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江國の3本目が合図された。
若越の記録無しの結果によって、周囲は重く静かな空気になっていた。
しかし江國にとって、それはなんら関係ない。
彼はただ真っ直ぐ、目の前に聳え立つバーを見上げる。
その時、強く照りつけていた日差しが弱まった。
太陽は雲に覆われて、風が吹き始める。
「…流れは、江國に来たな。」
宙一がそう呟くと、目の前の江國は静かにスタートを切っていた。
高薙兄弟や観客席の継聖学院メンバーはその様子を驚きながら見ていた。
普段から口数も少なく物怖じしていない江國は、同校メンバーから見てもミステリアスな存在であった。
高い目標もライバルと熱心に競い合う様子もない。
それは、決して江國が内向的であったり人見知りだからではない。
江國は、
周りがどうであれ、周りに自分がどう思われてようが、それは彼にとっては何の影響力もない。
彼が見ているのは、
踏み切りラインに到達すると、江國はポールを突き出して力強く地面を踏み切った。
風は追っている。助走の勢いも3本目にして最高だ。
見事な弧を描いて曲がったポールの勢いに体を乗せ、高く上がった江國の体は、
バーよりも30cmは
場内はどよめき、歓声が響き渡る。
十分すぎるほどのクリアランス(※1)に、わざわざバーを越える動作を行わなくとも、
江國は4m50cmの高さのバーを越えてしまった。
江國はマットに着地すると、マットの反発力を利用してそのままマットの上に立った。
喜んでいる様子はなく、江國の表情は依然として無感情的であった。
圧倒的な彼のパフォーマンスに、競技場全体からの大きな拍手と歓声が溢れた。
「…何なんだよ…あれ…。」
その跳躍に、伍代も驚愕していた。
伍代のとって、宙一が唯一自分と張り合ってくる相手であったのが、一瞬にしてかき乱された。
"
伍代は彼の名をしっかり脳内に刻み込んだ…。
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(…江國がクリアしたか…。)
顔を伏せていた若越は、周囲のざわめきで江國の結果を察した。
自分と同じ状況からの結果の差。若越にとって最後の大打撃が与えられたように思えた。
(…やっぱり、棒高跳び辞めよう…。)
若越の胸中には、そんな思いが溢れていた。
『誰よりも、高い空を跳びたい。』という思いが、こんなにも早く打ち砕かれるとは…。
それは、若越本人も想定外であった。
跳躍を終えた江國が、大人しく控えテントに戻ってきた。
「何だよ心配させやがって!余裕じゃねぇか、江國!」
宙一は、後輩の結果を祝してそう言った。
しかし江國本人は、そこまで喜んでいる様子でもなかった。
「…4m50じゃ、喜ぶ程でもないです。」
江國の冷静な反応に、若越は僅かに怒りを覚えた。
その感情を示すように、体が少しピクッと動いた。
(…何だコイツ…俺に喧嘩売ってんのか…?)
若越は静かに拳を強く握った。
悔しさが込み上げているが、何も出来ない。何も返せない事は若越自身が痛いほど分かっていた。
若越にはもう、今の江國を大人しくさせる術が無いからである。
怒り、悔しさ、悲しみ、憐れむ感情を、グッとその拳に込めて我慢するしか無い。
「…まぁまぁ、気負わず楽しくやんなよ。」
宙一がそう言うと、審判員が選手たちに声を掛けた。
4m60cmの試技に移る。
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先程に引き続き、高薙 皇次、江國の順で跳躍が進められるが、
ここからは伍代と高薙 宙一も参戦する。
1本目の試技が始まった。
皇次と江國はそれぞれ1本目の跳躍を失敗し、伍代の試技順を迎える。
水色の地に白字で"HASE"と書かれたタンクトップ型のユニフォームに、白地に水色のラインが入ったスパッツ姿の伍代は、まるで既に全国大会にいるかのようなオーラを放っていた。
江國から感じられる不思議な"圧"のようなオーラとは違う。
伍代からはまるで、"大空"のような爽やかで清々しく偉大な存在感が漂っている。
伍代の後に跳躍を控える宙一は、ユニフォーム姿に着替えながら未だに縮こまっている若越に声を掛けた。
「…若越、伍代が跳ぶぞ。」
しかし、若越が顔を上げることはなかった。
宙一はそんな若越に呆れることはなく、そっとしておいた。
(…ここから、去年のリベンジが始まる…!)
