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第3話:Determination

若越の4m90cm、3回目。



(…くそっ…ここまでもつれ込むとは…)



再び、バーが上がった。

若越のチャンスは、この1本に賭けられている。(※1)




若越は、祈るように空を見上げた。




_


若越 浮地郎の葬儀。


母、歩実華は泣いていなかった。

葬儀が終わり、家に帰る車の中で歩実華は息子の跳哉に言った。


「…跳哉。ごめんね。」


跳哉は驚いた。

母が自分に謝る理由が分からなかった。


「どうして?母さんが俺に悪い事した?」


跳哉は不思議そうに歩実華の顔を見た。

それは至って普通な会話の様子であった。

跳哉は、目覚めることのない父親の姿、そして多くの悲しい表情をする人々に見守られながら、

その肉体を失って魂を昇華されていく様子を只々呆然と見ているだけであった。

それ故に、跳哉は余計な感情を捨て普通であることが、自分の感情を保つための最善策だということに落ち着いていた。


「…父さんね、日本選手権を最後に引退するって言ってたの。

跳哉が高校生になるから。跳哉の高校生活の大事な3年間を、俺が最大限サポートするんだって。」


歩実華から伝えられた想定外の亡き父親の言葉に、跳哉は思わず目に涙を浮かべた。

平静を保とうとしていた感情は、最早決壊し混乱した。


「私も、あなたを産む前は陸上やってたから、何も分からないわけじゃないけど…それでも、あの人がいれば跳哉を、棒高跳びでもっと活躍させてあげられるのに…。」


歩実華はそこまで言うと、涙声になり言葉を詰まらせた。

ハンドルを握る両手は、かすかに震えている。

自分の無力さを感じて嘆く母親を、15歳の息子は優しく慰めた。


「…いいんだ、母さん。

俺はもう、陸上は辞めるよ…。」



_



(…俺の陸上人生は、これで終わりだ。)



若越は前を向き、大きく息を吐いてポールを持ち上げた。

決意に満ちた顔は、浮つく周囲の空気を一瞬で静寂にした。


「…行きます。」


そう呟いたのと同時に、助走の為の1歩を踏み出した。

先の2本とは違う。

全中決勝で中学記録更新をした時よりも力強い、高校生の若越そのものだった。


スピードに乗った助走に合わせて、ポールの先を降ろしていく。

助走が加速して最高地点に到達した時、若越の左足が力強く地面を蹴る。



バァァン!!!



ポールがボックスに突き刺さる音と、若越が踏み切る音が重なった。


大きく曲がったポールの流れに、若越の動きは完璧なまでに同調していた。

若越が足を高く頂点に向けると、バーの上その差15cm程上を下半身が越えていた。


若越の右手とポールが離れた時、若越の体は完全にバーの高さを越えていた。



ギャラリーの歓声が沸く。

若越の体は、背中からマットに落下していた。



(…この調子で、あと1発クリアして終わり…。)




カンッ!



何かが当たる音がした。

若越がマットに着地し、目を開けると、

4m90cm上空にあったバーが目の前に迫っていた。


若越は咄嗟に、右手でバーを受け止めた。


「…えっ…。」


若越が越えたはずのバーは、手の中にあった。

周囲のギャラリーたちも何が起きたのか分からず、キョトンとしていた。



「…ポールが支柱に当たった。それ以外は完璧な跳躍だったよ。若越。」


伍代がそう言いながら、マットに近づいて来た。

見ると、ポールは支柱の横に落ちていた。

ポールを空中で手放した後、そのポールは惜しくも支柱に向かって倒れ込んでしまい、ポールのぶつかった衝撃で、バーは落ちてしまったのだ。


「…バーが落ちてる…。完璧な跳躍とは言えません。」


若越はそう呟いた。

怒り、悔しさ、悲しみ…様々な感情が入り乱れる中、無表情でそのバーを見つめている。


「2日間、時間をやるよ。最終的な判断は、自分で決めろ。」


伍代はそう言うと、若越からバーを受け取り片付けた。

勝利し望みを叶えたにも関わらず、伍代は淡々としている。


「俺はもう少し跳躍練習をする。」


そう言って、伍代は再びゴムバーを掛けて練習に戻った。

伍代は、若越に勝った事への喜びなどは一切見せなかった。

それは負けた後輩への気遣いなどではなく、伍代の中でこの勝負での勝敗は、それ程大事ではないようにも見えた。








若越が自宅に帰宅したのは、19時を回った頃であった。



「跳哉おかえり~。遅かったね。」


跳哉が玄関のドアを開けると、ただいまと言うより先に、母親の歩実華が台所からそう言った。

跳哉は、荷物を玄関に置いてそのまま台所に向かった。


「…母さん。ちょっと話がある。」


跳哉がそう言うと、歩実華は作業の手を止めて居間の椅子に座った。

跳哉も向かいに座って、落ち着いて自身に起こった今日の出来事を話した。


「…そっか。」


歩実華は、一言だけそう言うとお茶をすすった。


「跳哉は、どうしたいの?」


歩実華の想定外の言葉に、跳哉は言葉が出てこなかった。

あの日、母親に陸上はもう辞めると言った自分が再び陸上をやった事、若越家に悲しい運命を背負わせた棒高跳びの事を口にしても、母親は感情を左右される事なくそう言ってきたのだ。

