伍代は走り出した。
(…三ツ谷先輩…俺が果たします…!)
助走の一歩一歩が、伍代の決意を表すように。
スピードに乗ったまま、強く踏み込む左足の跳躍に伍代の身体が浮かび上がり、ポールは弧を描いて曲がっていった。
「…越える…っ!」
観客席の若越は、その瞬間そう呟いて立ち上がった。
上下反転した伍代の身体は、バーの上に向かって真っ直ぐ跳ね上がった。
バーとの距離は余裕ではない。それでも、触れる事なくその上を通過していく。
ポールを手放した伍代の右腕が、バーの上を通過した。
彼の体がマットに着地するよりも早く、観客席は再び歓声に包まれた。
それに合わせて、伍代はマットまでの着地の間に空中で右腕を突き上げた。
ボフッ!と音を立てながら伍代の体がマットに着地すると、審判員が白旗を振り上げた。
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「…えっ…!」
「…えっ…。」
若越と桃木が同時にそう言った。
言ったというよりは、口から漏れた音のようであった。
2人が顔を見合わせると、周囲の観客席から大きな歓声が聞こえた。
「…越えた…っ!」
若越はすぐに状況を理解した。
マットの方向に視線をやると、マットの上で伍代が軽く飛び跳ねながらガッツポーズをしていた。
少ししてから、桃木も伍代に視線を送る。
2人の視線に気がついたのか、伍代はマットを降りると観客席の2人に向かってピースサインをした。
若越はもはやお手上げと言うように、伍代に拍手を送った。
ふと、隣の桃木を横目に見ると、彼女は両頬を涙が伝ってポタポタと彼女の肩に流れ落ちているのが見えた。
「…桃…さん…?」
若越は心配そうに、慌ててタオルを桃木に差し出した。
「…拝璃が…越えた…5m…っ!」
漸く現実を実感したかのように、桃木は声を上げて泣き始めた。
若越は慌てて桃木の肩を摩りながら、桃木を庇った。
しかし、みるみるうちに桃木の身体の力が抜けていくので、若越は桃木を支えながらゆっくりと座った。
すると、桃木は若越の身体に抱きつくようにして声を上げて泣き続けた。
若越は最早、喜びを忘れて彼女をどうしたら良いかと慌てながら、優しく彼女の肩を支えた。
(…桃さんが、伍代先輩の跳躍にこんなに泣くなんて…。)
桃木の姿に、若越はそう心で思っていた。
ふと、胸の奥がズキっと痛む感覚を若越は覚えた。
それは、今日は感じていなかったもの、都大会やそれまでに感じてきた"悔しさ"の感情である事を、若越は客観的に考えていた。
(…何でだろう…伍代先輩はここまで桃さんの心を動かせる…。…5mを越えた事よりも、今はそれが悔しい…。でも…なんで…。)
束の間の喜びも、気がつけば悔しさに変わっていた。
それは、若越がこれまで感じていた劣等感や敗北感によるものとは全く異なる。
若越が桃木に薄々感じていた感情、そして伍代に対してこれまでよりも強くなるライバル心…。
続く5m05cmの跳躍は、宙一も伍代も失敗に終わった。
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南関東大会から3日後。
週が明けて再び学校生活の1週間が始まった。
「…跳哉くんおっはー!ねぇねぇ、どうだった?南関はっ!」
週末に行事があった事で、火曜から学校は始まる事となった。
南関東大会があっだ事もあり、振替休日となった月曜は部活はオフとなっていた。
それも伴い、朝一番から巴月の興奮した声が若越の耳に嫌と言う程聞こえている。
「…おはよう、巴月。
まあ、結果は知ってるかもしれないけど、伍代先輩は5mで2位。
室井部長は16m29cmの1位で全国。
…まあ、泊麻先輩は残念ながら準決勝敗退だったけどね…。」
若越は、南関東大会でのことを思い出しながら、冷静にそう話した。
冷静というよりは、少し怒っているのかイライラした口調にも聞こえなくはなかった。
「結果はもちろん、桃木さんからメッセージ貰ったから知ってたけど…それより、跳哉くん何か怒ってる…?」
