「どけ! どけ! 道を開けろ!」
怒号と水しぶきをまき散らしながら疾走するリベラさん。人通りが多いはずなのに、彼女の周囲は水と油のように人が左右に散っていく。
海を割ったかのような異様さがあったものの、お蔭ですんなりと彼女を追うことが出来た。
「あ」
やっと図書館に到着し階段を登ろうとしたところ、リベラさんは初めて動きを止めた。
それから左手の人差し指に
「《――|necto《接続》〔乾燥、乾燥、乾燥〕
水が絶えず滴り落ちていた制服が嘘のように乾いた。
「お前も乾かしてから入れよ」
そう言い残し、すぐさま奥へと入っていってしまう。
嵐が過ぎ去ったかのような静けさ。
自分の服からポチャリと水滴が垂れる音に気づき、いそいそと胸の学章に触れる。
「《――|necto《接続》〔乾いた髪、乾いた服、乾いた靴〕
ちゃんと想像したはずなのに、案の定ぜんぶ生乾き。まだまだ不快感が残るものの、時間を掛けさえすれば、そのうち自然に乾くだろう。
『我輩も頼む』
人目を気にして開けてみれば、パティナさんも全体的に水気を帯びていた。これくらいなら魔法を使うまでもなかったので、ハンカチを使って優しく拭き取る。
しかし結ばれていた真紅の組紐はそうはいかなかったので、仕方なく魔法を使うことにした。
「《――|necto《接続》〔乾いた紐〕
確認のために軽く握るとまだ少し水気を帯びていた。とはいえこの分なら放っておいても問題ないだろう。
「(終わりましたよ)」
『ああ感謝する。それで、掛けられたのか?』
うぐっ。
今一番聞きたくない質問が飛び出してきた。
「(いえ……ただ、すごく惜しいところまでは行けたんですけど……)」
一連の行動を振り返る。たしかに思い通りの過程を踏めず、目的も果たせなかったが、それでも我ながら良く頑張った方だと思っている。
ましてやあのリベラさんを相手にしたのだ。少しくらい褒めてくれても……。
『できなければ意味がない』
これまでの努力を全て打ち壊す言葉だった。
「((だってパティナさんが水に落ちるから……))」
自然と、本当にごく自然と、口から愚痴が
『聞こえているぞ』
「(知ってますよ。大体なんでこんな無理難題を押し付けられなきゃいけないんですか。私、それでも頑張ったんですよ? なのに『できなければ意味がない』だなんてあまりに酷くないですか? そう言うんだったら自分でやってくださいよ!)」
一度出てしまった言葉は止むことが無く、まるで
『そうだな』
これまでに聞いたことが無いほど、酷く落ち着いた声だった。
パティナさんを怒らせた。そう理解した時にはもう何もかも遅かった。言い知れぬ恐怖がじわじわと背後から忍び寄る。
「あ、その、言い過ぎまし――」
『――図書館に入れ』
足が勝手に前進を始める。
『初めからこうすれば良かったのだ』
「あ! 待っ、ごめんなさい! 許して! 助けて叔父さん!」
叫びも届かず、私の体は黙々と図書館に入っていった。
「よぉ、遅かったな」
リベラさんはカウンターにある職員席に、ゆったりと腰を掛けていた。
「あ、あのリベラさん、先に謝っておきます。ごめんなさい」
「いやいい。もともとォレが濡らしちまったからな」
違いますリベラさん。私が謝りたかったのは本のことじゃないんです。これから貴方に起こすかもしれない不祥事についての謝罪だったんで――
『――リベラの顔に唾を吐け』
唐突に放たれる死刑宣告。
「ぺゥうヴ」
唾が出てくる間際、両手で口を素早くで覆う。
直後、ぶちゃりと不快な音を響かせる。
お蔭で口元は唾液まみれになってしまったが、リベラさんに掛かるよりかは何十倍もマシだった。
『隠してある部屋の場所を言え』
「どうした風邪でも引いちまったか?」
『! なぜ掛かって……おいコルダ、どうして防ぐ!』
「じにたくなぃからぁ……」
両手で口を覆っているため上手く発音することができない。
『手をどけろ! もう一度、吐かせてやる』
もう両手で防ぐことは出来なくなった。次に命令が飛んでくれば、今度は確実に唾がリベラさんの顔に直撃することだろう。
