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IV. 返却会議

 意識が戻る。


 急に開かれた視界には、見慣れた天井が映っていた。背中に柔らかな反発を感じられることから、どうやら自室のベッドに横たわっていたらしい。


 でもどうして寝てるんだろ。


 まだ目覚めていない頭でも、今朝の授業に出席したのは覚えてる。


 それから私は図書館に行って、行って……。


 紐がほどけていくかのように、その後の記憶が蘇る。早朝の授業に触発された私は、館内で内的魔法について調べようとした。それから本を棚に戻そうとしたら知らない場所に移動していて……。


 忘れ去られた本の墓場で、私は見つけてしまった。


 人の言葉を話す本を。


 本にしては弾力のある感触、埃の膜から覗かせる滑らかな獣皮、そして腹にかれた太い縄。


 生々しい光景が脳裏を巡るとき、背中にゾクリと寒気を覚える。


 違う、

 違う。


 こんなの嘘、ただの妄想。


 全部私が作り出した架空の出来事なんだ。


 そう、私はただここで寝ていただけ。本当は資料探しに歩き疲れて、寝てしまっただけなんだ。


 じゃないと説明が付かない。


 本を棚に返そうとしたら突然別の場所に来てましたとか、本に声を掛けられましたとか。


 そうだ、

 そうだ。


 全て悪夢が起こした幻だったんだ。


 納得のいく結論が出たところで、体にぬくもりが戻って来た。


 無駄にかいた脂汗をぬぐう。


「えっ?」


 ふと袖口そでぐちに目をやると、何故か黒く変色している。おまけに何故かのように表面が固くひび割れていた。


 確かに私は悪夢の中で、鼻水と唾液にまみれた本を袖口を使って綺麗にしようとしていた。


『起きたか』


 驚き、素早く首を倒す。しかし振り向く頃には、既に静かになっていた。


 物が散乱した室内。


 書籍と紙まみれの机、服が飛び出て半開きとなった衣装箱、下着が散乱した床。叔父さんが帰ってしまったことで自立心をぽっきり折られた私の部屋は、もはや獣の巣となり果てていた。


 無茶を言えば雪崩なだれが偶然、声として聞き取れたのかもしれない。あまりに脆い期待を頼りに、音がした方へと歩み寄る。


 感覚だよりに近づいた先に、私の鞄が浮いていた。


 見た目は四肢ししの無い豚の丸焼き。必要なものを詰め込んでいたら、いつの間にかこんな醜態しゅうたいとなってしまった。とはいえ、まだ中で物同士がぶつかった可能性は十分に残っている。


