獅子が入ってきた。
息も絶え絶え。綺麗に整っていた青藍の髪もまるで
「ど、どどうしたのリベラ君」
先生はこれまで見たことが無いくらいに激しく動揺している。
それもそうだ。
あの鬼気迫る姿を目の当たりにすれば、きっと死霊でさえも逃げ出してしまうだろう。
周囲に畏怖を撒き散らす恐ろしい獣は言葉まで忘れてしまったのか、先生の心配もよそに一直線で私の方へ詰め寄ってきた。
「あっ、あの」
「どこへ、やった?」
「へえっ? はぁっ、の――」
――体が宙に浮く。
「絶禁本をどこへやった!!」
凄まじい怒号。鼓膜はジンジンと痛み出し、目からは自然と涙が流れる。
「リベラ君、もう暴力は……」
「うるせぇ黙ってろ! おい、本はどこにある!」
「……助、けて」
涙で湿気る声で以て出てきた言葉は、命乞いに限りなく似た懇願だった。向ける視線は自分の鞄。この危機的状況を打破できるのはパティナさんの他に居なかった。
「? ……そこか」
「うべっ」
締め上げていた両腕が突如として無くなり、力なく床へと落下する。乱れた呼吸を戻すのに難儀していたところ、リベラさんは容赦なく鞄に近づいた。
ダメ、
ダメ、
ダメ、
ダメ!
あそこにはパティナさんがいる。それも荷物の一番上。つまり鞄を開けた途端に真っ先に目に入ってしまう。
「ダ……め……」
呼吸は更に乱れてしまいうまく言葉が発せられない。鳥の
抵抗も虚しく、蓋を開けられてしまう。
ああ、終わった。何もかも。
絶望に打ちひしがれながら、鞄の中を弄るリベラさんを、ただ茫然と眺めることしか出来なかった。
「どこにも無ぇぞ」
想像もしていなかった言葉に動揺する。
そんなはずはない。
そんなはずは……
……無い。
無い。とにかく無い。
本、筆記用具、着替え、お菓子、娯楽道具、枕、非常食、非常食、非常食……。どこをどう掘り起こしても、パティナさんが出てくることは無かった。
いやしかし、そもそもパティナさんはこれらの私物の頂点に置いていたはずだ。それがどうしてここに来た途端に居なくなってしまったのだろう。
「何か知ってて盗んだのか?」
「私……は、ただ、先生に会わせに……」
搔き乱された私物等を呆然と眺めていたところ、急に両肩を掴まれる。瞬く間に体の向きが変わったかと思えば、目の前には又してもリベラさんの顔があった。
片膝を突き、目線を合わせる彼女の面影は
「罪の意識が無ぇんなら、この際だから教えてやる。あれはパティナ。亡国のパティナだ。かつては大国の妃だったが一晩のうちに国を崩壊させた
いきなり告げられたパティナさんの出自。そのあまりの規模に、なかなか理解が追い付かない。
「もし封印でも解いてみろ、この街が無くなるどころじゃ済まされねぇ。分かってんのか?」
切迫した表情に説得力が強まる。確かに私はパティナさんの能力を実際に目の当たりにしているし、リベラさんをその術に陥れる手助けもした。
彼女の能力は本物だ。
その気になれば、いやなったからこそ、一国を亡ぼしたのかもしれない。
けれど疑問に思うのだ。
本当に彼女はそんな殺戮を起こしたのか? と。
「……分かりません」
「あ?」
確かに無理難題を押し付け、脅してまでも実行させる意地の悪さは歴史上の暴君に等しい。けれど返却する時にみせた涙は紛れもない真実だった。
私の未来と自身の願望。
切羽詰まったあの状況で、パティナさんは私を選んでくれたのだ。自分よりも他者を優先する彼女が果たして、そのような無慈悲な行動を取るとは到底思えなかった。
「分かりません。どうして街が無くなるんですか。貴方にパティナさんの何が分かるって言うんですか! 私はただ、ただ! 先生に会わせてあげたかっただけなんです!」
気持ちにいつの間にか熱を帯び始め、やがては語気が荒くなる。自分でも知らないうちにそこまで
「呑気なこと抜かしやがって……。あぁ分かった。テメェの薄っぺらい覚悟を正してやる」
大きく腕を広げるリベラさん。
叩かれる!
生命の危機を感じ、瞬時に目を閉じた。
……
…………
………………痛くない?
どういうことか、覚悟していた重い一撃が未だにやってこないのだ。疑問の芽は時間と共にどんどん成長していく。とはいえ確認しようにも恐ろしく、瞼は閉じたままだった。
何も見えない暗闇の中、ふと奇妙な音がした。
ギチリギチリと鳴るそれは、何かをきつく締め上げるような嫌な音。だんだんと強まる不快な音色に遂には耐え兼ね、恐る恐る瞼を開けた。
リベラさんが固まっている。
私を叩こうと広げた手はその半ばで止まっており、特に手袋が嵌められた中指と薬指の二本はまるで弓を引いたかのように反っている。それでも何とか動かそうとしているのか、彼女の腕は微細に激しく振動し、筋肉は悲鳴を上げていた。
やがて指からはパキリ、と嫌な音が鳴る。
瞬間、顔を
「(……愛してもやれねぇのか)」
自身の手を労わるように目線を落とした後に、そう呟いていた。
それから意を決したかのように立ち上がったかと思うと、スタスタと出入口に向かって歩き出す。
「せめてお茶でも……」
先生がなけなしの仲裁に入る。しかしリベラさんは濛々《もうもう》と湯気が立つお茶を一気に飲み干してしまった。
「美味かった」
手の甲で口元を拭うと、すかさず私に視線をやる。
「行くぞコルダ。パティナを探す」