大学街はまだ濃い夜の中にある。
点在する照明石の薄ぼんやりとした光が、街の輪郭を辛うじて照らしていた。
石畳の広い通りに、土塗りの家々が立ち並ぶ。
通りに面した建物には巨大な
遠くから街の様子を眺めていると、焦点がふと眼前のガラスへと移る。外の世界とを隔てる透明な鏡には、まだ眠たげな私の顔が映っていた。
嫌気が差すほど幼い見た目。
顔立ちは母親譲りで整ってはいるものの、早朝のためか多少のバラツキがある。
世の中には童顔という言葉もあるが、私の場合は顔だけでなく、後ろ髪も、体も成長してくれないのだ。
年齢でなら、もう立派な大人なのに……。
眺めていても変わることのない自分に愛想が付き、気晴らしに室内へと視野を広げた。
端的に言い表すなら几帳面な雑多。
壁には様々な薬草が種類ごとに掛けられているのに対して、机の上には大小さまざまな本や書類が山積みになっている。
まるで家主の内面を具現化したかのようだった。
「おまたせー」
男性とも女性ともとれない中性的な優しい声が、部屋の奥から伝わる。
続いて姿を現したのは、抽象化されたアマガエル。
この世の知識を溜め込んだ容姿は、ぬいぐるみのようでいて実に愛くるしい。今は十分に貯蓄したお腹を使って、ぽよんぽよんと跳ねていた。
すぐ後ろには浮遊する二つのカップが付いてきており、ふわりふわりと漂う様子は見ていてとても心配だった。
「先生、手伝いますよ」
「いいからいいから、そのままで」
一抹の不安を残しつつ、先生は無事に私のいる机へと到着した。
椅子のいらない先生は私の対面に着地し、カップ達もそれぞれ追従する。
「熱いから気を付けてね」
「ありがとうございます」
促され、目の前に置かれたお茶に口を付ける。
複雑な味がしながらも、不思議と統一感があった。
「ここの生活はもう慣れた?」
「はい……で、でも叔父さんが帰っちゃって」
「帰った? うーん。大体は帰るのが面倒だからって住み着いちゃうけど……。まぁサウロ君の事だし、君を思っての行動だよきっと」
「そうだと思います。でも……」
「他に悩み事とか?」
「……」
不意に口を閉ざしてしまう。
誰にでもある悩みなのだが、
けれどこうしているうちに、部屋の空気はみるみるうちに醒めていく。先生との会話、ひいては沈黙に耐え切れず、とうとう重い口を開けた。
「……ご」
「え?」
「……迷子、です」
それを聞くなり先生はケラケラと笑い始めた。
「子供じゃないです、もう大人です!」
「その分なら、あまり深刻そうではないね」
「違うんです。その……初めてここに来た時の事、覚えてますか?」
やっとの思いでルパラクルに到着した日、私はさっそく迷子になった。
通常、迷子というのは目的地までの道のりを誤って起こる、いわば過程の問題だ。
しかし私の迷子というのは、過程を全てすっ飛ばし、気付けば違う目的地に到着していたという厄介な代物だった。
当時も気づけば見知らぬ部屋の前に立っており、助けを求めて入ったのがこの部屋だった。
「よく覚えてるよ、でも結果的には良かったでしょ?」
「そうですけど……。でも、次にもし起こったらと思うと怖くて……」
「うーん。ボクも君に付きっ切りでいる訳にも行かないしなぁ」
それはそうだ。
先生には迷惑を掛けられないし、仮にもし私の迷子監視役だなんて付けられてしまったら、それこそ親の手を引く子供になってしまう。
叔父さんはわざわざ帰ってくれたんだ。
私を成長させるために。
「でもここでの勉強は続けた方が良いよ。それにもしかしたら“迷子を治す魔法”だなんてあるかもしれないし」
「それはホントで!――」
――ガシャン、バシャ。
身を乗り出した体勢から、ぎこちなく視線を下げてみる。すると床には無残にも破片が飛び散り、お茶が辺りに撒かれていた。
「あ……ご、ごめんなさい!」
「大丈夫だよ。あ、そうだ。折角なんだし魔法で直してみない? 復習と思ってさ」
先生の助言に感謝し、早速魔法の準備に取り掛かる。
首に掛けていた学章を取り出す。
学章を握りしめ、静かに呼吸を整える。
想像するのは割れる前のカップ。それも私に出された直後のものだ。
素焼きの容器はザラザラで、まだ土の面影を残している。そこにはアツアツのお茶が注がれており、多量の湯気が立ち上っている。
よし。
頭の中の風景には、既に完璧なカップが
今度は妄想を形にするべく、崩さぬように、
「《――|necto《接続》〔割れてないカップ。完璧なカップ〕
目を開けると、そこには元通りになったカップが置かれていた。中身のお茶も運ばれてきた時と同様、なみなみと注がれている。
「やった!」
「良い感じだね、これなら――」
――パキリ、
ばじゃり。
不穏な音を響かせたかと思えば、カップは再び割れた姿に戻ってしまった。
卓上には空しくお茶が広がっていく。
「割れてた頃の記憶が邪魔をしちゃってたのかもね」
「……悔しいです」
「悔しさと羨ましさは最高の燃料だよ、特に学徒にとってはね。それにそろそろ授業が始まる時間じゃないかな」
「えっ、もうそんなに」
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
実感は全く湧かないけれど、それでも現実は待ってはくれない。
「大丈夫、片付けはこっちでしておくから」
「あっ、ありがとうございます」
急いで鞄から飛び降りる。
椅子に載せていた鞄を引っ張ると、そのままぷかぷかと宙に浮く。
「じゃあ、行ってきます」
「うん、君の成長を楽しみにしてるよ」
屈託のない笑顔を浮かべる。
喜ぶ先生に対して、私は大きな心残りと共に、たくさん物が詰まった鞄をいそいそと引っ張っていった。
ひんやりとした風が頬に触れる。
暖かな室内にいた分、外の世界は幾分か冷たかった。
澄んだ空気を頬張りながら、そっと街を眺める。
点在する照明石の淡い光は、既に夜の闇と共に去っていた。屋根瓦は赤茶に焼け、壁は黄土色に塗られ、石畳は
まるで上から少しずつ、色が降ってくるようだった。
大学街に朝が来る。
なんてことない、この街の目覚め。
ただ普段と異なる点があるとすれば……
「……ここ、どこ?」