変なんよ、と銀花さんが言った。
さすがに変や、とトラさんも言った。
きゅうりマタタビ堂、ある日の深夜のことだ。
顧問陰陽師就任からしばらく、まったく問題なく日常が過ぎていたらしいこの店に足を運んだのは、七日ぶりくらいのことだった。
気にかかるお客さんが来たとの一報を受けて駆けつけたオレの前で、二人は深刻そうな顔をしている。
「ごめんねぇよっしゅきさん。お仕事で疲れてはるやろうに」
「いえいえ、全然! これも仕事だと思ってますし、昼に寝ればいいんで! 全然問題ないです!」
言いながら、銀花さんはオレに温かいお茶を淹れてくれる。
変わらないこのもてなしがありがたいったらない。冷めた半額弁当も、このお茶でおいしくなるってもんだ。
──事の発端は、いつものようにきゅうりマタタビ堂を訪れた妖怪らしい。
悪夢を食べる、
そんな獏が、食べ過ぎて苦しいから胃もたれに効く薬をくれとやって来たんだそうだ。
オレにとっては特になんてことのないお客に思えるけど、二人にとってこれは、ちょっとした異常事態らしい。
いったん胃もたれの薬を出したものの、強烈な違和感を解消すべく、オレに一報が入ったという次第だ。
箸をすすめながら、首を傾ぐ。
「でも、なにがそんなに変なんですか? 悪夢を食べる妖怪が、食べ過ぎで来たんでしょ? 特におかしな点はなさそうですけど」
「せやねぇ。症状だけ聞いたら、別に変やないんやけど」
言って、またうーんと考えこんでしまう。
銀花さんがここまで違和感を持ってるのに、正体が掴めない事ってなんだろう……。オレの役割はその獏への問診、みたいなモノだと分かってはいるが、もうちょっと詳しい情報がほしい。
トラさんを見ると、水掻きのついた指で頬を掻いた。
「お前んいた時代にはまだおらんやったなら知らんでも無理はなかか。……獏ちゅうとは、
「──え」
「夢ん中で相談ば受けて、夢ん中で作った薬ば渡すならでくるっちゃけど」
「え、ええ!? それが実際に店に来たんですか!?」
「そうや」
それは……思った以上に異常事態だ。そりゃ銀花さんも頭をぐぐーっとナナメにしてしまう。悩みすぎてお顔を洗いだしてしまった銀花さんも可愛い。
「他にも変なことあってなぁ。獏さん、眠そうやったん」
「眠そう──ですか」
「そうえ。獏さんは本来、みんなが起きてるときに寝たはるの。せやしよっぽどやなかったら、寝不足なんてなるわけないんよ」
「確かに、総合するとだいぶおかしな話ですね。……話、聞いてきましょうか。獏の居場所って分かります?」
「もちろん聞いとるよ。おべんと食べ終わらはったら一緒行こか」
◆ ◇ ◆
弁当を掻き込み、きゅうりマタタビ堂を出る。
妖怪細道を歩くのは、実の所初めてだった。いつもは鳥居をくぐったあと、一目散に銀花さんたちのところに向かっていたから当然だ。
改めて見ると、なんとも賑やかな大通りだ。
行き交う影も着物を着ているもの、洋服を着ているもの、裸のものまでいるが、誰一人人間じゃない。どう見ても異形だ。むしろオレだけが異質という状況に、三年前、令和の世に来たばかりの頃のことを思い出す。
それでも不思議と、この街の住民たちはオレに
「ここ、人間も来るんですか?」
「知ってる人はよぉ買い物に来はるよ。ここは妖怪がお店出しとる細道やよって、人間さんが作れへんもんも売っとるしねぇ」
「細道って言うには、立派な大通りですけど……」
「そう見えるやろけど、本来あるもんを歪めて、ようやく作ったほっそい場所らしいん。せやからどんなに大きぃ広ぉ見えても、ここは細道なんやて教えてもろたわ」
「はぁー……」
装飾品店や雑貨店、青果店や鮮魚店、お菓子屋まで並んでいる様子は、まるで観光地の商店街だ。一部とはいっても人間も買い物に来ているということは、それなりに安全な場所なんだろう。
今度一人で散策でもしてみようと思ったところで、銀花さんは路地の奥へと進んでいく。妖怪細道の中の、細道。
なんだか変な感じだ。
「さ、ついた」
──行き着いたのは、ずらりと並んだ長屋だ。平安の頃からさほど変わっていないように見える、古くて安っぽい作りの安価な住宅。
確かに妖怪細道は昔ながらの作りをした店屋が多いけど、まさかこんな家まであると思っていなかった。
