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灯火夜廻り帖
灯火夜廻り帖
秋初夏生
歴史・時代江戸・幕末
2025年05月12日
公開日
1.3万字
連載中
お通りなさいませ、江戸を往くは《灯火三人衆》 江戸の町を、闇から守るは――提灯ひとつ、心三つ。 夜の江戸を照らす「灯火三人衆」は、町人育ちの色男・柏木源太郎、元盗賊の無口な巨漢・熊吉、そしてすばしっこい弟分・伊助の三人組。 北の旦那こと北条奉行から密命を受けながら、夜の町に渦巻く陰謀「夜霞」と向き合い、人情、恋、友情を抱えながら、ひとつの町を守り続ける――。 粋で哀しく、あたたかく。 命を灯す、江戸青春活劇ここに開幕!

序章

 夜の江戸は、静けさの裏にざわめきをはらんでいる。

 草履ぞうりの音が遠ざかっても、どこかで三味線が爪弾つまびかれ、茶屋の引戸がきしみ、長屋の奥で赤子が泣く。

 ──それとは違う、名の知れぬざわめきが、町の隅をすっとすり抜けた。


 夕靄ゆうもやに包まれた路地を、三つの影がゆるやかに歩いている。

 ひとつだけ掲げられた提灯の灯が、石畳を淡く照らしていた。


「お通りなさりませぇ、足元、お気をつけて――」


 澄んだ声が、薄暮の道を滑っていく。

 提灯を掲げて先を行くのは、年の頃十八ほどの若者。着流しに深袴をまとい、胸元には小さな木札が揺れている――『宵守よいもり』の印だ。


 宵守。

 日が暮れてから夜明けまで町を巡り、旅人を宿へ導き、迷子を見つけ、時には闇に潜む悪意を暴く者たち。

 北町奉行の与力であった父の志を継ぎ、今は町の片隅で暮らす若者・源太郎げんたろう

 かつて名を馳せた元盗賊・熊吉くまきち

 鳶職見習いで、火事場にも顔を出す町っ子の伊助いすけ

 三人が自ら名乗った、静かなる夜の番人――それが、宵守である。


「ったく、どうせ今夜も猫の喧嘩くらいじゃねぇですか。事件なんて、そうそう起きやしないっての」


 ぼやいたのは、伊助。火消しの半纏はんてんを肩にひっかけ、手拭いでかじかむ指をこすりながら歩いている。


「宵守ってさ、もっとこう……悪人を成敗する粋な役目だと思ってたんだけどなあ」


 きょろきょろと周囲を見回しながらも、足は源太郎にぴたりと揃っている。提灯の灯がかすかに揺れ、源太郎は目元だけで笑った。


「事件なんざ、無い方がいいのさ」


「へいへい。源太兄は、いつだって冷静でござんすねえ」


「そういうお前は、もう少し落ち着きがあってもいいんじゃねぇのか」


「え〜? 俺、けっこう落ち着いてるつもりっすけど?」


「さっきから手ぇ五回はこすってる。しかも絶え間なく喋ってるとくれば、そりゃあ猫も逃げ出す騒がしさだ」


「……そんなに観察してるとか……源兄ぃ、ちょっと怖いって」


 むくれたように肩をすくめる伊助の背後では、熊吉が黙々と歩いている。口は開かずとも、その存在感だけで会話がすっと静まり返る。


「……クマ兄も何か一言言ってくだせえよ。しゃべらなくても全部通じるみたいなの、何かずるいっすよ」


 もちろん返事はない。ただ視線がわずかに鋭くなった気がして、伊助は思わず背筋を伸ばした。


「な、なんか今、ちょっと睨まれた気がした……」


「熊兄はその程度で怒らない。気のせいだ。……たぶんな」


 源太郎が提灯の灯を掲げ直した、そのときだった。

 石畳の向こうから、誰かが全力で駆けてくる足音が響く。


 小さな影が転がるように駆け込み、伊助の袖をつかんで叫んだ。


「い、伊助兄ぃっ! お嬢さんが……助けてくだせぇ!」


 それは大工の辰っつぁんのせがれ喜八きはちだった。

 顔面蒼白で、腰が抜けたようにへたり込んでいる。


「落ち着け、喜八。誰がどうした?」


「刀持った酔っ払いの男が、お嬢さんにしつこく絡んでて……!」


 その言葉に、伊助の顔から笑みが消える。

 すぐさま駆け出し、源太郎と熊吉も後を追った。


 裏通りの先――人だかりができていた。

 誰かが声を荒げている。揉めているのはわかるが、誰ひとり割って入ろうとしない。


「へっへ……こんな夜更けに、お綺麗なお嬢さんが一人とは、運がいいねぇ」


「……どいてください。急いでいるんです」


 腰に刀を差した酔漢すいかんが、若い娘に絡んでいる。周囲の町人たちは、遠巻きに見ているだけだ。


