ぬらりひょんを前にして、オレは半ば、凍りついたように正座を崩せないまま座っていた。
蛇に睨まれた蛙、ナメクジを前にした蛇どころの話じゃない。なんせ目の前に座っているのは妖怪の親玉と言われてる相手だ。
銀花さんも女将さんも別室に引き取ってもらって、ぬらりひょんはオレとサシの話し合いを所望した。
さっき前払いだと言っていくらかの金銭を女将さんに渡していたからか、卓上には酒や刺身、貝類のバター焼きなんかが並んでいるが、手をつける気にはならない。
タバコの臭いがする長い柄をした器具から長く煙を吐き出し、じっとりと睨みつけてくるその目は、なんとも粘っこい感じがした。
「銀花ちゃんはなぁ、祇園で生まれて祇園で育った子なんじゃ。親猫に置いて行かれたところをこの銀杏ちゃんに拾われて、この置屋で大事に大事に育てられてな……自分も踊りてぇ言うて、十二歳で化けた」
「え、十二歳ですか!? 今の世なら、普通の猫として生きていける年齢ですよね?」
「そうじゃ。じゃけぇ人に化けるのができんで、猫のまま化け猫女郎になったんじゃ。そりゃもう、お
懐かしそうに目を細めて話す姿は、まるきり普通のおじいさんにしか見えない。ぬらりひょんにとって銀花さんは、小さい頃から見守ってきた孫娘みたいなものなのかもしれない。
……勝手に他人の座敷に上がってたって点は、この際聞かなかったことにしよう。
「ぬらりひょんさんは、昔からこちらに遊びに来てたんですか……?」
「そうじゃ。この
「そんな頃から!?」
「八坂神社の門前町たぁいえ、いろんな欲が渦巻くせいでたびたび妖怪の
どう見てもメロメロの顔だ。
なのにオレがちょっとでも同意を見せると、もの凄い殺気で睨みつけてくる。面倒ったらない。
「あの……それで、なんで銀花さんたちを別室に追いだしてまでオレと話を──」
「うん、そのことなんじゃが」
カンッと音を響かせて、燃え尽きたタバコの草が、器具から落ちた。
「お前さん、銀花ちゃんと組むらしいな」
「はぁ」
「あの子は頭のええ子で、目も鼻も耳もええ。あのボンクラ河童よりずっと
「……分かります。オレも、そのことは気にかかって」
「そうか。なら、ちいたあ見込みがある」
また、あの粘っこい目だ。
もしかしたら睨んでいると思うのはこちらの勘違いで──その意図はまったく違うのかもしれない。ぬらりひょんの目はオレの頭の先から目元、喉、胸元にかけてじっと見ている。
値踏みされている、ってのが正しいところかもしれない。
「オレになにをさせたいんです」
「なに、
「え」
「玄関は通っとらん。ヒントはそれじゃ」
「それだけですか?」
「銀花ちゃんなら、あとのヒントは自分で見つける。銀花ちゃんが組むにふさわしい頭くれぇは持っとると、儂に証明してみせぇ」
にやりと笑ったぬらりひょんは、酒を飲んでひょいとアサリのバター焼きをつまみ上げて食べたあと──なにかラムネのようなものを口に放り込んだ。
「……それは?」
「ただのタブレットじゃ」
今度は水を飲む。酒よりもむしろたっぷりと飲んでいるように見えた。
それからは、じっと対峙する時間。
さすがにたったそれだけのヒントで、ぬらりひょんの挑戦を受けるのは正直……正直かなりキツいと思いながらも、必死に他のヒントを探すべく、じろじろとぬらりひょんを見ているしかなかった。
幸い、時間をかけても文句が出るわけではなさそうだ。オレが悩んでいる姿を酒の
ただ、酒を飲むたびに──タブレットと水を流し込んでいた。
「そのタブレット、薬みたいなモノですか?」
「そうだな。儂にとっては薬のようなもんじゃ」
「……ないと、困る?」
答えはないが、にやりと笑う。
たぶんいいところを突いたんだろう。その程度は教えてくれるつもりらしい。
少し、悩む。
ぬらりひょんは玄関は使っていないと言った。
それから、酒は少しずつ飲んで料理も食べるけど、頻繁にタブレットも食べるし、水を飲んでる。
あとは……最初に見つけたのは、台所。
「ええーーーーー……?」
「なんじゃ、もう降参か」
「いや、今ので降参判定とか厳しすぎやしませんか」