この時、二つの破滅の道が脳裏を
一つは激
もう一つはパティナさんが見つかり、死ぬほど
どうしても生きていたかった私の答えは明白だった。
浮遊する鞄に急いで近づく。
「あのリベラさん! 見せたいものがあるんです!」
『あ、コラ喋るな!』
「ングゥむぅ!」
唇同士が引っ付いて離れない。パティナさんは私から言葉を奪えたつもりだろうが、そんな命令は大して
鞄の蓋に手を掛ける。あとはこれを
『――分かった、許せ! 我輩が悪かった!』
思わぬ言葉に体が硬直する。
『お前の行動でよく分かった。もうこんな無茶はさせない約束しよう。すまなかった……』
その声だけでも十分反省の色を窺い知ることができた。
生きた心地が今一つしないが、これでともかく事実上“リベラさんの顔に唾を吐く”という無謀な作戦に終止符が打たれた。
「大丈夫か?」
「むぐぅえへはふ」
「は?」
『口を開け』
「風に当たってきます……」
最大限のぎこちない笑顔でそう答えた。
図書館を出てすぐのこと。
回廊の支えとなっている柱の台座に静かに腰を下ろした。
「はぁ…………」
体の中身が全部出るくらい、大きな大きな溜息が出る。
いくばくかの冷静さを取り戻すと、口元と両手に粘性の違和感がやってきた。厳かにハンカチを取り出して口元を拭う。
「《――|necto《接続》〔清潔なハンカチ、清潔な鞄、清潔な手〕
きちんと想像したはずなのに、まだ若干の臭いがする。
『さっきはその……すまなかった。改めて謝罪する』
図書館に突撃した頃とは打って変わり、すっかり覇気が無くなっている。
「(いいんですよ。それに私も追い詰められて変になってたので)」
あの時は本当に殺されるか否かの選択だった。
しかし冷静さを取り戻した今あらためて思い返すと、あの場でパティナさんを差し出す方も、同等の破滅が待っていた。
だからこうしてどちらの結末にも
あと少しでも鞄の蓋を
『しかしどうする。他に策はないぞ』
他に方法があるはず、と無謀な作戦を試みる直前まで僅かばかりの希望を願っていた。しかし奇跡というものは早々に起きるはずも無く、待っていたのは泥のような現実だけだった。
そもそも就任式で取り逃がした時点で、私の運命は決していたのだ。
それを覆したのが皮肉にもパティナさんの力だった。不可能を捻じ曲げ、僅かばかりの成功を
“唾吐き作戦”はするしかない。
けれどこれまでの経緯を振り返ってみると、どうしてもこれ以上がんばれる気がしなかった。
やる・やらないの応酬に明確な答えは出でないまま。
結局は何もかも、初めに戻っただけだった。
再び図書館に入る。
リベラさんは相変わらず、カウンター席に座り本を読んでいた。
「すみません、結局ありませんでした……」
「それより体調は大丈夫か?」
「はい、平気です。その……さっきのクシャミは、ごめんなさい」
私の謝罪に対して、リベラさんは大きな溜息を吐いた。それからパタリと本を閉じたかと思うと、素早くこちらに近づいてくる。
「えっ? あっ、なんですか」
「静かにしてろ」
命令通り、全身を
凄く滑らかな布の感触。リベラさんが常に身に着けている黒々とした薄手の手袋が私の額に当たっている。なにで出来ているのかは分からないけれど、とにかく布と呼ぶべきか悩むくらい、しなやかな材質だった。
「ダメだ分かんねぇ」
そう愚痴を零したのも束の間、今度は顔を近づけてきた。急速に縮まる二人の距離感。気付けば視界の全てに彼女が映っていた。
女神さまと見紛うほどの美人。
暴力的なまでの美が迫り、鼓動は一気に早くなる。呼吸をしただけで相手に息が届いてしまいそう。興奮していると悟られたくなかった私は、なんとか必死に呼吸を止めていた。
時間がとても長く感じる。
空気を断っているいるため、だんだん苦しくなってきた。
体温なんてすぐに分かると思うのに、どうしてこんなに長い間、額をくっつけているんだろう。
いや、待って。
これって物凄い機会なのでは?
