夜の江戸は、静けさの裏にざわめきを
──それとは違う、名の知れぬざわめきが、町の隅をすっとすり抜けた。
ひとつだけ掲げられた提灯の灯が、石畳を淡く照らしていた。
「お通りなさりませぇ、足元、お気をつけて――」
澄んだ声が、薄暮の道を滑っていく。
提灯を掲げて先を行くのは、年の頃十八ほどの若者。着流しに深袴をまとい、胸元には小さな木札が揺れている――『
宵守。
日が暮れてから夜明けまで町を巡り、旅人を宿へ導き、迷子を見つけ、時には闇に潜む悪意を暴く者たち。
北町奉行の与力であった父の志を継ぎ、今は町の片隅で暮らす若者・
かつて名を馳せた元盗賊・
鳶職見習いで、火事場にも顔を出す町っ子の
三人が自ら名乗った、静かなる夜の番人――それが、宵守である。
「ったく、どうせ今夜も猫の喧嘩くらいじゃねぇですか。事件なんて、そうそう起きやしないっての」
ぼやいたのは、伊助。火消しの
「宵守ってさ、もっとこう……悪人を成敗する粋な役目だと思ってたんだけどなあ」
きょろきょろと周囲を見回しながらも、足は源太郎にぴたりと揃っている。提灯の灯がかすかに揺れ、源太郎は目元だけで笑った。
「事件なんざ、無い方がいいのさ」
「へいへい。源太兄は、いつだって冷静でござんすねえ」
「そういうお前は、もう少し落ち着きがあってもいいんじゃねぇのか」
「え〜? 俺、けっこう落ち着いてるつもりっすけど?」
「さっきから手ぇ五回はこすってる。しかも絶え間なく喋ってるとくれば、そりゃあ猫も逃げ出す騒がしさだ」
「……そんなに観察してるとか……源兄ぃ、ちょっと怖いって」
むくれたように肩をすくめる伊助の背後では、熊吉が黙々と歩いている。口は開かずとも、その存在感だけで会話がすっと静まり返る。
「……クマ兄も何か一言言ってくだせえよ。しゃべらなくても全部通じるみたいなの、何かずるいっすよ」
もちろん返事はない。ただ視線がわずかに鋭くなった気がして、伊助は思わず背筋を伸ばした。
「な、なんか今、ちょっと睨まれた気がした……」
「熊兄はその程度で怒らない。気のせいだ。……たぶんな」
源太郎が提灯の灯を掲げ直した、そのときだった。
石畳の向こうから、誰かが全力で駆けてくる足音が響く。
小さな影が転がるように駆け込み、伊助の袖をつかんで叫んだ。
「い、伊助兄ぃっ! お嬢さんが……助けてくだせぇ!」
それは大工の辰っつぁんの
顔面蒼白で、腰が抜けたようにへたり込んでいる。
「落ち着け、喜八。誰がどうした?」
「刀持った酔っ払いの男が、お嬢さんにしつこく絡んでて……!」
その言葉に、伊助の顔から笑みが消える。
すぐさま駆け出し、源太郎と熊吉も後を追った。
裏通りの先――人だかりができていた。
誰かが声を荒げている。揉めているのはわかるが、誰ひとり割って入ろうとしない。
「へっへ……こんな夜更けに、お綺麗なお嬢さんが一人とは、運がいいねぇ」
「……どいてください。急いでいるんです」
腰に刀を差した
娘は平静を保っていたが、酔漢の手が行く手を阻む。
「女は、男の膝に乗るもんさ。なァ?」
その下卑た言い回しに、伊助がしかめっ面になる。
「てめぇ、宵守の通りでお女中にちょっかいかける気か!」
伊助が怒鳴るように間に割って入った。酔漢は鼻で笑い、刀に手をかける。
「なんだぁ? 子供かと思えば、威勢だけはいいな」
その瞬間、源太郎が提灯の灯を高く掲げながら一歩前に出た。
