「…若越、今の成績を踏まえると…
中学3年の秋、担任教師との面談でそう告げられた。
陸上部のある高校には行きたくない。
もう陸上はやらない。
その思いは、悔しくも陸上によって阻まれてしまったのだ。
「…羽瀬高って、陸上部ありますよね?」
若越は中学で陸上部に所属し、棒高跳びを行っていた。
その実力は、全国中学総体の大舞台で優勝という記録を残している程だ。
中学生の3年間を陸上に注いだ結果、全中優勝という栄光を手に入れたと同時に
その先の選択肢が狭まっていた事に、今の今まで気がついていなかった。
「…そうだな…確かにある。しかし、全国レベルの選手は聞いたことない…いや…。」
担任教師は、ふと言葉を詰まらせた。
「
(…伍代 拝璃…全国ランカーの選手じゃないか…。)
若越は、その選手の事を知っていた。
そんな強豪選手がいるなら尚更、若越の羽瀬高に対する嫌悪感は増す一方である。
「…まあ、だからと言ってお前が今後も棒高や陸上を続ける必要もないと思ってる。お前が今陸上に対して、棒高跳びに対してどう思っているか、理解しきれている自信はないが…。
だけどな、お前のお父さんはお前に"無理に陸上や棒高を続けて欲しい"とは、決して思っていなかったはずだ。」
担任教師は、目に見えない大きな何かを背負った若越に、これ以上の負担にならないようにと優しくそう伝えた。
「それに、羽瀬高は進学実績も豊富にある。お前が今後どういった進路を選ぶにしろ、悪くない場所だと思う。」
窓から差し込む夕日が、俯く若越をそっと包み込んだ…。
それから数ヶ月後、若越は無事に高校受験を終えて中学校を卒業した。
そして_
桜舞うよく晴れた日に、若越は入学式を迎えた。
「…皆さんは、今日から都立羽瀬高等学校の一員として…」
校長先生の話を他所に、若越はある考え事をしていた…。
_
そこは病院の手術室。
手術中の赤いランプが消えて、扉が開いた。
「…浮地郎さんが…亡くなりました…。」
担当医は、俯きながらそう言った。
中学3年の夏休みが終わる頃、跳哉の父で棒高跳び選手の
(…父さんが…死んだ…!?)
母親である
最愛の相手であり夫である人を亡くした母親の気持ちを、跳哉は全て理解することが出来なかった。
その場に立ち尽くし、亡き父の変わり果てた姿をじっと見つめるだけしか、今の跳哉が出来ることは無かった。
棒高跳び日本記録保持者として国内外にその名を轟かせていた浮地郎は、跳哉が中学3年生の時に挑んだ日本選手権の試技中に、生憎使用していたポール(※1)が折れて落下。
落ちた際の打ちどころが悪く、そのまま帰らぬ人となった。
「跳哉、よくやった。」
全中の後に浮地郎からもらった言葉を、跳哉は噛みしめるように脳内で繰り返した。
父親に褒められたのは、それが初めてではない。
それでも、跳哉にとってその時の言葉程嬉しかった言葉はなかった。
(…父さんに、2度と褒めてもらえないのに
棒高跳びを続ける理由が…俺にはもうない。)
_
入学式が終わり、ホームルームでのオリエンテーションが済むと、若越はそそくさと帰路についた。
校舎から校外に出る校門に向かう道中には、グラウンドがある。
ふと、グラウンドを見るとそこにはサッカー部と陸上部の姿があった。
(…俺は…もう…。)
突然、若越の背後から声がした。
「…若越…跳哉…だな?」
若越が驚いて声のする方へ振り向くと、そこに立っていたのは…
「…伍代…拝…璃…さん…。」
彼こそが、若越が中学の頃の進路相談の際、
担任教師との話題に出ていた、
「なんだ、やっぱりか。
うちに入ったって噂は聞いてたけど、まさか本当に会えるとは思ってなかったぜ。」
伍代は、少年漫画の主人公ばりの眩しい程の笑顔でそう言った。
その姿は練習中だったのか、黒いトレーニングウェアの上下に白い粉がいたるところに付いて汚れていた。
両手には、タンマグ(※2)が目一杯付いており、恐らくその粉が服についたのだろう。
伍代は、その白い手で乱れた髪をかき上げた。
「入るの?陸上部。」
伍代の問いかけに、若越は呆れた表情を見せた。
その質問が来ることは、若越にとって想定内であった。
しかしその質問こそ、若越が最も敬遠していた質問であった。
「…俺にはもう…陸上も棒高も、やる理由はありません。」
