『パァァァァァン!!!』
スターターピストルの音が鳴り、3人は一斉に飛び出した。
10m_
スタートは僅かに蘭奈がリード。
前傾姿勢から、上半身が起き上がる頃には
蘭奈は2人の1歩前に出ていた。
蘭奈の走りは、上級生2人に負けていない。
(…蘭奈…陸…。こいつ確か…。)
30m_
蘭奈が、2人を2歩間隔ほどリード。
(…あっ、あの走り方…。)
若越は、ふと思い出した。
全中決勝の時、ホームストレート(※1)では、棒高跳びと同時刻に男子100mの準決勝が行われていた。
(…確かあの時…。何組目だったか定かではないけど…やけに素早いスタートをするやつがいたな…。)
若越の記憶と、蘭奈の走りが重なる。
(…あの獣みたいに食い気味なスタートの仕方…。)
50m_
蘭奈は、身体1つ分2人をリードしていた。
その走りは2人の姿ではなく、100mのゴールラインより先を見ているように思えた。
しかし2人の先輩は、そこから一瞬にして蘭奈を追い越して行った。
蘭奈の左右から、突風のように2つの風が吹き荒れる。
3人がゴールラインを駆け抜けた。
結果は、泊麻が11秒38で1着。続けて七槻が11秒64で2着。
そして…
「えええ!?!?12.01!?」
蘭奈は12秒01で3着であった。
その結果に満足いかなかったのか、蘭奈は両膝を着き頭を抱えながら叫んだ。
その姿を遠目に見ながら、室井がスタートラインに集まる部員たちに次の指示を出した。
「次は音木、紀良、伍代だ。」
室井の指示で、3人が前に出る。
「…紀良くん、使い方分かる?」
伍代は紀良に優しく声を掛けた。
紀良の自己紹介から、彼に陸上経験が無いように伍代は感じたからだ。
「…さっき見てたんで何となく…。」
紀良はそう言うと、見様見真似でスターティングブロックを弄り始めた。
紀良が両足をブロックに当ててしゃがんだ時、その体は少しふらついていた。
「…左右の高さ、もう1段階下げた方がいい。
重心は両肩に乗せて、なるべく前傾姿勢を取れば走れる。」
見兼ねた若越が、紀良にそうアドバイスした。
紀良は驚いて若越の方を振り向くと、静かに頷いて若越の言う通りにした。
「On your marks…」
3人の準備が整うと、再び巴月は合図を出した。
「Set…」
伍代と音木は同時に腰を上げて前傾姿勢となった。
2人の姿を見て、少し遅れながら紀良が腰を上げる。
パァァァァァン!!!
ピストルの合図で伍代と音木が流れるようにスタートを切った。
少し遅れながらスタートした紀良は、慣れない前傾姿勢に体勢を崩しながらフラフラと走り出した。
短距離選手の音木が圧倒的に速い。
彼は専門種目なだけあって、全力ながらも華麗な走りを見せる。
しかし、その後を離れずに伍代も着いていく。
伍代の元々のポテンシャルもあるが、普段両手にポールを持ちながら走っている分
その両手が開放された時の走りは、また一味違う。
そんな2人の小さくなっていく背中を追いながら、紀良も全力で走った。
そのフォームは…控えめに言ってもダサい。
音木は1着でゴールした。
その後僅かな差で伍代もゴールラインを越えていく。
「…音木くん、11秒71、拝璃、11秒97!」
桃木は手に持ったストップウォッチのタイムを読み上げる。
そこへ、項垂れながら紀良がゴールした。
「…紀良くん…14秒87!」
紀良はタイムを聞く余裕もなくその場に座り込んで俯いた。
「…はぁ…はぁ…。」
紀良は大きく肩で息をした。
そこへ、音木と伍代が歩み寄ってきた。
(…こんなタイムで…陸上部に入ったなんて…怒られるんだろうな…。)
紀良は2人の姿を見ることが出来ず、俯いたまま地面に滴り落ちる汗を呆然と見つめていた。
「…何だお前…。」
音木がそう言うと、紀良はビクッと身体を震わせた。
遅すぎるって怒られるんじゃないか…紀良は何度も心のなかでそう思いながら小さく震えた。
「…何ビビってんだ?慣れてないスタートにしては、後半の伸びは良かった。
こりゃ伸びしろしか無いな。」
音木はそう言うと、紀良に右手を伸ばした。
その表情は怒っているわけではなさそうだが、無愛想ではあった。
そんな姿を見て、伍代は大笑いしていた。
「相変わらず速いなぁ
それに、紀良って言ったな?…君は蘭奈や若越と同じ、"才能の塊"だ。
これからが楽しみだぜ。」
伍代はそう言うと、紀良に左手を差し出した。
2人の先輩に引き上げられながら立ち上がった紀良は、少し瞳を潤わせながら言った。
「…俺、陸上部に入っても大丈夫でした?」
紀良の心の叫びとも言えるその言葉に、2人の先輩は優しく笑顔を見せた。
「…何言ってんだお前。"速くなる"為に練習するんだろ?」
音木は呆れながらそう言った。
「大丈夫に決まってんじゃん。…楽しくさせるよ。
君が羽瀬高陸上部に入った事、後悔はさせないよ。」
伍代はサラリと漫画のような台詞を言った。
自身の胸中で、何かがスルリと解けるのを感じながら、紀良はコースを後にした。
「…さて…。」
ゴールで何やら3人が談笑しているのを見て、室井はスタートラインに立った。
「若越。お前の番だ。」
低い獅子のような声で名前を呼ばれた若越は、少しビクッとしながらスターティングブロックに入った。
「…楽しみにしてるぞ。全中チャンピオン。」
室井はそう言うと、ブロックを準備した。
