「それでは今日は“傷”について勉強していきましょ~!」
学章の確認を済ませたピレア先生は軽快に自分の席に着く。
教師用の単座は学徒が用いる長机よりも幾分高く作られている。そのためどんなに後ろに居ようと先生の声はしっかりと届き、顔もはっきり確認できた。それが今回ひょんなことから最前列へと誘われて、いざピレア先生と対面してみたら……
……近い、
思った以上に近すぎる。
席との高低差もあり教師の存在感は自然と高まる。しかしピレア先生に限っては身につけた服装ゆえに要らぬ異様さまで
極めつけは顔にある二つの穴。光すら届かぬ
夢にまで見た最前列の風景は、思いのほか狭く苦しいものだった。
「傷は“外傷”と“内傷”との二種類に分かれます。まずは“外傷”についてですが……よいしょっと」
おもむろに片腕をまくりを始める。
黒より暗い布がだんだんと退いていき、少しずつ青白い腕が露わになっていく。粘土を思わせる先生の柔肌には、無数の傷が出来ていた。手術
過去の戦歴を自慢するかのように腕を
純粋な赤。
流れ出る命。
液状化した宝石。
様々な印象を残しながら、下へ下へと流れていく鮮血はいつしかポタリ、ポタリと肘を伝って机へと落ちる。
自分の血が広がるのを間近で見ていたピレア先生は、肘に指を宛がいながら上へ上へと傷口に這わせた。
「《――|necto《接続》〔皮膚再生〕
ピタリと傷口が埋まる。
あれだけ滴っていた血液も既に先生の手袋に拭き取られ、もはや苦痛の欠片もない。
しかし元ある傷跡は、今も痛々しく彼女の腕にあり続けた。
「世界魔法は想像を形にする魔法。対象を鮮明に思い浮かぶかど~かで結果が大きく変わってきます。ですから“外傷”だけなら、わざわざここに通わなくても綺麗に治せたりするんですよ?」
いそいそと
「けれど体の中は話が別です! 骨に筋肉、神経、内臓……。それぞれの形や役割を意識して学ばなければ治せません」
視界の端に何かが映る。すかさず目で追ってみるとディーアは開いた本を私にそっと見せてきた。
体を寄せて覗いてみる。
ところ狭しと描かれた臓物の数々。単に外見だけを晒している訳ではなく、内面も理解しやすいようにと大胆に切り開かれていた。
そのどれもが写実的で、内臓を覆う粘膜の
ディーアはペン尻でもって、挿絵の一つを二回叩く。すると胃袋と思われる臓器はゆっくりと本来の動きを取り戻した。まるで芋虫が這うかのように収縮と膨張を繰り返す。
ご丁寧にも着色まで似せているので、絵という閉鎖的な空間からも飛び出す迫力があった。
「それに“内傷”の場合も目で見なければ正確に治せませんからね~。ま~自力で治せもしますが、おススメはしないですね~(凄く痛いですし)」
はたしてこの教室の中に自分のお腹を裂こうと思う学徒がいるのだろうか。
乾いた笑いがちらほらと湧く一方で、ピレア先生は自らが腰掛ける単座の
貼り札を確認しようにもすっかり色褪せており、最前列に座っていても詳細までは分からなかった。
「コルダさん……そんなに中身が気になります~?」
「へぁ?」
唐突な名指しに調子はずれな声が出る。
「コルダさん危ない、よ?」
「え?」
二度の忠告でようやく我に返る。
いつの間にか大きく身を乗り出していた。気付いた時期が悪すぎたのか、体の重心が乱れに乱れ前方の床が視界に入る。
「おわわっ!」
溺れたように動かした手が運よく机の角を握り、なんとか事なきを得た。
「ふぅ……」
ドカリと鞄に尻を落とす。
『いっツ!』
下から届いた短い悲鳴。先程まで自分のことで手一杯ですっかり忘れていた。謝罪の意味を過分に含ませ机に突っ伏す。
「(ご、ごめんなさい!)」
『……もう限界だ。散々我輩に乗りおって』
唸るような拒絶。
思えば座るごとに私の全体重でもって圧し潰し、終いにはお尻を槌の如く打ち付けたのだから当人が怒らないはずもない。
勢いよく鞄を滑らせ通路に浮かせる。ここにきて長椅子の端に座っていたことを心から感謝した。
浮遊する鞄を抱き寄せ口を近づける。
「(もっもう
『いいや許さん』
「(そこをなんとかぁ……)」
『あぁ分かった。そこまで授業が大切ならば今度は立って受けるがいい』
「あ……」
一切の拒否権が認められない絶対命令。抵抗する間もなく私の体は椅子の上に直立していた。
しかも土足のままで。
必死に降りようと試みるも、足が固まって動けない。
「あの~、コルダさん?」
「いや違っ、あのどうしても見えなかったので立ってみよう……かなって」
言い訳という時間稼ぎをする一方で必死に
「それは良いんですけど~。立ったままだと後ろの人も見えなくなっちゃいますよ?」
言われてみれば確かにそうだ。現状私の身長がいくら低いとはいえ、椅子の上に立ってしまえば私の方が高くなる。
「(見えねぇよ)」
「(座れよガキ)」
耳を澄まさなくとも小言がちらほらと目立つようになってきた。こうなったのも自分に原因があるのだが、実際に言葉で突かれると辛くなる。
好きで立ってる訳じゃないのに。
不意に現れる叔父さんの面影。もし彼がまだこの街に残っていて、私のそばにいてくれたら、どんなに良かったことか。いくら私を成長させるためとはいえ、ここまでの仕打ちは流石に堪える。
私はただ平穏に、勉強がしたかっただけなのに。
巻き込まれる事件、解決しなければならない難題、その全てが理不尽だった。
どうして、
どうして、私だけ。
私はただ、ただ平穏に、勉強がしたかっただけなのに。
「コルダさ、ん大丈、夫?」
この中で唯一優しい言葉を投げかけてくれる人物がいた。多少の自由が利く首を動かし隣を向く。
普段味わうことのない俯瞰視点。
若干涙で歪んだ視界には確かにディーアが映っていた。相変わらず黒装束を着込んでいるため表情までは分からない。けれど私を心配してくれている気持ちに一切の嘘偽りは無かった。
この人には真実を打ち明けよう。
「ごめんなさい、私……れなくなって」
「え?」
「(降り……れなくなって)」
火を吹くような思いだった。いくら今の見た目が子供だからとはいえ、言動までも子供として生きてきた訳ではない。けれど高いところから降りれなくなった状況を鑑みれば誰だろうと、ましてやこの私でさえ一人の子供として変わりなかった。
「わ、分かりま、した!」
ディーアは笑い出すことも無く、
「ありがとう……ございます」
「いぇ、いえ。そん、な」
感謝しきれないほどの手助けをしてもらったはずなのに、肝心の本人はといえば決して
これまでの事を振り返えると私が教室に入ってきた時からずっと彼女の温情を受けていた。それなのに私はといえば、気付かぬどころか逆に優しさを利用して窃盗の
こうして冷静さを取り戻すことで、自分の矮小さは単に体だけではないのだと改めて実感した。
「……座り、ませんか?」
「ありがとうございます。でも、もう少しだけ、立たせて貰っても良いですか」
たとえ足が自由に動かせたとしても、彼女と肩を並ばせようとは到底思えなかった。