夢を見ていた気がする。
月明りの女神様に介抱される、そんな夢。
もう一度みてみたかったが、眠りはとうに浅く、そろそろ起きなければならなかった。
重々しく
「やっと起きたか」
夢の中にいたはずの美女が心配そうに私を覗き込んでいる。
「えっ? あ? あ!」
ゴチン。
慌てて飛び起きようとした矢先、額と額とを強打した。
「つぅぅう…………あれ?」
鈍痛に耐えかね、額に手をかざす。するとこめかみ近くにあった深い傷が綺麗に無くなっていることに気が付いた。それに自分が立っている場所も冷たく暗い倉庫ではない。温かく明るい先生の部屋へと移り変わっている。
「ぃ、痛いではないか」
来客用の長椅子に腰かけていた人物が
茶色い布で作られた粗雑な服を身に付けており、しばらく袖も通していなかったのか、色落ちが激しく
「ご、ごめんな…………パティナさん?」
「ああ、そうだとも。どうだ? 人の姿をした我輩は」
まるでおとぎ話の世界から抜け出してきたかのような美しさがそこにあった。
細く、なだらかな眉に、宝石のような白金の瞳。筋の通った鼻に赤赤しい唇。もはや化粧をしなくても、いや、いくら化粧をしようとも、彼女の美しさには近づけない。
完成された美がそこにあった。
「人じゃないみたいです」
「それは誉め言葉なのか?」
はにかみながら白金の髪を掻き上げるパティナさん。すると顔の半分から首筋にかけて大きな皺が現れる。恐らく長年本の状態だったときの癖がついてしまったのだろう。
「あの、その皺……治しましょうか? 魔法で」
するとパティナさんは自分のシワを指でなぞる。
「いや、これでいい」
パティナさんは何故か嬉しそうだった。
「ふふっ、その様子なら大丈夫そうだね」
部屋の奥から先生が跳ねてやってくる。そのすぐ後ろには、三つのカップが付いてきていた。
視界に映る二人の人物。
もしかしたら永遠に来なかったであろう光景に、思わず心が大いに震える。
「やっと、会えたんですね」
「ああ。ああ、全てお前のお蔭だ。コルダ」
パティナさんは笑顔のまま涙ぐむ。安堵に満ち足りた表情を目にし、ようやくこれで終わったのだと、確信できた。
鎧のような責務を脱げ去り、解放感を味わう。
より自由に浸ろうとしたところ、ふと思い出したのはリベラさんの事だった。
「先生その、リベラさんは?」
倉庫での乱闘で彼女は暴行を受けてしまった。それも一対多数の絶望的な展開だ。唯一この状況を覆せるであろう軽警棒は、不運にも私の手元にあった。
とにかく軽警棒を返そうとしたが、どうしても足が
本来ならば付かないはずの大怪我を負わせてしまったのだ。
「安心してコルダ君。元々あの子は丈夫だから」
「それでもやっぱり不安です」
「……実を言うと、君の方が重症だったんだ。リベラ君はむしろずっと気に掛けていたんだよ?」
「そう、だったんですね」
「うん。まぁ、とりあえずお茶でも飲んでよ」
カップが手渡される。
飲み慣れたいつものお茶。この匂いを嗅ぐだけで心が少し軽くなる。
「でも凄いお手柄だったね、窃盗団をみんなまとめて捕まえちゃったんだから」
「あ、ありがとうございます。でも除籍は免れないんですよね……」
「コルダよ、安心しろ。既に手は打ってある」
「えっ?」
「うん。むしろ表彰するくらい。それでパティナ君の事なんだけど……」
先生の視線が横にずれる。その先にはパティナさんがおり、彼女も先生の方を向き、頻りに頷くそぶりを見せていた。
「どう?」
「どう、って何ですか」
「いやほら『一人暮らしで何かと不安だ』って言ってたよね、例の方向音痴しかり。だから……ね? とても頼もしいとは思わない?」
先生からパティナさんへ視線を泳がす。確かにパティナさんはスラっと身長が高く、私よりもずっと大人びている。隣に居てくれれば今日のように不良学徒に絡まれるといった問題事に巻き込まれずに済むかもしれない。
けど……。
今日を激動の一日に変えた張本人がパティナさんであり、退学の危機に
つまるところ、野犬を追い払うために、狼を連れてくるようなもの。
安定した学徒生活を送れる保証がどこにもなかった。
「……ごめんなさい!」
自然と視線が床に落ちる。パティナさんには申し訳ないが、私にも私なりの生活があるのだ。
それにパティナさんの願望はこうして叶ったのだから、もう私が関わるべきことは無いはず。
「うーんとね、言い方を換えるとコルダ君には監視役になってもらいたいんだ。パティナ君は史実だとその……危険人物として扱われてきたでしょ?」
「確かにそれは……」
「ここだけの話、ボクも脅されちゃってるんだ」
「それならなおさ――」
「――コルダでなければ暴れてやるぞ?」
にんまりと笑うパティナさん。一切の含みもない清々しい笑顔に、私は心底恐怖する。ここに来て彼女の“打った手”が何なのか分かった。
拒否権は初めからなかったんだ。
「じゃあ決まりだね」
嬉々として喋る先生に、私は少しだけ恨みの感情が芽生えた。
「よろしく頼むぞ、コルダ」
「はぁ……」
殆ど溜息の返事が出てくる。
叔父さん。
私はこれから、どうなっちゃうんだろう。
逃避行を求めて視線は泳ぎ、いつしか窓の外へと行き着く。普段とは違って見上げた角度で眺めてみると、乱立する塔の輪郭が辛うじて見て取れる。古今に渡り積み上げられた叡智と呼ぶべき石積みは、それぞれ教室のある場所を示していた。
ここはルパラクル。
魔法を学ぶための場所。
大学街はまた濃い夜の中に沈もうとしていた。