢主は辛い現実から逃げたくて、どうしようもなくて、逃げたすぎて、現実を夢だと思い込んでいる。
その結果、
しかも獏が本当の悪夢と、
夢主が起きている間は獏の睡眠時間に割り当てられるはずなのに、それがなくなったせいで獏が睡眠不足に陥って──消化不良にも陥っている、というわけだ。
つまり獏を治すなら、この夢主の勤務状況をなんとかする以外、道がない。
「どうすればいいんですか! どうすればこの悪夢から起きられるんです!!」
「うん、まずはちょお落ち着いて、いろいろお話聞かせてなぁ。……今のお仕事、好き?」
言葉に詰まるのが分かる。
……いや、気持ちが分かるからなおさらだ。仕事を好きとか嫌いで選んでいる人間なんて、あの頃でもこの時代でも、どれくらいいるんだろう。
とりあえず生きるためには仕事に就かなきゃならないから、できる仕事をしているだけ。そんな人間の方が、きっと多いんだと思う。
案の定、夢主もそう考えて──でもそう言うのは戸惑われて……別の言い訳を探しているように見えた。
「あの、えっと」
「ん、好きでもないし、嫌いでもないんやね。それでええんよ。だぁれも責めたりせんよって、素直にそう言うてくれて大丈夫え」
「……はい」
「そしたら、次のこと聞かせてな。よく泣きたい気持ちになったりしたはらへん?」
「……泣きたくは、なってないです。去年まではよく泣いてましたけど、今はもう、しょせん夢の中だしと思って。……ただ、辛いのは辛いです」
トラさんがぼそりと、よぅなかねと呟くのが聞こえた。
「……泣けんのはようなか、ストレスん発散もできとらん状態や。放っといたら、いつどげんなるか分からん」
オレの手を握る銀花さんの手に、力がこもった。少し震えているのが分かる。
オレにはこの言葉が指している事態がどういうことか分からなかったけど──次の瞬間、夢主が笑いながら言った言葉に、背筋が凍る思いがした。
「夢から覚める方法が夢の中で死ぬことだって言うなら、オレ、今からでも死んでやれますよ」