暖簾が垂れ下がっているだけの玄関の前で、ごめんやすと銀花さんが声をかける。
「先ほどおいやした、きゅうりマタタビ堂のもんですー。ちょっと気になることありましたよって、寄せてもらいましたぁ」
大きく声を張り上げると、のっそりと獏が現れる。
白黒のモサモサした体毛に、長い鼻。なんとなく奇妙な容姿だ。
「これは……河童殿の奥方さま……。そちらの方はどなたでしょう……」
くぁ、とあくび混じりに出てきた獏は、いかにも眠そうだ。分かりづらいけど、目の下にクマも見える気がする。
「しんどいときにすんまへん。こちらはうちで顧問陰陽師してくれたはる、よっしゅきさん。獏さんの症状をお話ししたら、どうも変やぁ言わはるよって、お連れしたんどす」
「ああ……なにやら、細道で話題になっておった、あの……。私なぞの話で、お役に立ちますかな……」
話題というのはどうも以前、
オレ自身は凄いことなんてしていないのに、どんどん話が大きくなっているような気がする。それがなんだかむず痒かった。
でもここは、その設定で貫くしかない。
「えっと、もちろんです。ちょっと詳しいお話を聞かせてください」
簡素な家の中で、詳しく話を聞く。
そこで聞いたのは、終わらない悪夢の話だった。
「──終わらない悪夢、ですか」
「はぁ……」
また、大あくび。
「悪夢というのは、……まぁ収穫が不確実なもんでしょう。いつどこの誰が見るともしれん……味も濃いか薄いか知れん……。好みの味に出会うなんてぇのは……」
……非常に、非常に聞きにくーい速さの話だったので、もう要約しよう。
つまり、この獏は幸運にも好みにピッタリはまる悪夢を見つけた。それがなぜか、途切れない悪夢だったらしい。
うまいから食べ続けてるが、終わりが見えない。やめればいいのに、今度いつこの味に巡り会えるか分からないからって、つい食べてしまう。
それが昼も夜も、ずっと供給され続ける悪夢だという話だ。
「いくらなんでも、そんなことあります? 夢ってのは、朝起きれば終わるもんでしょう」
「普通はそうなんですがねぇ。本当に、私が取り憑いてからずぅっとで……」
いくらなんでも奇妙すぎる。ずっと夢を見続ける人間なんているんだろうか?
「病気で寝たきりとか、そういうお相手ですか」
「それが、なんとも……」
「姿を見たことは?」
「なにぶん、ずっと夢の中なので……。起きているところを見たことが……」
さすがに手がかりが少なすぎる。ちらりと流し見たけど、銀花さんも困り果てた顔をしていた。
これじゃ、せっかく銀花さんがオレを頼ってくれた意味がなくなってしまう。
どうすればいいか、深呼吸をして考える。
「獏からの情報じゃ足りない。で、獏が取り憑いてるのは人間……。つまり、誰にでも見えて、話せる」
と言うことは、まだ手詰まりじゃない。
獏に聞いても埒が明かないなら、獏が取り憑いている人間を調べてみるのはどうだろう。
「銀花さん。──獏が取り憑いている人間を調べてみようかと思うんですけど、どうですか?」
こそりと耳打った言葉に、銀花さんが弾かれたようにオレを見る。
心配そうなお顔だ。たぶん、オレの睡眠不足の心配をしてくれてるんだと思う。バイトが終わってからこっちの救援要請に駆けつけたから、もう深夜だ。
でも最近はこっちに来ていなかったし、今日もバイトギリギリまで寝ていたから、睡魔はまったく問題ない。
へらっと笑って親指を立てると、ポンポンと手を叩かれる。
了承の合図だ。
銀花さん、この数日で肉球の間の毛が伸びたのかもしれない。前よりもフワモコッとして気持ちがいい。
「獏さん。もしかしたら、あなたが取り憑いた相手には別のものが憑いてるのかもしれません」
「えぇ……?」
「調べたいので、あなたが食べてる悪夢の主を教えてください。きっとなんとかしてみせますから」
「ああ……左様ですかぁ……。ではねぇ……」
ポンッと音を立てて空中になにかが飛びだし、慌てて受け止める。
コロンと手の中に収まったのは、どう見ても飴玉だった。
「それをねぇ、食べてくださればぁ……私のねぇ……」
……じれったいのでとりあえずもう食べてしまおう。こういう説明書を読まずに先走るような行動、本当はよくないんだろうけど。