「だって儂、銀花ちゃんに男が寄ってくるの嫌じゃもん」
「少なくとも四百年以上生きてる爺さん妖怪が、だってとかだもんとか使わないでください」
少し強めに突っ込むと、ぬらりひょんの口がニュニュッと突き出す。まるで子どもの仕草だ。
ちょっと呆れてしまったけれど──その口から、明らかにタバコとは違う黒いモノがふわりと
慌てたのはぬらりひょんの方だ。
「ああ、こりゃいかん」
バタバタと袖を振って、噴き出してしまった黒いモノが部屋につかないようにと始末する。
オレは煙だと思ったけれど、どうもそうではないらしい。その証拠に、着物が見る間に黒く汚れていっていた。
「おい陰陽師」
「職業で呼ばないでください。オレの名前は賀茂義行です」
「んじゃあ義行」
馴れ馴れしいジジイだなこの妖怪。
「……今の、銀杏ちゃんと銀花ちゃんにはナイショで頼む」
「怒られたことあるんですか?」
「……ん」
「じゃあまぁ、黙っときましょうか……」
さっきまでの堂々とした態度が嘘のように、もじもじと肩を揺らしている。
孫娘みたいに可愛がってる銀花さんに叱られるのも、同じような感じで見守ってきたっぽい女将さんに叱られるのも、居たたまれないんだろう。……気持ちは分からないでもない。
それに物分かりがいい人間だと思ってもらえれば、少しは好感度が上がって判定が緩くなるかも、なんて下心もあった。
あとは──さっきの黒いモノの、きっとヒントになるだろう。
ただしぬらりひょんの馬鹿デカいハゲ頭のせいで、頭に浮かぶモノが勝手に絞り込まれてしまうのがなんだかモヤモヤするというか。
それにその答えだと、聞かれた質問の回答からズレる。
うーんうーんと頭を捻り続けた結果──オレは恐る恐る、ぬらりひょんに視線を戻した。
「せ、鮮魚店から来ました……?」
「ほう?」
目蓋の垂れた目が、興味を持った様子でギョロリと光る。
「なんでそう思うた」
「……あなたがタコなのかもしれないと、思ったからです」
また、ほうと感心した声が漏れた。
卓上の料理を脇に押しのけ、ほんの少し前のめりになる。
「続けてみぃ」
「えっと……。さっき黒いの、吐いたじゃないですか。あれって墨じゃないかと思ったんです。……まぁ本当の墨じゃないのかもしれません。なんせあなたは妖怪なんで、そこの詳しい仕組みはオレなんかには理解できない部分です。あとはあなたの頭の形がタコにしか見えなくなっちゃって」
愛想笑いで頭を掻くと、さっきまで面白そうに耳を傾けていたぬらりひょんの顔が、見る間にしかめ面になっていた。
その程度の考察か、なんて言い出しかねない顔だ。もちろん、そう言われれば否定できないんだけど。
「他にも一応理由はあってですね! そのタブレット、もしかして塩のやつかな? とか思ったんです。酒を飲んだらすぐに水と一緒に召し上がってますし、塩水が必要なのかなぁとか。台所なのは……鮮魚店さんから搬入されたのかもと」
「おい、それじゃ儂は食われる寸前じゃったってことにならんか」
「そうなんですけど、他に浮かばなくて……!」
やっぱり違うのかと半泣きになりそうだったけど、以外にも、ぬらりひょんの表情はニヤニヤと楽しそうだ。もしや読みが当たったかと期待の目で見返すと、鼻で笑ってくる。
「
「あ、そうか!」
「第一、祇園の茶屋は全部仕出し料理じゃ。タコやこぉ搬入する必要がねえ」
……思っていたよりダメ出しを食らってしまった。いや、玄関のことをド忘れしていたオレが悪いんだけど。
これじゃ銀花さんの手伝いは許してもらえないんだろうと肩を落としたオレの耳に、ひょひょと楽しそうな笑い声が聞こえた。
「まぁ、
パンッと乾いた音と共に、膝を打つ。
「タコとは言わんが、お前さんの考えたように、儂は海の水妖でな。大阪湾から桂川に上がり、さらに鴨川を上がって、四条大橋まで来た。そこまで近くに来りゃあ、あたぁ水の中ならどこでも移動できる。儂は台所の、水道の水から出てきたんじゃ」
「台所の水道!?」
「ピョンとジャンプする感じでな」
いや、それは……それは分かんなくても仕方なくないか……!!