2人の準備が整ったところで、巴月はピストルの用意を始めた。
(…流石に3年生とは言えど、投擲選手に負けは…)
若越は胸中でそんな事を考えていた。
「…投擲選手に負けるはずがないとか、下らないこと考えてるんだろ。」
若越の心の声を、何故か室井は察していた。
慌てる若越に、室井はゴールを見つめながら言った。
「…お前の弱さだな。その"驕り"は。」
「On your marks…」
室井の会話は巴月には聞こえていなかった。
準備を促す合図を出すと、巴月はピストルを高く上げ耳を抑えた。
室井は動じることなくブロックに足を掛けた。
若越も慌ててブロックに入り、準備をした。
「…まあ、嫌でも分かるだろ。すぐに。」
室井はそう呟いて、走る体勢を取った。
(…何なんだ、この人…。)
若越は室井の醸し出す不思議な雰囲気に完全に飲まれていた。
2人の動きが止まったのを確認して、巴月が合図を続ける。
「…Set…」
2人の腰が高く上がり、重心が前傾に置かれる。
「…若越、足速いのか?」
ゴールで給水を取る蘭奈は、スタートの2人の姿を見ながらそう呟いた。
「…お前はどちらが勝つと思う?」
音木は両腕を組み、同じくスタートを見ながら蘭奈にそう言った。
「…うーん…室井部長じゃないっすか?」
蘭奈は根拠のない答えに少し疑いを持ちながらそう答えた。
「…俺も、室さんが勝つと思うよ。」
それに対し、伍代は確証を得ているかのように自信を持ってそう言った。
(…なんてったって、2年連続東京都チャンピオンだもん。)
パァァァァァン!!!
2人は一斉にスタートを切った。
その差は互角。
室井の体格から、力強いもののスピードに欠ける走りを見せた。
対する若越は、スピードはあるものの加速におけるパワーに欠ける走りをしている。
50mを越えた辺りから、2人の走りに僅かな差が生まれた。
体半個分前に出た室井の走りは、依然力強い。
若越はその走りこそ軽々しかったが、決定的な加速が起きない。
結局、僅かな差が埋まることなく両者ゴールを越えた。
「…部長、12秒67、若越くん、12秒83!」
100mのゴールを10mほど過ぎた辺りで、2人の動きは止まった。
「…お前が"驕り"を捨てることが出来たら、夢は現実となるだろう。」
室井は若越のことを見ずにそう呟くと、すぐに部員たちの集まるところへ歩いていった。
(…俺の…"驕り"…?)
若越は両膝に手をついて、地面を見ながら呼吸をした。
そして、室井の言葉を何度も脳内で反復させては、その言葉の"真意"を探っている…。
_
若越がその答えにたどり着くのは、僅か1ヶ月足らずではあるのだが…。
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100mのタイム測定が終わると、伍代は若越を呼んだ。
「若越ぇ!この後はブロ練(ブロック練習)になるけど、何するー?」
伍代はそう言いながらも、自身は既にポールを持ち出すと同時に、腰に装着するソリタイプの重りを用意していた。
ポール走(※1)をする気である。
「…伍代先輩。僕、本当に今年の予選出るんですか?」
伍代は焦った顔をした。
そう言えば…と、自身がウォーミングアップ中に放った爆弾宣言を、言った本人はすっかり忘れていた。
「…チャンスは多いに越したことはないぜ?
…それとも、まだ棒高やること迷ってんのか?」
伍代の言う通りであった。
入学間もない新入生部員にとって、初戦にインターハイ予選を迎えることが出来るチャンスは少ない。
在校生たちは、インターハイに全てを挑む選手が殆どであるが故、新入生にその枠を頂戴するチャンスは限りなく無に等しい。
若越の迷いは、既に棒高跳びへの継続の意思云々ではなかった。
先日の伍代、そして先程の室井との勝敗の結果が、若越に"高校生"というステージの難易度を示していた。
若越の迷いとは、そのステージの高さであった。
「…ビビってんのか?」
焦りが滲み出る若越の顔を覗き込んで、伍代がそう言った。
何故か少しづつ追い込まれていく感覚に、若越が陥っていた時である。
「ちょっと拝璃?若越くん虐めるの辞めなって。可愛そうでしょ?」
そう言って伍代の頭を叩いた…というより殴ったのは、桃木であった。
「…ってぇ!!」
伍代は目に涙を浮かべながら、両手で頭を抑えた。
…相当痛かったらしい。
「大丈夫?若越くん。困ったらいつでも言ってね。
私は跳躍マネージャーだから、君のこともサポートするのが仕事だからね。」
桃木はそう言って若越に微笑んだ。
先日の跳躍勝負の時に軽く自己紹介をした程度であったが、若越は勝負に集中していたあまり桃木のことを名前しか覚えていなかった。
少し茶色がかったショートボブの髪型に、155cm程の身長。174cmの若越と173cmの伍代とでは頭1個分くらい小さい細身の彼女は、白い歯を見せながら若越に笑顔を見せた。
「…あ、ありがとう…ございます…。」
若越はその時、追い込まれる感情と共にまた別の感情に胸中を侵食された。
_
その日は、伍代と共にポール走練習をして終わった。
それから1ヶ月程、跳躍感覚の取り戻しと更なる肉体強化を続けながら伍代と練習を続けた若越。
そして迎える、5月中旬。
インターハイ西東京予選が幕を開ける…。