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VII. 誘惑はびこる就任式

 とても大きなお屋敷だった。

 それこそ、街が入ってしまうくらいに。


 しかも大きさだけに留まらず、質も大層なものだった。


 建物全体が大理石で覆われおり、陽光によって浮かび上がる純白さは、真冬の雪を彷彿とさせる。さらにアーチ状の窓枠には花や貝殻などの自然物がひっそりと彫り込まれていた。個々の特徴を掴む頃にはすっかり日が落ちているだろう。


 お屋敷を見渡せるこの広場には、行列の参加者たちで既に埋め尽くされている。近くの露店で買ったのか各々の手にはコップや食べ物を持っており、談笑に浸っているその顔は日暮れのように赤かった。


 お酒と汗の臭いにむせながら、なんとか入口を目指す。


 留まっているので危険性はそれほど高くはない。けれど油断しているとすぐさま視界を遮られてしまうため、迷わぬようお屋敷の位置を逐一確認しなければならなかった。


 せめて叔父さんが居てくれれば……。


 心の中で愚痴をこぼす。


 このような人混みがあれば率先して先頭に立ってくれて、はぐれないよう常に手を握ってくれる。どんなに行く手が困難な場合でも、私はただ足を動かしているだけで良かった。


 叔父さんがこの街を去ったのは、私の成長を願っての行動だと理解している。


 だけどこんな息苦しさを味わうのも、彼の言うところの“成長”に、果たして入っているのだろうか。


 口には出さない悪態が止めどなく浮上する。いくら悩んでも答えなんて出るわけない。ないのだけれど、現状の悲惨さを正当化したい大義名分がどうしても欲しかった。


 適当な理由を考えているうちに、遠くに臨んでいた入口がいつのまにかすぐ傍まで迫っている。


 まるで洞窟のような玄関だった。


 船舶せんぱくをも入れられ程の幅があるのに、出たい人、入りたい人が我先にと押し通るものだから、ここだけ異様な渦を形成している。


 人の波に流されながら、なんとか館内に入っていく。


 現在地を確認するべく、ふと視線を上げてみた。するとちょうど外界と館内との境目だったようで、まるで巨大な橋を潜る魚の気分だった。それから視界は室内用へと切り替わるべく一瞬にして暗転し、じわりじわりと回復する。


 やがて鮮明に映し出されたのは、くじらの骨格と見紛うほどの立派なはり燻製くんせいに掛けたかようなのっぺりとした木肌は、図書館に置かれている棚と同様の古めかしさがある。


 人に押し流されながら木組みの森を進んでいくと、やがて全身に掛かる圧が弱まっていき、あれよあれよと足が止まった。


 人の波から解放された……?


 その場で茫然と立っていたところ、後からじわりじわりと解放された喜びが押し寄せる。目的地に辿り着けた達成感も合流し、心が飛び跳ねるほど嬉しかった。


 でもまだまだ。

 これからが本番。


 ひとまず人混みから逃れようと入口付近にそびえる塔くらい太い柱に身をひそめる。


「(パティナさん、その、大切な人って近くにいますか?)」


 背後に浮かぶ鞄に耳打ちする。荒波に相当揉まれたのか、形が歪んでしまい、心なしかしわも増えた気がする。


『いや。全く聞こえん』


「そう、ですか」


 そうすぐには見つからないか……。


 ただ道中で騒がなかったということは、探してる相手もひょっとすると館内にいるかもしれない。


 希望の糸はまだ切れてはいなかった。


『なぁコルダ。その、学頭とやらは“王様のような人”だとか言っていたな』


 歩き出そうとした時、不意に止められる。


「(まぁ、聞いた話ですけどね)」


『……もしかすると……その人かも知れん』


「え⁉」


 あ。

 遅れて咄嗟に口元を隠す。


 申し訳なく辺りを窺うと、数人の大人が怪訝けげんそうにこちらを見てきた。


 お、思わず出てしまったんだから、仕方がない。


 と、とはいえ可能性としては無くはない。参列者としてあの波の一部であったのなら十分あり得る。それに学頭になるほどの人なら、立ち入り禁止の場所も知っているかもしれない。


