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I. 頼れる素敵なお姉さん

 先生の部屋を出たところまでは覚えている。


 それから教室に向かっていたのだが、気付けばちょっと違う場所。


 石畳が真っすぐ伸びていて、両脇には建物が立ち並んでいる。黄土色の壁に、赤茶けた屋根瓦は、ここルパラクルではよく見る光景だった。


 どこもかしこも同じ場所。

 それゆえに自分が今、街のどこにいるのかも分からなかった。


 茫然と立ちすくんでいるうちにも、辺りはみるみるうちに明るくなっていく。


「叔父さ……」


 ……んっ。


 不意に溢れた哀願をつぐんで防ぐ。


 こんなことをしていも、叔父さんは戻ってきてはくれないし、助けてもくれない。


 それに先生も言ってくれたように、叔父さんがこの地を去ったのは私が“一人前”になるためだ。


 ここで勉強して、やがては卒業してみせる。


 だから、こんなところで立ち止まっている訳にはいかなかった。


 澄んだ空気を目一杯に頬張り、気合を入れる。


 せめてここがどこの通りなのか確認できれば……。


 せわしなく視線を動かし、出来るだけ周りの情報を集める。


 土壁で出来た建物が通りに沿って連なり、道路に面した部分には巨大なとも取れる回廊が設けられている。


 ここまではどこの通りでも同じ外観。


 しかし回廊の奥にひっそりと佇む扉たちは、ささやかな差別化がなされていた。


 見知ったお店の扉があれば、そこから今いる場所が分かるかもしれない。


 注意深く回廊の中を探していると、そのうちの一件に目がとまる。


 本来扉のある位置にはボロボロの垂れ幕が掛かっており、風に当てられバタリバタリと布にしては大きな音を立てていた。


 異質な存在にすっかり取り憑かれ、気付けばもうすぐそばまで近づいている。


 興味本位で覗いてみると、そこには開け放たれた扉があった。


 堅牢な造りの大扉。


 相当の年代物で、全体がすすで覆われたかのように黒々としている。武骨な鉄びょうが均等に打ち込まれており、中央には獅子の顔が一対彫り出されていた。一目見ただけで強烈な印象を残すこの扉に、私は馴染みがあった。


 ここは図書館。図書館の入口だ。


 この街に着いた際、叔父さんと一緒に初めて立ち寄った施設だった。


 よかった。

 これで大まかな場所が掴めた。


 とはいえこれでは目的の教室と反対側に来てしまったことになる。


 遅刻だけは避けないと。


 踵を返し、図書館を後にしようとした。


 動かすべき足が止まったのは、見覚えのある人物が先を歩いていたから。


 巨大な黒百合のつぼみに似た帽子を目深に被り、服も靴も手袋も全て黒。素肌の一切を見せず、まるで自分の存在を黒塗りにしたかのような装いは、ルパラクル広しと言えども一人しかいない。