伍代は助走路に入ると、1度顔を上げて天を仰いだ。
昨年、1年生時に出場した際の伍代の結果は、全国大会で予選敗退。
決勝出場標準記録である4m70cmをクリアすることが出来なかったのだ。
しかし、その後の新人戦大会にて4m95cmにて南関東大会2位の記録を残した。
その後の記録会などで記録に挑むも、現状の伍代の自己ベスト記録は4m95cmが最高であった。
その記録を背負って挑む今大会。
伍代が目指す先は…。
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「…拝璃、4m60から出てきましたね。」
観客席で見守る桃木は、若越の事もあってか心配そうにフィールド上の伍代を見ていた。
「伍代は心配ないだろう。去年の結果もある。予選はむしろ通過点であってもらわないと。」
室井は心配すらしてない様子ではあるが、厳しい目で伍代を見ていた。
以前、伍代が口にしていた"2年連続東京都チャンピオン"。それは室井が1年時と2年時に叩き出した記録であった。
1年時は他校選手のコンディション不良などによる偶然の記録と言われていたが、2年時にはその噂や周囲の小言を黙らせるかの如く結果で示してみせた。
それだけでなく、昨年のインターハイでは全国大会決勝で6位の成績も残している。
現状の羽瀬高メンバーの中で、全国出場経験があるのは室井と伍代の2人だけだ。
それが故、同じ立場を経験している身としては、伍代を1番理解できるのは室井だけなのかもしれない。
「…桃ちゃんは、伍代くんを信じる事。」
倉敷は桃木にそう言って、再び跳躍撮影用のスマホを構えて録画のスタンバイをした。
室井と同じように、倉敷もあまり多くを語らない性格だからか、その言葉の真意は桃木にとっては不明であった。
それは倉敷なりの、桃木に対するアドバイスのようにも聞こえたが…。
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(…目指す…いや、辿り着く先は全国決勝。そして、全国の表彰台だ。)
伍代は、胸中に秘めた自信の決意を全身で感じるように、大きく深呼吸をした。
そして、目の前のマットに目線を向ける。
「…伍代くん、4m60、1回目!」
審判員はそう言うと白旗を振った。
伍代の跳躍開始の合図だ。
吹き流しは軽く追い風を示していた。
身体で感じられる程の風はない。
しかし、流れは完全に"継聖学院"ペースだ。
伍代は、グリップ位置を確認して両手を添えると、すぐに意を決してポールを持ち上げた。
「行きまぁぁぁぁぁぁぁっす!!!」
伍代の大きな声に、桃木たち羽瀬高メンバーや他校のメンバーも「はぁぁぁい!」と応えた。
体を1度軽く後ろに逸らし、1拍置いて伍代は走り出した。
助走のスピードは速いが、テンポは誰よりも確実に刻まれていた。
両手でリズムを刻んでいる事で、伍代が手に持つポールが軽くしなっている。これが伍代特有の助走スタイルである。
16歩の助走の14歩ラインで、伍代はポールの先端をボックスに振り下ろした。
助走の16歩目で伍代が踏み切るなり、ポールは大きな弧を描いた。
湾曲が最大になった時には、伍代の体はまるで体操選手のように美しい形で上下反転して逆立ち状態になっていた。
ポールの反発によって浮かび上がる伍代の体は、バーの上を軽く20cmは越えていた。
ポールに最後まで残していた右腕を、伍代は高く振り上げてバーに触れないようにその上を通過して行った。
伍代がマットに着地した瞬間、審判員の白旗が高く掲げられて、跳躍成功の合図が出された。
伍代がマットの上に立ち上がると、観客席から大きな拍手が送られた。
伍代はその称賛に、右手を上げて応えながらマットを降りた。
補助員からポールを受け取ると、ポールをボックスに突き刺して、そのポールを両手でしっかりと握りながら踏切位置の確認を行なった。
「流石だね伍代君。」
旗を持つ審判員が、伍代にそう声を掛けた。
審判員はもちろん伍代の実力は把握していた。それでも目の前で繰り広げられる伍代の一連のパフォーマンスに、称賛せざるを得ない程の魅力が
「いやぁ、流石にこれは1発でクリアしないとっすよ。やっと緊張解れてきました。」
少し笑いながら、伍代はそう返した。
伍代程の実力を以ってしても、1発目の跳躍というものには緊張感が溢れていた。
踏切確認に満足したのか、伍代はポールを持ったまま、助走路を離れて観客席の桃木たちの元へ向かった。
伍代の様子に気づいた桃木が、伍代の側に向かう。
「…桃ーどうだったー?」
伍代は口に手を当てて、大きな声でそう言った。
しかし、桃木の顔が心配そうな顔をしていた事に、伍代は違和感を覚えた。
トラック付近の最前列に桃木が辿り着くと、伍代は桃木に向かって問いかけた。
「…どうかしたか?」
伍代の問いかけに、桃木は呆れたようにため息をついた。
「…拝璃の足の位置は完璧。ドンピシャよ。
それより、若越くん大丈夫なの?」
桃木にとって、伍代の事よりも今は若越の方が気掛かりなのであった。
自分の跳躍の事もあり、集中していた伍代は少し若越の事を忘れていた。
「…ああ、まあ分かんねぇけど、今はそっとしておく事しか俺には出来ない。」
次も頼むぞ!と桃木に声を掛けると、伍代はそそくさとピットに戻って行った。
「…もう、拝璃ったら…。」
桃木は伍代の様子に呆れながら、室井たちの元へ戻って行った。
その道中で、若越への対応を考えながら…。
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伍代がピットに戻る頃には、既に宙一が助走路にスタンバイしていた。
その背後をすれ違いながら、伍代は控えテントに戻ろうとすると、宙一は正面を向いたまま伍代に話しかけた。
「…流石、全国出場者は余裕だな。」
宙一の皮肉めいた言い方に、伍代は少しムッとした顔で宙一を見た。
宙一は、お構いなしに続けた。
「まあ見てろって。今年は全国の前に、俺がお前の"壁"になってやる。」