巴月は躊躇なくそういった事を鋭く言えるタイプであった。
「…巴月、ちょっと折り入って話というか、聞いてほしい事があるんだ。」
若越は誰かに似たように、誤解を生みそうなフレーズで巴月を誘った。
若越にとっては何ら変な話ではなく、南関東大会での事、それに対して自分が感じた事を話したかっただけであるが…。
「…うん?分かった。お昼休みでもいい?」
「…うん。そうしよう。」
2人の会話は、意図せずとも周囲の何人かの同級生にも聞こえていた。
普通に聞けば若越が"大会の話をもっとゆっくりしたいから時間が欲しい"という意味になるのだが、高校生の思考はそうではなかった。
昼休みを迎えるまでの間に、何故か若越が巴月に告白するのではないか、という謎の噂が周囲には広まっていた。
昼休みを迎えると、若越は校舎の中庭にある日陰のベンチに向かった。
その道中、同級生や上級生が何やらヒソヒソと話しながら自分の事を見ていたような気がしてはいたが、今の若越にそれを気にしている余裕はなかった。
七槻 巴月は言うまでもなく、七槻 勝馬の妹であり勝馬もまた、同級生たちには少なくとも注目を浴びる存在ではあった。
そんな彼の妹である巴月も、自然と同級生だけでなく上級生からも一目置かれる存在であった。
そんな彼女を、入学当初からちょこちょこ話題に上がる若越が誘った。
これだけでも、高校生が何か勘違いする材料には十分であった。
「…おう、巴月。」
ベンチに座る若越の前に、巴月が姿を現した。
若越がそう言うと、巴月はよっと右手を軽く胸元に出して返事をした。
そして、何も言わずに若越の隣に座ると、昼食に持っていたお弁当に触れる前に、若越の顔を覗き込んだ。
「…んで、話って?」
巴月はそう言いながら右耳に前髪を掛けた。
その仕草だけで、何人もの男子高校生は彼女に魅力を感じるであろう。
「…南関の話になるんだけどさ…。」
若越は俯きながら、そう言って南関東大会での一連の出来事を話し始めた。
霧島の事、伍代の5mの事、そして桃木の事を。
「…なるほどねぇ…。それで、跳哉くんは桃木さんにも伍代さんにも何かモヤモヤしてる。って事で合ってる?」
流石巴月だ。話の理解が早い。と若越は内心ホッとしていた。
「…まあ、簡単な言葉で片付けるとするならば、そうと言えるな。
桃さんといる時に感じる不思議な感覚。そして、伍代先輩が桃さんと話していたりする時に感じる感覚。
違った意味でだけど、"モヤモヤ"という点に関しては共通している…。」
若越は、これまでのあらゆる事を振り返りながら、冷静に自分の感情を分析していた。
すると、巴月はそんな若越を見てクスクス笑い始めた。
「…なんだよ、何か可笑しいか?」
「…ふふっ、ううん。可笑しくはないよ。
跳哉くんって、棒高プロフェッショナルでプライドが高くて、お堅い人なのかと思ったけど…言葉を選ばずに言うなら、"棒高バカ"だね。」
巴月の言葉に、若越は理解ができずに少し怒った顔をした。
「…何だよそれ、褒めてんの?バカにしてんの?」
「…いや、だって…跳哉くんのそれ…"恋"じゃないの?」
巴月の革新的な一言に、若越は怒りを超えて呆気に取られた。
流石の若越も、その意味くらいは知っていた。中学時代の同級生が、やれどいつが誰を好き。だの誰と誰が付き合っている。だのという話は、人伝に耳にはしていた。
「…恋って…そんな大袈裟な…。」
若越はまだ自分の立場が理解できていないようであった。
「…はぁ。跳哉くんは、桃木さんの事が好きなんだと思うよ?私はね。
でもそれ、実は跳哉くんに言われる前から少しだけ私も思ってたの。」
巴月はそういう点では若越よりも大人であった。
彼の状況を冷静に判断して、それを客観視できている彼女の大人びた雰囲気に、若越は同級生ながら少し驚いた。
「…そうなのか…?」
「…うん。ここ最近の跳哉くん、部活の時なんだか楽しそうっていうか…この前も言ったけど、最初の頃に比べたら数ヶ月で別人とまでは言い過ぎだけど…ちょっと変わったなぁとは思ってた。」