「ピ――」


 ――レア先生。


 声が喉の奥で止まってしまう。


 原因は彼女の後ろに二人の男性が現れたから。


 一人は大柄、一人は小柄(とはいえ私より断然高い)。どちらも金の刺繍が施された厚手の服を着飾り、緑、赤といった鮮色のマントを肩の片側だけに羽織っている。


 身なりは良いが、そのぶん性根が悪そうな人達だった。


 二人はピッタリとピレア先生の後に付ける。


 犯行はほんの一瞬だった。


 先生の鞄に手を差し入れたかと思えば、風のようにスルリと本を取り出し、そそくさと自分の懐へと仕舞い込む。


 まるで巧妙な曲芸を見せられたかのような一部始終に、ただ茫然と眺めている他なかった。


 そのうち小柄の男性が私に気が付き、茶髪を揺らしながら近づいてくる。


「見てたか?」


「いっ、や、ちょっと……」


 ギョロリとした瞳に圧倒され、うまく言葉が出てこない。


 すると大柄の男も私の方へと駆けつける。黒い袋を膨らませたかのような山高帽を被っており、元ある高身長に加えてさらなる威圧感を増していた。


「ち、違っ、叔父さ……」


 助けを求めて振り返るも、そこには誰もいない。


 叔父さんはもう帰ってしまった。


 私を成長させるために。


 一時は希望に満ちた彼の良心が、こうも残酷な側面も兼ね備えていたとは思いもしなかった。


 助けを求めた私の声は空しく霧散する。


「見てたな」


 大男の地鳴りのような声が響く。

 少しの抑揚もない確定的なまでの言葉は、まるで私の本音が他人の喉を借りて出てきたかのようだった。


 ああ、私どうなっちゃうんだろう。


 良くてボコボコ。悪ければ死。


 頭の中では最悪の光景が何度も何度も繰り返されていた。


 恐怖のあまり喉は詰まり、うめき声の一つも出ない。

 体は首から下が切れたかのように動かない。


 助けを呼ぶにも逃げるにも、一人では何もできなかった。


「ああ、見てたぜ。ガキに喧嘩売るところをな」


 芯のある女性の声がした。


 振り向こうとしたところ、声の主は自ら前にやってくる。


 藍色の短髪の内側から青色の長髪を垂らし、肌に密着するほど窮屈な制服を着用している。それでも様になっているのは、ひとえに端正な体付きによるものだろう。


 硬質な靴を履いているせいか、彼女が歩みを進めるたびにカツリ、コツリと力強い音色を回廊内に響かせた。


「……リベラだ」


 小柄の男が眉をひそめ、呟いた。


「本の盗難がよ、最近やけに増えてんだ。ォマエ等なんか知らねぇか?」


「知るかよ。さっさとに帰れ」


 大柄な男は私を押しのけ、リベラさんの前に出る。


 いくら肉付きが良いとはいえ、いざ対面するとその体格差は歴然だった。


 しかし彼女は臆することなく、余裕の表情を浮かべている。


「ああ帰るさ、テメェから盗本を奪ってからな」


「見てやがったなッ!――」


 ――拳が飛ぶ。


 しかしリベラさんはサラリとかわし、逆に相手の足をすくう。


 態勢を崩した男は、そのまま床へと突っ伏した。


「血の気の多い奴は好きだぜ? 合法的になぶれるからな」


 倒れた巨人をなお見下す。


 そんな彼女の手には、いつの間にか盗まれた本があった。


 密にして細緻。

 つるいばらといった植物が色鮮やかな顔料で描かれており、空白の一切が存在しない。


 何人もの職人を経てようやく完成したかような、読み物というより一つの芸術品に近かった。


 どんなことが書かれているのかすこぶる興味があったが、どこにも題名らしき文字は見当たらなかった。


 リベラさんは盗品を持主に届けてやる。


 私からだんだんと離れて行ってしまう本を、ただただ見届けることしか出来なかった。


「ほら、折角の装飾本なんだ。大切にしろよ?」


 何故かピレア先生は一言も発さない。

 代わりにぎこちないお辞儀を何度も何度も繰り返していた。


「……がっ、学徒に暴行するのかよ」


 倒れていた巨人がうなる。


“学徒”という不相応すぎる単語が飛び出し、慌てて目で追う。すると彼の太い指には学章が刻まれた指輪が確かにめられていた。


 素材は鉄。

 つまりは本物の学徒ということ。


「愛だよ愛。それにコケて怪我したのは自分だろ? あ?」


「クソ……がっ!」


 憤慨ふんがいした不良学徒はよろめきながら立ち上がり、そのまま倒れるくらいの勢いでもって再び殴り掛かった。


 マズい。


 一度目は相手の力を上手く利用し、いなしていた。


 しかし今度は後ろにピレア先生が立っている。


 つまりはなから避けるという選択肢が封じられていた。


「賢いじゃねぇか、馬鹿のくせに」


 拳が、巨体が、迫っている。


 しかしリベラさんは悠長に、ポケットに手を入れていた。


 飄々《ひょうひょう》とたたずんでいる様はとても暴徒を受け切れるとは思えない。


 もはや二人の間は息が混じるほど近かった。


 ぶつかる……!


「惜しかったなぁ」


 あろうことかリベラさんは、笑いを必死にこらえていた。


 途端、不良学徒が不自然に止まる。


 急に停止したものだから、体は短くも激しく揺れ動く。


 一瞬のことで何が起きたのか理解できなかった。ただ目の前では今もなお、青年は拳を振り上げた状態で制止している。


 その表情は強張こわばり、目は点になっている。恐らく彼の内面でも私と同じ感情の濁流が押し寄せていることだろう。


 魔法を使った?