で、食べた結果。
頭の中に、見知らぬ男性の姿が浮かんできた。
「え、あれ!?」
「見えておられるそれが、悪夢ですな……」
「獏ってそんなことまでできるんですか!?」
「我らには食い物ですので……よそ様にも食い物にしてお出しできるだけで……」
いやその理屈が分からん。夢を食うのまでは理解できても、形にできるのはどういうことだ。
……でも、妖怪だしなぁ。分からなくて当然か。受け入れよう。
カロンと口の中で転がすと、浮かんだ映像がよりはっきりと見えてくる。
くたびれきった初老──いや、令和で言うと中年の男だ。ヘロヘロになったスーツを着て、机の前で頭を抱えながらパソコンに向き合ってる。追い詰められた表情をしているから、確かにこれは彼にとっての悪夢なんだろう。
それは夢とは思えないほど、詳細に描かれた世界だった。
「この夢、オレが飴を舐め終わるまで頭に浮かび続けますか?」
「はあ……」
はっきりしない答えだが、肯定だと信じる。
こちらで調べを進めると言って、獏の家をあとにする。コロコロと舌で転がすたびに夢がはっきりしていき、しまいには声まで聞こえ始めた。
妖怪細道の賑やかさに似つかわしくない、大上段からの怒鳴り声だ。うちのスーパーにやって来る、無駄に偉そうなおっさんを
「……気分悪ぅ」
「よっしゅきさん、しんどい?」
「あぁいや大丈夫です、吐き気とかそういうんじゃないんで。ただ気分的な部分が……」
これをうまいうまいと食ってる獏は、そうとう趣味が悪いんじゃないだろうか。普通は夢って言ったらもうちょっと現実と乖離してるというか、辻褄が合わない部分を無理矢理くっつけてるような部分があるモノなのに、この悪夢に関しては一貫して話が繋がってるし、非現実感がない。実生活をそのまま見せられてる感じだ。
そのせいで感情移入してしまうし、胸糞悪い。
オレの顔がよっぽどひどかったのか、きゅうりマタタビ堂に戻ったとたん、銀花さんは大急ぎで寝床の準備をしてくれた。
店の奥、銀花さんたちの私生活スペースにだ。
銀花さんとトラさんが暮らすには広すぎるくらい広く作られている室内にいくつもの座布団を並べて、オレが横になれる場所を作ってくれた。来客用の分厚い座布団だ。全然体も痛くない。
トラさんもオレ用に、気分がよくなる薬を調合しに行ってくれた。
頭の中はまだ悪夢が流れ続けていたけれど、トラさんの薬を待てる安心感と──顔の横で丸まって様子を見てくれている銀花さんがいるだけで、少し気分が晴れる。
「そんなにこわい夢なん?」
銀花さんの耳がぺったりと寝てしまった。どんな夢を想像してるんだろう。
「怖いというか……嫌な夢です。ずーっとずーっと、嫌なことばっかり襲ってくる。仕事が遅いって怒鳴られるし、コンビニで買った昼メシは味気ないし、客から嫌味は言われるし、家帰っても疲れて寝るだけ。寝たところでまた上司から怒鳴られる夢を見て飛び起きて、心臓がバクバクして眠れない上に、やりたいことも浮かばない。そんな夢です」
「無間地獄みたいな状態なんやな」
寝た気がせん夢やと呟いて、銀花さんの小さな舌が、オレの額をざりっと舐めた。少し痛いけど、しみじみ可愛い。
……え、舐められた?
「ぎ、銀花さん!? 今のは大丈夫なんですか、人妻的に……!!」
「んにゃ?」
首を傾げるな可愛い!! それとも全部計算尽くですか!!
……なんて、テンションが爆上がりしたのも束の間。結局頭の中を流れ続けてる悪夢は止まらず、オレはまたぐったりと横になるしかなかった。
そんなオレの隣で銀花さんは、かわいそうに、と呟き続けている。
「嫌な気持ちでお仕事して、寝てもまたお仕事の夢で、寝るのもしんどいなんて無間地獄、嫌な夢やなぁ。そら終わらへんわけや。そんな、起きてるみたいな夢──」
ふと、銀花さんの言葉が止まる。
ポカンと口を開けて、目についたなにかに気を取られたような、なにか思い至ったような、そんな顔だった。
「そういうこと?」
ポツンとこぼしたあと、銀花さんは真剣な顔でオレを見る。
「よっしゅきさん分かったわ。それなぁ、夢やない。夢なんかやないんや」
繰り返された言葉に、オレはまばたきしかできなかった。