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III. 眠れる書架の美女

 ぶ厚い布を押しのけ中へと入る。目の前に現れた堅牢な扉は、まさに山を割ったかのような迫力があった。


 打ち込まれた鉄鋲を横目に進んでいると、嫌な臭いが鼻に付く。不思議に思い、今度は注意深く嗅いでみた。


 どうやら臭いの元は扉のようで、近づいてよくよく見てみれば、黒くすさんだ木目に対して、まるで保湿をするかのように何かしらの薬品が塗られてあった。


 塗布してあまり時間が経過していないのか、まだ若干の水気を帯びている。


 修繕にしても魔法を使えばすぐなのに。

 なんでこんな回りくどいやり方をするんだろう?


 魔法使いが生まれるこの街で。


 疑問の種はすくすくと育ち、頭の中で大いにしげる。しかしこのまま黙考していても答えは一向に出ないだろうし、ましてや臭気に晒され続ければ変な病気をもらいかねない。


 刈り取る術がないままに、陰鬱いんうつとした気持ちで歩み出した。




 小気味よい音が足底からする。


 ここが図書館だからなのか、床材も野外の粗悪な石とは違い、まるで雲海を切り取ったかのような美しいものになっている。


 気品あるものは音色まで上品なのだろうか。等間隔に鳴る靴音に耳を澄ませば、悶々《もんもん》としていた気分も少しだけ穏やかになっていた。




 ルパラクルが誇る大学図書館。


 立地としては他の店舗と同様、回廊内に入口が設けられているため特別感は全く無い。しかし一歩踏み込めば、そこは本の宮殿が際限なく広がっている。


 暗色の木棚には様々な彫刻が施されており、本を保管するためだけの家具とは一線を画す。さらに棚との隙間には、大理石の胸像や装飾照明といった調度品を敷き詰めているため、豪華さに拍車を掛けている。


 もはやここは人が知識を得るための施設ではなく、本が快適に過ごせるための街だった。


「よぉ、どうした」


 圧倒的な美にほうけていたら横からいきなり声がした。驚きながら顔を向ければ、受付にリベラさんが座っている。背もたれにやや体を預けてはいるものの、姿勢に一切の歪みが無い。彼女の性格上、机に足をドカリと乗せるのが自然だと思っていたので意外だった。


「あっ、えっと、調べ物を……」


「そりゃいい心掛けだな」


「……」


 会話が途切れる。


 このまま割り切って本を探しに行けば良かったのだが、次の言葉を探しているうちに頃合いをすっかり逃してしまった。


 黙って立ち去るのも何となく気が引ける。


 別の話題とかあれば……。


 あ。


 記憶を辿っている最中、丁度いい質問が転がっていた。


「そういえば玄関の幕……」


「あぁ、街の奴らが修復してんだよ。しっかし休みだと思われてんのか、今日は殆ど来ねぇ」


「そっ、それですよ、それそれ」


「? 別に怠けてる訳じゃねぇぞ、本を読んでるだけだ。今はな」


 私にも見えるように本をチラチラと見せつけてくる。


「ち、違いますよ。修復の方です。なんで魔法を使わないんですか?」


「そりゃあ魔法で直したくないからだろ」


 至極当然な答えが返ってくる。


「で、でも、魔法の方が便利じゃないですか。すぐに直せますし、なんなら新品の状態にだっ――」


「――お前は時間の重さを理解してない」


 続けて大きな溜息を吐く。


「……コルダ、もしお前がここの本を汚したらどうする」


「? 魔法で直さないで直ぐに返しに行きます。利用契約はちゃんと覚えてますよ」


「じゃあ続けて聞くが、どうしてそんな決まりが出来たと思う」


「……分かりません。というか何なんですか? 扉と関係あるんですか?」


「あるから聞いてんだろ。学徒なら頭を使え」


 そうは言われても。


 現状聞いた話によれば、玄関の扉は街の人が修復していたらしい。けれどなぜ無用な作業をしたのかは謎のまま。


 本を破損させ、勝手に直したらいけない理由も分からない。だって、魔法は万能だから……あ。


 また今朝の思い出が蘇る。


 割れたコップを完璧に直せたはずが、実はまだヒビが残っていて、その結果再び割れた姿に戻ってしまった。


 リベラさんの言う「時間の重さ」とはつまり、歳月が経過した価値ある物だ。それを素人が勝手に直そうとして失敗でもすれば、修復は更に難航するだろう。


 利用契約はこの二度手間を予防するために定められた?