 しかし頭の中でいくら巻き戻しても、リベラさんは悪態をくだけで詠唱の類は発していない。


 つまり……


 ……疑問が答えに変わりかけたその時、不良学徒の服の内側から小さくて丸い何かが落ちた。


 乳白色の宝石で、中央には人物らしき誰かの横顔が彫り込まれている。


 リベラさんは足元のカメオをヒョイと摘まみ上げ、品定めをするかのようにじっくりと見回す。


「おいおい、ピレア先生じゃねえか。お前のか?」


「ち違っ……ぬ、盗んだ、盗んだ奴だ」


 たちまち赤面する学徒。


 その様子をしっかり見届けたリベラさんは、ニッタリと悪い笑みを浮かべた。


「だったらよ、もっと上手に隠さねぇとなぁ」


 リベラさんは男の腰に腕を回したかと思うと、手に持ったカメオをズボンの中に突っ込んだ。


 厚い布越しに彼女の手がモゾモゾと動いている。


「お、あ、なっ、なんで動かねぇん……あ゛ッ」


 クイッと腕を上げたところ、咆哮にも似た声が漏れた。断末魔とも取れる短い悲鳴を最後に、学徒はしんと静かになる。


「あーぁ、伸びてやがる」


 残念がるリベラさん。


 ズボンから腕を抜いて離れると、もう一度自身のポケットに手を入れた。すると制止していた巨体はドサリと力なく地面に倒れる。


「おいそこのチビ、早くコイツを連れていけ。でねぇとォマエにもやるぞ」


 指をヒラヒラと見せつけるように動かす。その手には特殊な手袋が嵌められており、中指と薬指の二本にだけ、黒くてしなやかな薄布が着せられていた。


 片割れの学徒もそそくさと逃げ出した。


 一通りの脅威が去り、ホッと胸を撫でおろす。


 するとカツコツと靴音が聞こえ、気付くとリベラさんが私の眼前に立っていた。


「なぁコルダ。サウロはどうした」


 目付きは先程の鋭いままだ。


「か、帰りました」


 直視ができず、目線を逸らして答える。


「ォマエみてぇなガキを置いてか?」


「年齢的にはもう、大人です。……それに叔父さんは私が早く自立できるよう――」


「――歳は関係ねぇ。見た目がガキだから舐められたんだ。それに自立する前に倒れちまったら意味がねぇだろ」


 容赦のない正論。


 けれど、だからといって、ここまで否定され続けると無性に悲しくなってくる。


 行き場のない嫌な気持ちは少しずつ心をむしばむ。


 言葉は毒が塗られた針だ。


 いっそあの学徒に殴られた方が、清々しい悔しさを味わえたのに。


「……ほら、コイツを貸してやる」


 ポケットから取り出したのは小さくて太い棒。彼女のてのひらに収まるほどで、見た目は木製の乳棒にそっくりだった。


「使いてぇ相手を決めて握ればいい。効果はさっき見せたよな」


「で、でもそれじゃあリベラさんは……」


「普段は図書館に籠ってんだ。自分から飛び込まねぇ限り無ぇよ」


 半ば強引に手渡された。


「あっ、ありがとうございます。因みに、なんていうんですか?」


「軽警棒」


「あ、安直過ぎる名前ですね……。(もうちょっと良い名前くらいつけられなかったのかな)」


「そりゃ本人に言ってやれよ」


 限りなく小さく呟いたはずなのに、まさか聞かれてるとは思わなかった。


「だ、誰なんです?」


「今朝も寄ってたろ、懐かしい茶の匂いがする」


 瞬間、先生の面影が脳裏を駆ける。


「……あ」


 いくら考えが及ばなかったとはいえ、今後の悪態は止めようと思った。


「それはそうと……コルダ、一時課はあるのか?」


「……あっ!」


 気付けば既に太陽は昇り、街には鮮明な光が差し切っていた。


 回廊を往来する人々は商人や住人が殆どで、学徒の姿はおろか、いつのまにかピレア先生の姿も無い。


 頭の中には“遅刻”の文字でいっぱいになっていた。


「ごっ、ごご、ごめんなさい!」


 踵を返し、走り出す。

 咄嗟に口走った言葉は急に逃げ出したことへの謝罪も兼ねていたのかもしれない。


 後悔の念に駆られるも、今は必死に足を前に出さなければならなかった。


「あぁ行ってこい。授業の時間だ」


 力強い彼女の声が、私の背中を押してくれた。

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