古籠火が口の中で電気を押し固めて石にしたって聞いたときも分からなかったけど、台所の水道からこんな爺さんが出てくるのとか意味が分からなさすぎるだろう……!!
開いた口を閉められないまま引きつっているオレに、ぬらりひょんはまた、ひょひょと笑う。
「お前さんが聞き取った面倒な話を、銀花ちゃんが読み解く。基本はな、それで問題ねかろう。だがもし銀花ちゃんになにかあったとき、お前さんが銀花ちゃんに相談できん状況で解決せにゃあならんようになったとき、そいつは簡単に崩れるぞな。銀花ちゃんと組むんなら、ちゃんと妖怪どものことを知るべきじゃ。それがあの子の助けにもなるじゃろう」
「──はい」
この
銀花さんはトラさんにもぬらりひょんにも、もちろん女将さんたちにも愛されてる。だからきっと、オレみたいに得体の知れない人間にも、初対面で優しくしてくれたんだろう。
そう思うと、この食えない爺さん妖怪にも、少しは親近感が湧く気がした。
「ああそうじゃ。銀花ちゃんの旦那は、皿に紅葉おろしを塗り込んじゃると喜ぶぞな。今度やってみぃ」
「絶対嘘だろ、それ!!」
……たぶんこれも、可愛い孫娘を嫁にとられた嫉妬みたいなもんだ。きっと。
オレを巻き込んで怒りの矛先を向けようとしてくるのはいただけないが。
──ともあれ。
ぬらりひょんからそれなりに気に入ってもらえたらしいオレは、その後女将さんや舞妓ちゃん達と改めて顔合わせし、あれやこれやと根掘り葉掘り聞かれる羽目になった。だけどそれも、わざわざ注文してもらった仕出し弁当のおいしさでチャラだ。やっぱり、このおいしさはスーパーの半額弁当とは比べものにならない。
「嫌になったらいつでも戻ってぇで」
「そんなんならへんわー」
女将さんや舞妓ちゃんにまじり、まるで父親のように涙ぐみながら見送ってくるぬらりひょんに手を振り、祇園を後にした。
観光客の人出もほんの少し落ち着いて、街は薄青く、だんだんと夜の気配を滲ませている。
来たとき同様、オレの肩の上に乗った銀花さんのぬくもりが、気持ちいい時間だった。
「よっしゅきさん」
「はい?」
「面倒なことに付き合わせてしもて、堪忍え」
「ヒヤヒヤしたけど、楽しかったですよ。ぬらりひょんの爺さんも、わりとひょうきんだったし」
「ほんま? そう言うてくれはると、ウチも安心や」
ほう、と銀花さんが胸元を叩くのが分かる。思ったよりオレを心配してくれたらしい。
「ご家族と贔屓客に了承をもらったってことで、正式に陰陽師として雇用してもらえるってことでいいですか?」
「もちろんや」
銀花さんのフワフワなほっぺたが、オレの頬に擦り寄ってくれる。
……髭を剃ったのは今日の朝なんだけど、伸びてないだろうか。銀花さんが痛い思いをしてないといいけど。
「スーパーのお仕事とうちでのお仕事、だぶるわぁくは大変やと思うけど、よろしゅうおたの申します」
「こちらこそ、役に立てるよう頑張ります」
ふふと笑い合って、平安の頃と似ても似つかない京を往く。
どんな面倒な客がきても、銀花さんの手伝いなら安心だと、どこか甘く見積もっていた部分があったのかもしれない。
きゅうりマタタビ堂の陰陽師としての初仕事が、まさかあんな面倒な案件だなんて、この時の俺は考えてもいなかった。