 娘は平静を保っていたが、酔漢の手が行く手を阻む。


「女は、男の膝に乗るもんさ。なァ?」


 その下卑た言い回しに、伊助がしかめっ面になる。


「てめぇ、宵守の通りでお女中にちょっかいかける気か!」


 伊助が怒鳴るように間に割って入った。酔漢は鼻で笑い、刀に手をかける。


「なんだぁ? 子供かと思えば、威勢だけはいいな」


 その瞬間、源太郎が提灯の灯を高く掲げながら一歩前に出た。


「へぇ……でっけえ態度のわりに、鞘、軽いな」


 ぴたりと周囲の空気が止まる。


「そいつ、竹光じゃねぇのかい?」


 男の目が一瞬揺れた。それを見て、源太郎の目が細くなる。提灯の淡い光が、男の腰に差した刀を淡く照らし出した。


「……やっぱりか。鞘だけ立派でも、中身が空じゃあ、笑えねぇな」


 一瞬、言葉を切る源太郎の瞳が、ちらりと光る。


「刀ってのはな、抜いて威張るもんじゃねぇ。

 あんたみたいなのがいるから、真っ当な奴まで侮られる」


 その声音は静かだが、どこか遠くを見ているようだった。


 酔漢は口を開きかけたが、言葉が出なかった。

 抜ける刀がなけりゃ、威勢も出ない。周囲の視線が、徐々に冷めていく。


 熊吉が、無言のまま一歩、前へ出る。それだけで、酔漢の足元が固まった。


「ちっ……くだらねぇ夜だ」


 舌打ちひとつ。酔漢は無理やり肩を揺らし、背を向けて歩き出す。

 酔いの勢いは消え、逃げるように通りの奥へと消えていった。


 それを見届けた町人たちが、ほっとしたようにざわつき始めた。


「……お嬢さん、大丈夫かい」


 源太郎が灯を向けると、娘は静かに頭を下げた。


 白い小袖に、結い上げられた髪。

 その瞳の奥に宿るのは、怯えではなく、張り詰めた静かな強さだった。


「……ありがとうございました。瀬川屋の者で、おりょうと申します」


「瀬川屋? あの米問屋の?」


 源太郎の目がわずかに細まる。


「こんな時間に、おひとりで? ……江戸の夜道は、まっすぐ歩ける道ばかりじゃないよ」


 おりょうは伏し目がちに答えた。


「……父が寝込んでおりまして。薬種屋に行った帰りでした。……この道しか知りませんで」


 その手に抱いた薬包の包みを、静かに見下ろす。


「それなら、運がよかったな。……ちょうど宵守が通りがかって」


 源太郎はふっと目元を緩めた。


「この先の角を曲がれば表通りだ。そこまで灯してやろう」


「……ありがとうございます。伊助さんも」


 ふいに名を呼ばれ、伊助はぴくりと肩を揺らした。思わず目をそらし、顔がほんのり赤くなる。


「さ、さあさあ、お通りなさりませぇ! 足元、お気をつけて――!」


 声を張って先に立つ背中が、いつもよりほんの少しだけ誇らしげに見えた。


 やがて表通りに差しかかると、おりょうはもう一度、深く頭を下げた。


「それでは……失礼いたします」


「ああ。気をつけて帰んな。……道、わかんなくなったら、また呼んでくれ」


 おりょうは微笑み、灯の外へと歩き出す。

 白い小袖が、夜の闇にすうっと溶けていった。


「……綺麗な人だったな」


 伊助がぽつりと呟く。

 源太郎は応えず、ふと提灯を持ち直した。


 その横顔を見て、伊助は口をつぐんだ。


(……兄ぃは、こういう時も平気な顔してるんだな)


 手拭いで頬をこすり、何気ない風を装って歩を進めた。


 そのときだった。


 屋根の上。

 高い瓦の端を、何かが走った。白い影が、風のように抜けていく。


 提灯の灯が、かすかに揺れた。源太郎は後ろを振り向く。


「……熊兄、今、見えたか」


「ああ」


 熊吉はしばらく、何も言わなかった。

 ただじっと、屋根の先を睨みつけている。


 その顔に、源太郎は一瞬、見慣れぬ影を見た。無口な男の胸奥に、静かに立ち上る警戒の色。


 やがて熊吉が、低く短く呟いた。


「……風じゃねぇ」


 あれは、何だったのか。幻か、それとも。

 ただ一つ確かなのは、胸の奥に残る、名もなきざわめき。


 宵の灯が、そっと揺れた。

 江戸の夜が、静かに、動き始める。

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