 ともすれば、どうして専門職に就いているのにも関わらず魔法を行使しないのか。


 あぁ、まただ。また謎が一周してしまった。


 玄関でひとり苦心してるのと全く同じ。


 助けを求めてリベラさんに視線を送ってみる。けれど彼女は毅然な態度でもって、私の助力を拒絶した。


 明確な答えが無いままに、迷いで鈍重となった口をなんとか開く。


「失敗した時が大変……だから?」


「いや違う。掛けた時点で“失敗”なんだ」


 ?


 上手く言葉が呑み込めない。


 つまり本や扉には修復の魔法が使えないってこと?


「いいかコルダ。魔法ってのはどんな汚れも傷も、みんな綺麗に直しちまう。それこそ新品同様にな。だがな、それは同時にソイツ等の“生きてきた証”までも奪っちまう行為なんだ。だからォレは……いや、ォレとこの街の連中は修理に魔法は使わねぇ」


 ふと、玄関で見た扉のことを思い出す。全体がすすにまみれたような黒色で、細かいひび割れを埋めるように薬品がまんべんなく塗られていた。


 物を大切にする気持ちは十分理解できる。しかし私は、それでも緩やかな破壊の手助けをしているようにしか思えなかった。


「そう……なんですね。理由は分かりました。それに、これからも契約は、守ります。でっ、でも、やっぱり魔法を使わないのはおかしいと思います。だって、ここは魔法使いの街なんですから」


 聞くや否や、リベラさんはふっと顔の力を抜き、短くて軽い溜息を吐く。彼女の眼差しは、少しあきれたような感じがした。


「ォマエも大人になれば分かる」


「……年齢的にはもう大人です」


「色々経験しろってことだ。ほら、さっさと勉強してこい。ここで話してるよりかは有意義だろう」


 疎ましそうに手を払う仕草をする。


 私も話す目的が無くなったので、すんなりとその場を後にした。







 書架の間を縫うように歩く。


 こうして棚を眺めていると、一つ一つに違った顔があることに気付く。つる植物の彫刻に、あっちは動物の彫刻が。


 もっと目を凝らせば、細工の先端の色が微妙に違う。既存の模様とは関係ない、この突飛な改変は、リベラさんの言う“魔法を使わない修理”が行われた形跡だろう。


 一度気になると抜け出せない僅かな誤差。もし魔法を使う許可があれば、こんな境界線すぐにでも塗り潰してしまうのに。


 リベラさんやこの街の人の矜持きょうじは、私にとってまだまだ分からない美徳だった。




 魔法の区画に到着する。


 流石魔法大学というべきか、魔法に関しての知識は旧魔法・世界魔法ともに膨大だ。


 それに先生が世界を訪ね歩いて収集しただけあって、旧魔法の通りだけで何列もある。


 1、


 2、


 3、


 4、


 5、


 6、


 7列もあった。


 やっとの思いで世界魔法の区画に入る。


 内的魔法……ここかな?


 とりあえず目的の列に到着した。しかし辺りは黄昏たそがれ時のように薄暗く、奥に行けば行くほど、闇夜の不気味さが広がっている。


 装飾照明から漏れる暖かな光は、図書館の荘厳な雰囲気を見事に照らし出している。けれどその一方で、真面目に探索する者にとっては完全に仇となっていた。


 ハッキリ言って奥に進むのがとっても怖い。


 幸いここに来た理由が内的魔法の大まかな知識を得るためなので、漁るのは入口周辺に限定することにした。


 ここの本はどれも古い。


 変色したもの、カビまみれのもの、それに取り出そうとしただけで壊れそうなものまで。


 もはや題名で探すというより、背表紙の雰囲気で自分好みを見つける方が正しいのかもしれない。


 数ある骨董品の中から選ばれたのは、色白の鈍器。経年劣化のせいか、表の獣皮は素焼き煉瓦れんがのように荒廃していた。とはいえ周囲の本と比べたら、これでも状態は良い部類。


 手違いで落としてしまっても、壊れない頑強さを備えていた。


 ん。


 腕を伸ばす。

 届かない。


 つま先立ち。

 届かない。


 あとちょっとなのに……。


「あの叔父さ――」


 ――慌てて口を押える。


 そうだ、そうだ。


 叔父さんはもういないんだ。


 口から放し、行き場を失った手を、今度は首に掛けた学章に向かわせた。


 静かに目を閉じる。


 まぶたの裏には、本棚の様子がまだ鮮明に焼き付いている。このまま自分が理想とする未来を明確に、着実に形にしていく。


「《――|necto《接続》〔本が抜け出て、手元に降りてくる〕eratあった――》」


 目を開ける。


 すると頭上には、宙に浮かぶ件の本が。


 やった!