「へぇ……でっけえ態度のわりに、鞘、軽いな」
ぴたりと周囲の空気が止まる。
「そいつ、竹光じゃねぇのかい?」
男の目が一瞬揺れた。それを見て、源太郎の目が細くなる。提灯の淡い光が、男の腰に差した刀を淡く照らし出した。
「……やっぱりか。鞘だけ立派でも、中身が空じゃあ、笑えねぇな」
一瞬、言葉を切る源太郎の瞳が、ちらりと光る。
「刀ってのはな、抜いて威張るもんじゃねぇ。
あんたみたいなのがいるから、真っ当な奴まで侮られる」
その声音は静かだが、どこか遠くを見ているようだった。
酔漢は口を開きかけたが、言葉が出なかった。
抜ける刀がなけりゃ、威勢も出ない。周囲の視線が、徐々に冷めていく。
熊吉が、無言のまま一歩、前へ出る。それだけで、酔漢の足元が固まった。
「ちっ……くだらねぇ夜だ」
舌打ちひとつ。酔漢は無理やり肩を揺らし、背を向けて歩き出す。
酔いの勢いは消え、逃げるように通りの奥へと消えていった。
それを見届けた町人たちが、ほっとしたようにざわつき始めた。
「……お嬢さん、大丈夫かい」
源太郎が灯を向けると、娘は静かに頭を下げた。
白い小袖に、結い上げられた髪。
その瞳の奥に宿るのは、怯えではなく、張り詰めた静かな強さだった。
「……ありがとうございました。瀬川屋の者で、おりょうと申します」
「瀬川屋? あの米問屋の?」
源太郎の目がわずかに細まる。
「こんな時間に、おひとりで? ……江戸の夜道は、まっすぐ歩ける道ばかりじゃないよ」
おりょうは伏し目がちに答えた。
「……父が寝込んでおりまして。薬種屋に行った帰りでした。……この道しか知りませんで」
その手に抱いた薬包の包みを、静かに見下ろす。
「それなら、運がよかったな。……ちょうど宵守が通りがかって」
源太郎はふっと目元を緩めた。
「この先の角を曲がれば表通りだ。そこまで灯してやろう」
「……ありがとうございます。伊助さんも」
ふいに名を呼ばれ、伊助はぴくりと肩を揺らした。思わず目をそらし、顔がほんのり赤くなる。
「さ、さあさあ、お通りなさりませぇ! 足元、お気をつけて――!」
声を張って先に立つ背中が、いつもよりほんの少しだけ誇らしげに見えた。
やがて表通りに差しかかると、おりょうはもう一度、深く頭を下げた。
「それでは……失礼いたします」
「ああ。気をつけて帰んな。……道、わかんなくなったら、また呼んでくれ」
おりょうは微笑み、灯の外へと歩き出す。
白い小袖が、夜の闇にすうっと溶けていった。
「……綺麗な人だったな」
伊助がぽつりと呟く。
源太郎は応えず、ふと提灯を持ち直した。
その横顔を見て、伊助は口を
(……兄ぃは、こういう時も平気な顔してるんだな)
手拭いで頬をこすり、何気ない風を装って歩を進めた。
そのときだった。
屋根の上。
高い瓦の端を、何かが走った。白い影が、風のように抜けていく。
提灯の灯が、かすかに揺れた。源太郎は後ろを振り向く。
「……熊兄、今、見えたか」
「ああ」
熊吉はしばらく、何も言わなかった。
ただじっと、屋根の先を睨みつけている。
その顔に、源太郎は一瞬、見慣れぬ影を見た。無口な男の胸奥に、静かに立ち上る警戒の色。
やがて熊吉が、低く短く呟いた。
「……風じゃねぇ」
あれは、何だったのか。幻か、それとも。
ただ一つ確かなのは、胸の奥に残る、名もなきざわめき。
宵の灯が、そっと揺れた。
江戸の夜が、静かに、動き始める。