 ありませんように、

 ありませんように。


 祈る手を恐る恐る蓋へ伸ばし、ゆっくりと開けた。


 散乱した文房具、とりあえず買った魔具の数々。積み重なった参考文献。地獄の釜と化した内容物の中央には、あれだけ消えてほしかったくだんの本が堂々と鎮座していた。


「あぁ、夢じゃないんだ……」


『大丈夫か? うなされていたぞ』


 一体だれのせいで……。


 絶望に暮れる私を余所よそに、本は優雅に言葉を奏でる。けれどその体は私の鼻水と唾液、そして大量の埃によって廃棄物同然となっていた。


 あまりの不潔さから正直いって触りたくない。だが、このまま放置しておけば、鞄の中が汚染されてしまう。


 どちらが面倒かを考えれば、本を取り出すほかなかった。


 ぐにゅり。

 妙に柔らかい不快さがてのひらを介し全身に広がる。


『ひャいッ! おい、急に触るな』


 無意識に手が開き、本が落ちる。


「ごっ、ごめんなさい、その、埃まみれだったので綺麗にしようと」


『それは…………すまなかった』


 空になってしまった手で学章を握り、もう片方の手でポケットからハンカチを取り出す。


「《――|necto《接続》〔湿ったハンカチ〕eratあった――》」


 軽く握ってみると確かに水気を感じられる。魔法については何かと失敗続きだったので、きちんと成功したのは内心うれしかった。


『なんだ? その呪文は』


「詠唱です。魔法を使う時に言うんですよ。安全のために」


 慣れない手つきで本を拭く。分厚い埃の堆積層をごっそりすくいい取る爽快感。めったに味わえない体験を薄い布越しから楽しんだ。


『他にどんな魔法を使うんだ?』


「どんなって……まぁ色々です。物を直したり、浮かせたり。あとは傷の治療も多少なりとも出来ますよ」


『そうか。声からして子供とあなどっていたが、これからは認識を改めねばな』


 思わずぴたりと手を止めてしまう。


 というのも、私はこれまで自分の容姿を散々いじられ続けてきた。「ガキは黙ってろ」「パパとお使い?」「大人になれ」いま思い返しても酷い内容だ。だからその都度、真面目に反論するのだが、単なる子供の戯言として聞き入れてはもらえなかった。


 しかしどうだろう。


 この本は私を馬鹿にしないどころか、むしろ考えを変えてしまった。尊敬すら感じさせる対応に、常に曇っていた心の隅に光が差し込む。


「へっ、えへ。あ、ありがとう……ございます」


『なぁ、名前を教えてはくれないか。未来の学者を覚えておきたい』


 み、未来の学者だなんて。

 なんて言葉が巧みなんだ。


 そのうえ楽器のような声でもって私を褒めるものだから、まるで私のためだけに作られた曲を演奏してるようだった。


「こ、コルダです。そ、そちらは?」


『へっあ? えっ! あっ、その……。ぱ、ぱっぱぱあぱ(ぱ……てぃにゃ……)』


「はい?」


『……パティナ! 我輩の名はパティナだッ!』


 窓ガラスが割れそうなほどの絶叫が部屋を震わせる。


 相当興奮しているのか、発言後もしばらくは呼吸を荒げていた。


 たかだか名前を言うだけなのに、どうしてそこまで躍起やっきになるのかよく分からない。


 どす黒く変色した面を無造作に畳み、再び拭く作業に戻る。


 ひと拭きごとに現れる、いにしえの面影。極端に簡略化された発掘作業は、たちまち私を学者にさせる。


 どうやら胴にかれていたのは深紅の組紐だった。少しも色落ちした形跡は無く、一切のほつれも見当たらない。まるで今しがた完成したかのようななまめかしさがあった。


 こんな美しい装飾品を伴っているだなんて、パティナさんは一体どんな内容なんだろう。


 試しに傾けてみる。


 あれ?


 何故かページが一枚も無い。分厚い表紙同士が合わさっているだけ。言い換えれば板を折り曲げた状態に等しい。


 これは本なのだろうか?


 疑念の種が芽吹きつつも、向きを戻す。


 あらかたの作業も終わり、あれだけ積もっていた埃ももはやもやかすみか。丹念になめされた獣皮は軟膏なんこうを彷彿とさせた。瑞々《みずみず》しいというか、加工途中というか、まだ完全に乾いていない。それに妙に柔らかな感触といい……


 ……本当にこれは本なのだろうか。


 震える手でハンカチを折り、最後の作業に取り掛かる。本能はしきりに「やめろ、やめろ」と訴えかけるも、私は積もった不安を文字通り払拭したかった。


 表紙の上に置き、静かに下ろす。


 布が通過し終えた僅かな隙間。


 実に繊細な表紙だった。


 固まった油のようでいて、内にはまだほのかな明るさがある。炎や照明石とはまた違う生物由来のこの光は、まさしく命のともしびだった。


 加えて生命を観察できるほど薄く透き通った生皮は、もはや獣とは言い難い。


 もっとこう、弱弱しい……。


 不意に視線を落とした先、答えは表紙のすぐ近く、小汚い布に包まれていた。


 自分の手、ひいては人間の皮膚。


 もしかしてパティナさんは人間だった?