少し考えた後、跳哉はゆっくり話し始めた。


「…負けたままじゃ、終われない…。」


跳哉がそう言うと、歩実華は何かを思い出したように徐ろに立ち上がった。

リビングの方でガサゴソと物音をさせた後、再び居間の椅子に座った。

父、浮地郎の遺影を両手に抱えて。


「15年、一緒にいたからね。父さん…浮地郎くんなら

『跳哉がやりたい道を、俺たちはサポートする。』って言うと思うんだ。」


歩実華の言葉に、跳哉は驚いた。

まるで父親の死に囚われて、前に進めなかった跳哉の背中を、に押されたようであった。

暫く、2人は何も言わずにいた。



(…負けたままで終わりたくない…。けど、競技を続けていく内に、万が一俺が父さんの様になったら…。)



「…俺が父さんみたいになったらどうしよう。とか考えてるんでしょ。」


歩実華がそう言った。

跳哉は、またも驚いたように歩実華の姿を見た。

母親という存在は、命を懸けて産み育てた子どもの事を全て知っているか、と。


「ほんっと、あんたたちそっくりね。跳哉の考えてること、浮地郎くんと似てるんだもの。親子だから当然よね。」


歩実華の目には、少し涙が浮かんでいた。

母親は、自分と亡き父の姿を重ね合わせていた。


「…ちなみにさ、父さんの現役時代の目標って覚えてる?」


跳哉は、少し重くなってしまった空気を変えようと話題を変えた。


「…うーん、浮地郎くんはよく『俺は、誰よりも1番高い空を跳ぶ!』って口癖のように言ってた、かな。

大学で出会った時はもちろん、その前からずっとそうだったみたい…。」


跳哉はその言葉を聞いて、少し考えてから口を開いた。



「…誰よりも高い空を跳ぶ…。俺の目標も、父さんと同じだ。」



跳哉は、自分の右拳を見ながらそう呟いた。

その表情に、迷いは残っていなかった。


「父さんも、見守っててくれるはずよ。」


歩実華の右頬には、涙が流れていた。








次の日の放課後、若越は再びグラウンドへ向かった。

若越の顔つきは、前日伍代と勝負した時よりも明るかった。

半年間の足踏みは、ほんの小さなキッカケで前に一歩踏み出す事に成功した。


「…伍代先輩。」


部室棟からグラウンドに向かおうとしていた伍代を、若越は呼び止めた。


「おう、若越。」


伍代は、そう一言挨拶をした。

どこか素っ気ないように聞こえたが、伍代は若越が次に発する言葉を待っているようにも見えた。


「…俺…いや、僕は、誰よりも高い空を跳んでみせます。

羽瀬高で、棒高跳び続けてみてもいいですか?」


若越は、素直に自分の気持ちを口にした。


「続けてみてもいいかって、そりゃお前がやりたいと思ったのなら、そうすればいいさ。」


伍代は、真剣な顔つきで若越にそう言った。


「俺は歓迎するよ、若越。2人で目指そうぜ。全国。」


伍代はそう言うと、拳を突き出した。


「…次は、負かしてみせますよ。」


若越も、拳を突き出して伍代に答えた。


「新入生入部は今週の金曜からだ。明日にでも入部届出しとかないと間に合わないぞ。」


伍代はそう言うと、グラウンドに向かって歩いて行った。





次の日の朝1番、若越は陸上部への入部届を提出した。


「…若越…跳哉…ねぇ。宜しく頼むよ。俺は甘いかもしれないけど、先輩の奴らは厳しいぞ?」


陸上部の顧問は、若越に言った。

彼は、若越の名を知るか知らぬかは分からないが、若越と深く話す事はしなかった。


「大丈夫です。誰にも分からない厳しさを、僕は経験しています。」


若越は堂々とそう言った。

その言葉に、顧問は優しく微笑んだ。


「そうか。期待してるぞ。」


顧問がそう言うと、若越は会釈して職員室から出ようとした。

すると、すれ違いに1人の男子生徒が職員室へ入って行った。


彼は若越と同じように先程の陸上部の顧問の元へ行き、入部届を提出していた。


「1年3組ぃぃぃぃ!!!蘭奈らんなぁぁぁぁ!!りくでぇぇぇぇぇぇす!!!専門種目は短距離ぃぃぃぃ!!!羽瀬高ぉぉぉぉぉぉ、陸上部への入部を希望しまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっす!!!!

宜しくお願いしまぁぁぁぁぁぁぁぁっす!!!!」


職員室にいた全ての人間が、一斉に声のする方向を見た。

若越も例外ではない。その声を聞いて、苦い表情を浮かべた。

若越含めてその場にいた全員の意を、陸上部顧問はその男子生徒に言った。


「…ったくうるせぇよ。はい。わかったわかった。」


陸上部の顧問は、耳を小指で掻きながら蘭奈の入部届を受け取った。


「失礼しまぁぁぁぁぁっす!!!!!」


…どこからそんな声が出るのか、蘭奈と名乗る男子生徒は、そう言うと早足で職員室を出て行った。


若越は職員室を出てすぐのところで、彼とすれ違った。



(…こいつ…。)



若越はどこか見覚えのある彼の姿を、見えなくなるまで目で追っていた。




そうして、4月も3週目に突入する頃

新1年生たちがそれぞれ部活動に入部した。





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