不意な急接近で止まっていた思考が少しずつ戻ってくる。
リベラさんの顔に唾を吐くという無理難題。
これまで自分から努力して何度も失敗を繰り返してきたが、ここに来て彼女の方から近づいてくれた。もしここで一言でも発することが出来れば、唾液とは言わずとも飛沫くらいなら簡単に飛ばせるでは。
疑念は瞬時に確信へと変わる。
やれ、やれ、やるんだ私。
内容は何だっていい。名前を呼ぶなり、叫ぶなり、とにかく言葉を口にして!
幸い相手は寝ているように両目を優しく
言葉、
言葉、
言葉、
吐け、
吐け、
吐け、
口をゆっくりと、だが確実に開かせる。
全ては彼女の顔に唾を吐くために。
これまでは身をよじるほど、やりたくもない事件に取り組まなければならなかった。噴水広場ではわざわざ唾を飛ばすために水を頭から被り、図書館に戻ったかと思えばパティナさんからの命令で無理やり吐き出さなければならなかったり。
常に最悪が“死”という誰も渡りたくない橋を、私は泣きながら渡って来た。
その苦悩が、努力が、後悔が、
今、報われる。
「………………………………ぅ」
「至って平熱だな」
言葉を出そうとした瞬間、バッチリ彼女と目が合った。深い深い青色をした綺麗な瞳。飲み込まれそうになる海の色。これまで炎のように燃え上がっていた感情が、ものの見事に鎮火した。
「なに口
へ?
すくっと体を起こしながら、彼女は毅然として言い放つ。
言葉の意味を理解するべく静かに口元を触ってみる。すると唇は
言葉を放とうとしていたら、いつの間にかリベラさんとキ、キ……。
緊張と緩和。切羽詰まった状況から一気に現実に引き戻され、感情は泡が立つほど
いくら
話題をはぐらかすため、暴走した感情を落ち着かせるため、とにかく必死で視線を動かす。すると空になった受付の奥に、物騒な器具が置かれているのを発見した。
「あ、あれ! あれって何の道具ですか!」
まるで事件現場から逃走する犯人を周囲に知らしめるかのように、一心不乱で指をさす。
「ん? ああ、だ。本を修理するためのな」
再び受付へと入っていく。
「幸い中まで染みてなかった」
大げさとも思える処置に対して、私は疑問が湧く。
「やっぱり魔法で直さないんですか?」
私の問いにリベラさんは少し考えた後、カウンター横の小さい棚から一冊の新書を手渡してくれた。タイトルは無い。ただ可愛い動物たちが描かれた表紙から察するに、子供用の本だと分かる。
「軽いだろ」
「ええ、まぁ」
「
驚き、もう一度本を見る。とはいえ変わった箇所は無い。けれど最初に持った時より幾分か重くなった気がした。
「ォレはソイツを直すのと同時に、生きてきた証まで奪っちまった。もう魔法でも元には戻らねぇ。最初で最後の大失敗だ」
リベラさんはこちらに顔を向けてくる。
「だからよぉ、ォレは魔法で直さねぇ」
彼女の眼差しは、剣のように鋭く、真っ直ぐなものだった。
魔法で溢れたこの街で真っ向から否定する姿勢に、私は強い衝撃を受けた。
そこでふと、私は今朝の事を思い出す。図書館に立ち寄った際に入口に掛けられていた薄汚れた幕のことだ。どうして魔法がありながら道具で直そうとしてるのか。頭の片隅に仕舞い込んでいたこの疑問に、ようやくの答えが出た。
「まぁコイツにとっては、とんだ厄日になっちまったがな」
加圧機に掛けられている本を軽く叩きながら、リベラさんは苦笑する。
「……もし私が濡らしていたらどうしました?」
「どうもしねぇよ。ただ噴水の色は変わってただろうな」
「ハハハ……」
手に持つ本を急いで返した。
「まぁなんだ。お前も何かしらの信念でもありゃあ、今より大人になれるんじゃねぇか?」
「年齢的にはもう大人で――」
――ぎゅぅるるるる。
盛大にお腹が鳴った。
「ああ、そういやもうそんな時間か。ククッ」
リベラさんは笑いを堪えるのに必死だった。
六時課の鐘が鳴ったのは、その直後のことだった。