 途端、急に降ってくる紙の塊。


 直後に頭の芯から鈍い音と鋭い痛みがやってきた。


「あ゛ッ うぅぅぅぅ……」


 私を殴った張本人は落下した勢いのまま、バサリと床に開き直る。


 涙で視界を歪ませながら、忌々しい犯本を何とかして拾い上げる。なかなかの重量と大きさから、立って読むことを諦めて近くの席へと連行した。


「……なにこれ、絵本?」


 奇妙な絵が次から次へと描かれている。そのうちの一つに赤色の毬栗いがぐりのようなものがあり、右下には小さく「苛立いらだち」と題されていた。


 子供の妄想を書籍化したような杜撰ずさんな内容。しかし道楽としてはあまりに釣り合わない写実的な絵に疑問を抱く。


 めくる指を一旦止めて、最初のページに遡る。


 そこには『奈落へのいざないい』と大きな装飾文字が書かれおり、直下には簡素な挿絵もあった。井戸を真上から覗いた構図で、内部は黒で塗り潰されている。漆黒に染まる中央には、見開かれた単眼がこちらを静かに凝視していた。


 ふいに視線を本から外し、元来た本棚へと向ける。


 手前には照明の暖かな光が満ちているのに対し、遠くに行くほど暗闇の濃さが増す。墨壺のようにのっぺりとした深淵には、まだ開かれていない無数の目があるように思えた。


 じわり、と背中に冷たい汗がにじむ。


 きょ、今日はもう帰ろうかな。


 いそいそと本を担ぎ、席を立つ。


 内的魔法の棚まではさっき覗いた時に把握済み。大体13歩すすめば着くはずだ。もうあの暗がりを直視したくないので、下を向き、なるべく目を閉じながら歩きだす。


 13、


 12、


 11、


 10、


 9、


 8、


 7……あれ?


 最初の違和感は足元だった。


 先程まではカツリ、コツリと軽快な音色だったのに、最後はだいぶこもっていた。


 すぐさま記憶を巻き戻しても、床には何も敷かれていない。一瞬なにかを踏んだのかとも勘ぐったが、足裏は至って水平だと頑なに主張し続けている。


 このまま暗闇の中で考えていても埒が明かないので、恐る恐る目を開けた。


 屈めた視界に現れたのは、風化しきった木目だった。濃厚な焙煎ばいせん色を放つ板材が交互に組み合わさり、複雑な模様を連続的に生み出している。しかしいくら美しく並べたとしても、表面にはほこりやカビが満遍なくまぶされていた。


 しかし問題は床に限った話ではない。


 先程まで私は大理石の上にいた。それに最低でもあと6歩分は続いてないとおかしい。


 じゃあここは……?


 ゆっくりと姿勢を正す。


 より開けた視界には、図書館とよく似た光景が広がっていた。


 まるで黒檀こくたんを彷彿とさせる古棚が列を成している。また棚と棚との間には、装飾された照明器具や微細に彩色された壺、それに白く滑らかな石像などが配置されていた。


 豪華な調度品に囲まれているのは、元居た場所とも類似する。


 しかし辺りに漂う埃とカビの多さから、さながらここは本の霊廟れいびょうだった。


 ルパラクルに来てすぐの頃、私は叔父さんと二人で館内を散策したことがある。夢にまでみた憧れの場所の、それも特に関心のあった知の殿堂に足を踏み入れたのだ。嬉しさのあまり、そのまま足と膀胱ぼうこうが限界を迎えるほど、くまなく何周もしたのを覚えている(ちょっとだけ間に合わなかった)。


 でも、そのお蔭で大体の間取りは掴んでいる。


 だからこそハッキリと言えるのだ。


 こんな場所は


「……どうしよう」


 負の感情が私の声を奪ったかと思うほど、自然に言葉が漏れた。


 とはいえこのまま立ちすくんでいたらダメだ。


 どこもかしこも埃とカビで覆われた現在地。言い換えればそれだけ人の出入りが希薄ということ。立ち入り禁止区域の可能性が十分あり得る。


 仮に本当だった場合、リベラさんと出くわしたらどんな制裁が待っているのだろう。


 悪漢のお尻に平然と異物を挿入できる人だ。


 だからこそ、想像するだけで恐ろしい。


 さっさと経路を探すべく、せわしなく首を動かす。


 するとどうだろう。先程よりも冷静さを取り戻せたからか、状況をより俯瞰ふかんして捉えられる。


 そこで新たに、不可解な点が現れた。


 棚の形状や調度品の種類は元居た場所と完全に異なる。しかし諸々の配置は完全に同じなのだ。列の数に照明の角度、それに後ろの机だって……


 ……あれ?