若越の答えに、伍代は不思議そうな顔をした。
「…全中優勝、しかも4m97cmの日本中学記録更新。これだけの実力あって、"やらない"って理由が俺には思いつかないけどな。」
伍代の言う通り、若越の実力は申し分ない。
競技をしている者なら誰もが、羨む程の実力を若越は持っている。
「…俺は、もう棒高跳びはやりません。失礼します。」
若越は、伍代に対して冷たくそう言うとすぐに帰路に戻って行ってしまった。
「…その意地っ張りさは、
伍代は、去り行く若越の後ろ姿を見ながらそう呟いた。
次の日の昼休み。
若越は購買へ昼ごはんを買いに教室を出ようとすると、その若越の姿を待ち構えたように扉の外に伍代が仁王立ちしていた。
「よう!若越。」
若越は、伍代の顔を見るなり呆れた表情を見せた。
「こんにちは、伍代さん。俺に何の用ですか?」
若越はそう言ったものの、伍代がどうして自分の元にやって来るのかを理解していた。
「用も何も、陸上部の勧誘に来た。」
若越のクラスメイトがざわつき始めた。
それもそのはず。伍代のビジュアルは校内に留まらず、他校陸上部からも一目置かれている程のイケメンであった。
それに、入学間もない新入生の元に先輩がやって来る。只事ではないという空気が流れた。
「…はぁ…。昨日も言いましたよね?
俺はもう陸上やらないですし、棒高もやりません。」
若越は、相手が先輩にも関わらず固い意思表示を見せた。
そして、伍代を避けるように教室を出た。
その姿を、クラスメイト全員が注目している。
「そうやって何度も俺を誘っても、結果は変わりませんからね。」
若越は伍代にそう言い捨てると、そそくさと購買へと歩いて行った。
それから1週間、伍代は事あるごとにに若越の元を訪れ勧誘をした。
しかし、当然ながら若越の答えは変わらない。
その日の伍代は、朝のホームルーム前に若越の教室を訪れた。
「若越!頼む!この通り…」
伍代はそう言うと、若越に両手を合わせて頭を下げた。
バンッッッ!!!!
若越は、両掌で思い切り机を叩いて立ち上がった。
とうとう若越が痺れを切らしたのだ。
「伍代さん、いい加減諦めてもらってもいいっすか?」
若越は喧嘩腰に伍代にそう言い放って、伍代を睨みつけた。
若越のクラスメイトたちは一瞬にして静まり返り、驚いたように2人のやりとりに注目した。
「…じゃあ、こういうのはどうだ?」
伍代は顔を上げると、秘策があるのか自信満々に若越に詰め寄った。
彼は怒りなど一切見せず、寧ろこの状況を楽しんでいるように見えていた。
「若越 跳哉、俺と勝負しろ。お前が勝ったらもう誘うのを止めるよ。但し…」
伍代はそこまで言うと、いったん息を吸って続けた。
そして思いっきり自身の胸元に拳を当てて、大声で叫んだ。
「俺が勝ったら、全国インターハイ決勝で羽瀬高背負って勝負する事を約束しろっ!」
若越のクラスメイトたちがザワザワし始めた。
その様子に、若越は流石に困惑して俯いた。
しかし、すぐに顔を上げて伍代に答えた。
「良いっすよ。勝負は来週の放課後。
高さ4m90cm、先にどちらかが跳べるまで続ける。先に跳んだ方が勝ち。
もし、どちらも跳んだ場合は5cmずつアップさせる。どうですか?」
若越も、伍代の気迫に負けない勢いでそう言った。
伍代は若越の答えに少し驚いた表情を見せたが、すぐに答えた。
「良いだろう。その代わり、来週はお前の好きなようにうちのピットを使って良い。
お前も、ブランク埋めないといけないだろ。」
伍代はそう言った。
しかし、若越は余裕の表情で答える。
「いや、別にお構いなく。俺は俺で準備するので。
それじゃあ、来週の放課後。負けても泣きの試技は無しっすからね。」
こうして、突如として若越vs伍代の跳躍勝負が決まってしまった。
この話は陸上部内に留まらず、羽瀬高の殆どの生徒が知る事となった。
若越vs伍代の跳躍勝負当日。
棒高跳びピットの周りには、見物の生徒が学年問わず数多く集まった。
それもそのはず。
現役羽瀬高陸上部の跳躍エースと日本中学記録を更新した前年全中チャンピオンの非公式勝負は、
この一度きりになるかも知れない…。
夕暮れにはまだ早いが、少し日が落ちた頃。
グラウンドには、軽い乾いた風が吹いた…。