「…確かに、巴月の言う通りかもしれない。前より気持ちは前向きになったというか…。で、でも、それはもちろん都大会とかの要因はあるよ?ライバルたちに負けたくないって気持ちもあったけど…言われてみればそうでない要因もあったかもしれない。」
若越が珍しく、冷静さを失っていた。
普段活発で元気な巴月に比べたら、若越は常に冷静でクールに装っている方である。
しかし、今はそれが全く逆になってしまっている。
「…なんだ…もっと早く相談してくれればよかったのに…。そういう事ね。まあ、私も何だかスッキリした。
まあ、何かあれば私も協力するよ。それが跳哉くんのモチベーションに繋がるなら、マネージャーとして尚更ね。」
若越は何だか、そう言う巴月の事を初めて頼もしく感じた。
これまでも、女子の同級生と仲良くないわけではなかったが、特段気が合ったり仲良くする相手はいなかった若越にとって、初めて心を許せる女友達ができた感覚であった。
「…ありがとう、巴月。
俺も、巴月がなんかあった時は協力するよ!」
若越は妙に安心したのか、日頃言わないそんな台詞を口にした。
「ありがとう。まあ、私にはまだそういった事はないけど…いつかね。頼りにしてるよ。」
蒸し暑い6月の空気の中、少し心地よい風が吹いたような感覚を、2人は感じていた。
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そして、それから1ヶ月後。
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「…これが…全国大会かっ!何だか懐かしいような、新しい空気を感じるようなって感じだな!なっ!跳哉っ!」
…相変わらず、蘭奈は元気である。
若越はそんな蘭奈を少し面倒くさいと感じつつも、そうだな。と一言だけ共感の意を述べた。
羽瀬高陸上部一行は、室井と伍代のインターハイ全国大会を観戦に、新潟県を訪れた。
北信越を舞台に繰り広げられる今回の全国高等学校総合体育大会。通称、インターハイ全国大会。
羽瀬高からは、南関東大会にて見事優勝を果たした圧倒的実力者。砲丸投げ選手の部長、室井 透治。
そして、2年目にして2回目の全国大会の舞台。南関東大会で自身初の5mを記録し2位通過を果たした次世代のエース。棒高跳びの伍代 拝璃。
まずは、大会2日目に開始する男子棒高跳び。
予選は4m60cmの試技から行われ、予選通過記録である4m80cmの突破又は上位12名が大会3日目に行われる決勝の舞台に駒を進める。
「…それじゃ、いっちょやってきますわ。」
伍代はというと、特に緊張した面持ちもなく普段通り飄々とした様子で競技に向かった。
「…拝璃。」
羽瀬高陸上部メンバーが見送った後、桃木は伍代を呼び止めた。
「桃、どうした?」
伍代が不思議そうに桃木を見つめる。
「…無理しないでね。来年もあるんだから。
スタンドから、応援してるね。」
桃木の意味深なエールに、伍代は精一杯の笑顔を振り出して答えた。
「…ありがとう、桃。でも、今回のメンバーで戦えるのは、今回しかない。悔いのないように行ってくるよ。」
伍代の言う通り、六織ら3年生組と共にする大きな公式大会は今回が最後。
彼なりに思い入れがあるようで、それでも緊張している様子はなく、純粋に楽しむ姿を見せた。
「…伍代先輩。応援してます。」
桃木に着いて、若越もそう伍代にエールを送った。
「ありがとう、若越。よく見ておけよ?これが高校生の大舞台。次はお前も一緒だ。
今後の新人戦や来年の為にも、俺だけじゃなくてライバルたちをよく見て研究するんだ。」
伍代は先輩らしくそうアドバイスを送った。
そして、若越と伍代は互いに拳を突き合わせた。
グラウンドに向かう伍代の背中を、若越と桃木は最後まで見送った。
これが、波乱の幕開けになるとは
伍代を含めて、誰も想像してはいなかった…。