 机の上に何かある。


 埃が雪のように積もっているため、全貌は明らかでない。けれど分厚い板状の物といえば、ここでの答えは一つしかなかった。


 本来ならば、決して入れない場所。もしかしたら世には出せない“禁書”の可能性だってある。


 魔法使いの禁書となるとどんな内容なんだろう。


 瞬間、脳裏に“内的魔法”の単語が飛び出す。


 アエス先生は「まだ安全性が取れてないから」と危険視していたが、発展のために失敗は付き物だ。それに今日こんにちの常識は過去の異端から生まれるものでもある。


 ひょっとしたら、この忌々《いまいま》しい迷子を治す糸口も見つかるかもしれない。


 棚から出すには気が引ける。しかしこうして無造作に置かれていたら話は別。この機を逃したら二度と訪れない貴重な体験が吐息が掛かるような距離にまで近づいているのだ。


 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでもいいから、中身を読んでみてみたい。


 気付けば大本を棚に立て掛け、机へと駆け寄っていた。

 それからぬるりと手を伸ばし……。


 ぐにゅり。


 不快な感触に困惑する。


 通常、本の表紙は『奈落へのいざない』よろしく固いものだ。それこそ二階から落としても壊れないほどに。けれど手から伝わる感覚はまるで畳んだ毛布のような弾力がある。それに腹の部分には、太い縄のようなものがぐるりと巻かれている様子だった。


 けれど厚い埃に保護され、目視では判別できない。


 強く息を拭き掛ける。


 すると一瞬で視界が曇るほど、大量の埃が霧散した。


「へっ……へぷぃ…………へぷェしォ――」


 ――びゅるるべちゃり。


 多量の鼻水が噴射された。汚らしい粘液は私と本とを繋ぎ止め、あたかも透明な橋を建築する。鼻奥からなおも供給される物資に、橋梁はより強固なものへと変貌していた。


「ぃやっ……ば!」


 気付いた頃にはもう遅い。既に表紙には多量の鼻水が垂直の池を形成し。よだれの飛沫が朝靄あさもやのごとく全体に発生している。


 袖口そでぐちで何とかぬぐうも、今度は吹き飛ばされなかった埃と交じり合い、余計に表紙を汚すだけだった。


 マズい!


 マズい!!


 非常にマズい!!!


 ちょっとだけ読もうとしただけなのに!

 こんな所リベラさんに見つかれば確実に殺されてしまう。


 もうちょっと強く擦ってみる?

 あぁ、どうしよう粘土みたいになっちゃってる……。


 もういっそのこと魔法で瞬時に――


『――待ちくたびれたぞ』


 まるで澄んだ水のような、美しい女性の声がした。


 それも、物凄く近い距離で。


『……あぁ、分かってる。そうだな、ほら、いつものように愚痴を聞かせてくれないか?』


 間違いない。声の主はこの本だ。


 なぜ本棚に返却されず、ひとつ机上に置き去りにされていたか。今ならその理由がハッキリ分かる。


 喋る本が一体どこの区分に入るというのか。


 すぐさまこの場から逃げ去ってしまいたい。けれどあまりの恐怖から手を離せられずにいた。


『なぜ話してくれない』


 改めて言葉を投げかけられる。


 先程とは打って変わり、子供に語り掛けるように優しくほがらかな口調で喋る。しかし語尾は先程よりも物悲しいさで濡れていた。


 またしばらくの沈黙が流れる。


 墓場のようなこの空間で、静寂は猛毒のように私の精神をむしばんでいく。


「その……ごめんなさい人違いです」


 重圧に耐えきれず、とうとう口を開いてしまう。


『き、聞こえてるのか!? わっ、わぎゃ、きゃっわ、わ我輩の声が?!』


「ごめんなさい! 今すぐ綺麗にして戻しますから!」


 こする力が自然と強くなる。


『んゃッ、やめろ! 痛い!』


「ごめんなさい悪気はなかったんです! もう返すので怒らないでください! ごめんなさい! さようなら!」


 すぐさまこの場から逃げ去ろうと、本を机に置こうとした。


『なっ、ま、まっ待ってくれ! 我輩をここから連れ出してくれ!』


 絶叫とも悲鳴とも取れる音を聞いた途端、私の意識は速やかに暗転した。

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