 冗談めいた結論だった。しかし人の言葉を話すこと、持った時の異様な柔らかさ、獣皮とは掛け離れた表紙、といった個々の疑問がこの一言で綺麗にまとまる。


 お腹の底から湧き上がる得体の知れない恐怖に、手が完全に止まってしまった。


 もう触っていたくない。


 掃除も不完全なまま、汚くなったハンカチをポケットに突っ込み、パティナさんを静かに置く。


「おっ、終わりましたよ」


 動揺を隠していたつもりなのに、声が震えてしまう。


『ああ、礼を言うぞ、コルダ。しかしお前には助けられてば……』


 耳が聞くのを拒絶する。


 さっきまで気軽に話していたのに、今は何ともおぞましい存在に変貌していた。


 取り返しのつかない後悔が今更ながらにやってくる。しかし、どれだけ心の内で助けを乞おうとも、叔父さんはもうどこにもいなかった。


『……それに加え我輩をくれたことには感謝しかない』


 え?


 言葉の端に聞き流してはいけない単語があった気がする。


 連れ出した?

 私がここまで。


 悪夢の最後。私の意識はパティナさんの絶叫と共に途絶えた。であれば目覚めても悪夢の中にいるはずなのだ。けれど私はこうして自室まで戻ってきている。


 どれだけ頭をまさぐっても、帰路の経緯だけは今も濃霧の中にあった。


 とはいえ問題は過程に限った話ではない。


 私は、パティナさんを、持ち出した。


 もちろん正式な手続きを済ませてるはずがないし、こんな本もどき、絶対借りれる訳ないじゃん。


 なのに自室にあるってことは、つまり……。


 盗ん、じゃった。


 誰がどうみたって立派な犯罪。それも人の立ち入らない場所にあるような本を持って帰ってしまったのだ。


 バレたらどうなっちゃうんだろう。


 失明するまでリベラさんに殴られる? いや、殴られて済むなら良い方だ。最悪、広場で晒し者にされ、二度と学徒と名乗れないかも……。


 これから起こり得る未来に、頭の血の殆どがお腹に下る。


 子供の頃からずっと憧れていたのに、こんな、よくも分からないことに巻き込まれた挙句に夢が潰えるだなんて。


 嫌だ。それだけは絶対に。


 早く何とか返して……。


 しかしここで大問題が発生する。


 どうやってこの本を返すのか。


 この場から動かした時点で、まず返却を疑われてしまう。


 下手に文句を言われると当然周りの人に聞かれる危険があるし、しかも相手がリベラさんだった場合、問答無用で鞄の中を検閲するだろう。黙らせるといっても口が無いから不可能だ。


 どうにか良い解決手段はないだろうか。


『その……あの、そこで……なんだが……。もう一つ我輩の頼みを聞いてくれないか。人を探してほしいんだ。我輩にとって大切な……人を』


「え?」


『無理な頼みだとは理解している。だが、この頼みを聞いてくれるのはお前だけなんだ。頼む……』


 追い詰められた必至さと、半ば諦めかけていた悲しさが入り混じったお願いだった。


 人探し。


 要するに連れていく口実が出来たということ。大問題の糸口がまさかの本人から舞い込んでくるとは思いもしなかった。


 とはいえ返却することを彼女に悟られてはいけない。


 一旦ここは提案に乗ったフリをしよう。


「一応聞いておきたいんですけど、その、どんな人なんですか?」


『探してくれるのか!』


「いや、まぁ一応……」


『そうだな。特徴は声だけなのだが、女のような優しさがある中で、男のような頼もしい一面もあるのだ。聞いているうちに安らぎを与えてくれてな、それはもう極上の響きだった……』


 心なしか表紙の肌が紅潮しているように思える。


 パティナさんにとっては思い入れのある人なのかもしれない。けれど一度も聞いたことが無い私からしたら、何の特徴もないのと同じだった。


「わ、分かりました。じゃあ、とりあえず探しに、いっ行きましょうか」


『ああ、ああ。本当に、本当にありがとう』


 表紙から涙が滲んでくることはなかったが、それでも声は過分に濡れていた。万人が聞けば、全員手を差し伸べてしまうような甘い誘惑。


 かくいう私も本気で人探しをしそうになった。しかし寸でのところで踏み留まれたのは、それ以上に私が置かれている状況が悲惨だから。


 リベラさんに露見されるよりも早く、パティナさんを返しに行かなければ。


 鞄の蓋を入念に締め、部屋を出る。


 心なしかこの部屋に来て、扉が一番重く感じた。

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