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XXII. 返却期限

「なに……これ……」


 図書館前の大通りには、またしても人の大河が流れていた。水面に映る大勢の顔はどれも若く、楽しげな表情を浮かべていた。


 時刻はそろそろ日没になる。


 鐘の音は聞こえずとも、授業が終わったのだと間接的に理解した。


 繰り返される洪水に、私の脳裏には過去の光景が蘇る。昼前の頃、太鼓や笛に誘われた行列が現れた時の事だ。私はあの時も躊躇していたが、パティナさんの命令によって飛び込まざるを得なくなった。


 しかし今度は彼女の命令は無い。自分の意志で飛び込むしかない。


 リベラさんがいつ正気を取り戻すのか分からない。


 迷っている時間はもうなかった。


「ぃや!」


 意を決して身を投じる。これから生じるであろう様々な圧から身を守るべく、体に強く力を込めて……


 ……あれ?


 思っていたものより辛くない。


 流れに身を任せ、多少の余裕が出てきたところで辺りを確認する。どの方向も人の壁が迫り窮屈ではあったが見上げた天井は広かった。


 圧死させられる危機が去った上に、幸運なのは流れも先生の部屋の方向にあるということ。だからこうしてこうして身を任せているだけで――


「――きゃぷぃ!」


 何かとぶつかった。


「っってぇなぁ! 気を付けろ!」


「はい!ごめんなさいぃ」


 人相の悪い人物に絡まれはしたものの、この急流には逆らえなかったのかすぐさま互いが見えなくなった。


 鞄はある。早くついてと心の中で祈ることしか出来なかった。





「先生!」


「うわっ! びっくりした。なんだコルダ君か。大丈夫? 外、凄い人だったでしょ」


 先生は今朝と同じように、窓辺の机に乗っていた。


「そんなことより! あの、あっ……」


 言葉が詰まる。


「? まぁいいや、今お茶を入れてくるね」


「あ……」


 優しく微笑むと、部屋の裏へと跳ねていってしまった。


 本人の姿が隠れた途端に、喉の緊張が緩む。


 どうしよう、

 どうしよう、

 どうしよう、


 こんな状態のままじゃ先生に言い出せない。


 言いたいのに、

 言わないといけないのに、


 肝心な時に限って声が出ない。


 何をそこまで恐れているの?


 盗難のこと?

 除籍のこと?


 確かにリベラさんから告げられた罪状は学徒としての死刑を突き付けられたのと同等だった。あのままパティナさんを戻しておけば、少なくとも容疑だけで終わっていただろう。しかしあんな粗末なところで、来るかどうかも分からない人を、永久に待たせる人がいようか。


 涙を必死に堪える姿を見て、私は耐えられなくなり、とうとう彼女を連れだしてしまった。


 それなりの覚悟と理由を固めた上での行動だったのに、いざ本人を目の前にした瞬間、これまでの自信は砂山のように虚しく崩れた。


 部屋の真ん中でただ一人、呆然と立っている。


 目指すべき目的は既に目の前。


 あと一歩、

 ほんのあと一歩、


 先生へと近づける、ほんの些細な勇気が、欲しい。


「そういえば今日、就任式だったんだよね。ボクとしたことがすっかり忘れちゃって大変だったよー」


 部屋の最奥からは楽し気な声が届く。


 おどけたよう会話はこれまでの探索における回答のようだった。


「そう、だったんですね……」


「うん。抱えて貰わなかったら、今頃ぺちゃんこになってたかもねー。ぷぷぷっ」


「ハハハ……」


「で、コルダ君も行ってみた?」


 部屋の角からひょっこり顔を出す。


 朗らかな表情を見ていると、心にできた無数の傷も少しずつ埋まっていくのが分かる。それに一連の会話を通して、凝り固まった緊張も多少はほぐれたと思う。今なら打ち明けられるかもしれない。


 落ち着いて、ゆっくり呼吸を整えて。


「あの……先、生? 実は……ぁっ、あ、あっ」


 ああ、まだダメだ。


 喉が潰れてしまい声が出ない。


 このまま何も言い出せずに終わってしまうのだろうか。希望を抱いていたはずがすっかり絶望に侵食される。涙を堪えて鼻を啜ったある時、僅かな異変に気付いた。


 良い匂い。


 それが奥から漂ってくる。鼻を鳴らして確かめると、それはお茶の香りだった。


 先生の部屋に来た時は毎回必ず出してくれてる馴染み深い飲み物。窓辺にあるいつもの席で、カップを傾けながら他愛のない話をするのが好きだった。


 そう、今までも。


 これからも。


「あの……」


 ふいに言葉が漏れた。


 お茶の香りに誘われて、喉に込められていた力はいつの間にか抜けていた。


 普段の自分が戻ってくる。


 言え、言え、言うんだ私。


 会わせてあげたい人がいるんです、って

 どうしても、会わせてあげたい人がいるんですって!


「先生!」


 背中には大量の汗が流れる。両足は力が入らず震えだし、両手の感覚は既に無い。今にも倒れてしまいそうなほど、自分の体は異常をきたす。


 それでも何とか声は出せる。


「! ど、どうしちゃったの」


「先生、あの!……」


 どうしてここまで来たの?

 今までの苦労は何だったの?


 やりたくもないのにやらされて、

 逃げ出そうにも逃げ出せず、

 泣きたくても泣けなかった。


 それが、今、終わる。


 いや、


 終わらせるんだ。


 全て、全て、全て全て全て、この一言で。


 言え、言え、言うんだ、私!


「! ……どうしても、会わせたい人が――」


 ドンと扉が開かれる。


「――ぉや゛ッ、がっク長! 絶禁本が! 絶禁本が……盗まれました」

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