 解決への糸口がつなのように太くなっていく様をありありと感じた。


『会わせてくれるか?』


「(もちろんです)」


 決意が固まり、柱の陰からひょっこりと顔を出す。


 石の林の中、巨木を使った長机がごろりと寝そべり、その上に様々な料理が所狭しと並べられている。遠目からでも分かる物珍しい盛り付けの数々は、物語でみた晩餐ばんさん会、そのものだった。


 興味本位を刺激され、自然と足が動く。


 近づくにつれてだんだんと料理の匂いが濃くなる。肉から漂う油と塩。お菓子から発せられる糖と牛乳。立ち込める美味しさは疲労した身に堪らなく響いた。


 参加者の輪に加わり、じっくりと料理を鑑賞していく。


 大学街とそこに住まう人々を詳細に再現した動くマジパン。焼けた自分の肉を均等に切り分ける家畜の群れ。極めつけは羽を広げた孔雀の口から火が盛大に噴出するものまであった。


 長机から溢れてしまったのか、浮遊する一枚の皿が私の前にやってくる。覗いてみると、お肉が綺麗に盛り付けられていた。


 今しがた焼き上がったようで、全体からは濃密な湯気がゆったりと立ちのぼる。切り分けられた肉の一枚一枚からは、透明な汁が押してもいないのにじわりじわりと流れ出ていた。


 お腹の底から音が鳴る。


 無意識に食指が伸びるも、リベラさんとの口約束を思い出し、とっさに指を引く。あの場では生返事だったが、まさかこんな惨事を招くとは。


 でもちょっとだけ、ほんの一枚でも……。


 ……いやダメダメ食べたら絶対次も食べたくなっちゃう。


 もし食べたのがバレたりでもしたら、それこそ目も当てられない。パティナさんを半ば窃盗しているのもあり、これ以上彼女を刺激したくはなかった。


 料理は目で楽しむもの。

 目的は学頭を探すこと。


 料理は単に通り道にあっただけで、今は食欲なんて微塵も感じない。


 ぐぅう。


 違う。お腹なんか減ってない。


 ぐぅぅうううう。


 お願い、黙って。


 ぐぎゅるぅぅぅるるるるるる。


 これじゃあ埒が明かない。完全に食の誘惑を断ち切るため、急いでその場を後にする。けれど匂いはかなりの強情で、まるで不可視の粘体のようにしつこく体にまとわり付かれた。


 匂いの束縛すらも弱まる頃、前方に何やら人だかりが出来ていた。密度でいえば貧相で、それこそ図書館前での人波や入口の渦と比べれば薄ら笑いが出てきてしまう。


 けれど人が集まるということは、それだけ興味を惹きつける何かがある証明でもある。


 行ってみる価値はありそう。


 大人たちの足元からスッと体をめり込ませ、中へ中へと侵入していく。人災とも呼べる二つの苦境を乗り越えた私にとって、こんなの狭い通路と同じだった。


「(ちょっと通りますね)」


「(ごめんなさい)」


「(失礼します)」


 心ばかりの謝罪を撒きながら奥へと進んでいく。


 人の合間を潜り抜け、ようやく開かれた場所に出た。


 周囲を確認すべく頭を上げると、目の前には王子様が立っていた。著名な彫刻と思わせるほど均衡きんこうの取れた美しい顔立ちで、灰色のつややかな髪を耳元まで伸ばしている。


 また身に着けている装束も引けを取らない美しさを放つ。動物由来の厚手のコートを羽織はおっており、正面の限られた隙間からは金糸で刺繍ししゅうされたあでやかな衣装が顔を覗かせる。


 豪勢な服装を決して見せびらかさない生来の気品さに、ただただ圧倒された。


「おや、これは可愛らしいひん客だ」


 王子様がついに口を開く。見た目もさることながら、発せられる言葉の節々も芸術品のように美しかった。

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