キッドが謁見の間に足を踏み入れた瞬間、重厚な静寂が彼を迎えた。鮮やかな赤絨毯が床を覆い、天井近くまで届く大理石の柱が威厳を放つ広間の奥、王座の前には、深い紺色のドレスを纏ったルルー王女と、紺の軍服姿の近衛騎士たちが整然と並んでいた。そして彼女たちの視線の先には、見覚えのある背中。
白地に緑の意匠が施された軍服に、端正な白いスカート、黒のタイツ――それは緑の公国における外交使節の正式な装いだった。普段の軍服とは異なるため、キッドにとっても見慣れた装いではなかったが、その服に身を包み、肩まで届きそうな金色の髪を揺らすその人物の後ろ姿は、彼の記憶の奥深くに刻まれていた。
幾多の戦場で、彼女は常にキッドの前に立っていた。魔導士である彼を守るため、剣を握り、盾となり、決して膝をつくことはなかった。その背中が、今ここにある。
「ミュウ……」
その名が、知らず口をついて出た。
謁見の間に漂っていた時間が止まったような静けさが、その一言で動き出す。緑の公国の使者が、まるで雷光に打たれたかのように敏感に反応し、躊躇いなく振り返る。
「キッド!」
彼女の瞳が、瞬く間に花開く。溢れる喜びを隠そうともせず、まるで久遠の冬が溶け、春が訪れたかのような微笑みだった。
最後に見た彼女はあまりに痛ましい表情をしており、その影がずっと心にこびりついていただけに、キッドは今目の前にいる彼女の微笑みに、ほっと胸を撫で下ろす。
ミュウと同じく、キッドに気づいたルルー王女が、助けを求めるように彼へと視線を向けた。彼女の表情には、珍しく困惑の色が浮かんでいる。
「キッド様、よく来てくださいました。このかたが、緑の公国の使者として来られたのですが……」
この国に来てから、キッドは彼女のこんな困り顔を見たことがなかった。
一体、どんな話が行われていたのか――キッドの胸の内がざわつき始める。
そんなキッドの心の内を知ってか知らずか、ミュウは再びルルー王女に向き直り、背筋を正して毅然とした態度で語り始めた。
「キッドも来てくれたことですし、改めて、我が国の公王ジャンの言葉を伝えます」
ミュウの声は透き通るように澄んでいたが、その響きには確かな威厳が宿っていた。それはまるで鋼鉄の鎧に包まれた言葉。揺るぎなく、絶対的な命令のように謁見の間に響き渡る。
「ジャン公王の即位と共に、キッドの名誉は正式に回復され、爵位剥奪も撤回されました。それに伴い、キッドは引き続き緑の公国の宮廷魔導士としての地位を保持することになります。したがって、我が国の宮廷魔導士が紺の王国に長期間留まることは、外交問題に発展する恐れがあり、貴国には速やかなるキッドの身柄の返還を求めます」
ミュウの言葉には微塵の迷いもなかった。その毅然とした態度は、まさしく緑の公国を代表する使者としての威厳を帯びていた。
キッドの位置から彼女の表情は見えない。しかし、彼女が堂々と他国の王女に向き合うその姿が目に浮かぶようだった。
それこそ彼女の本質なのだ。どんな状況でも折れず、自分を貫き通す――ミュウとはそういう女性だった。
一方で、困惑したルルーは、まるで助けを求めるようにキッドを見つめた。
「――ということをおっしゃってまして……。正式な書状も持参されています」
ルルーの言葉はどこか頼りなく、揺らいで聞こえた。
(ミュウには、俺がなぜ紺の王国に行くのか、話したはずなのに……)
キッドは静かにミュウに歩み寄った。その足音に気づいた彼女が振り返る。
目が合った瞬間、ミュウの唇が緩む。そこには確かな自信と、ほんの少しの得意げな色が滲んでいた。
「キッド! 私と一緒に緑の公国に戻ろう!」
ミュウの言葉は強く、揺るぎなかった。
だが、キッドは答えなかった。ただ彼女の腕をしっかりと掴むと、そのまま謁見の間を後にするように歩き出す。
「キッド様!」
「キッドさん!」
ルルー王女とルイセの声が背後に響いたが、振り返ることなく、キッドはミュウを連れ廊下の奥へと消えた。
やがて二人は近くの空き部屋へたどり着く。キッドはミュウとともに部屋の中に入り、静かに扉を閉めた。
重い沈黙。
互いに視線を交わす。ミュウは変わらず自信に満ちた笑みを浮かべ、無邪気な声で言った。
「キッド、迎えに来たよ!」
その屈託のない言葉に、キッドは思わず頭を抱え込んだ。
状況を理解していないわけではない。むしろ、彼女はすべてをわかったうえで、こうして笑っているのだ。その揺るがぬ姿勢こそが、キッドの心を重くする。
「……ミュウ、俺がこの国に来る目的は話したよな。この国が力をつけて、緑の公国の同盟国になれば、黒の帝国にも対抗できるんだ。だから、これは必要なことなんだよ」
真剣な言葉。しかし、それがミュウに響くかどうかは別問題だった。
彼女はまっすぐにキッドを見つめ返し、微塵の曇りもない瞳で言い放つ。
「私は納得したなんて言ってないから!」
その目には強い意志が宿っていた。
キッドは苦笑いする。彼女がただ従順なだけの女の子でないことは、誰よりも知っている。ミュウは、自分が正しいと信じたことを、決して曲げない。
「確かに、それはそうだけど……」
キッドは深くため息をついた。
ミュウは感情的に突っ走るだけの人間ではない。冷静に戦略を立て、最適な行動を選ぶ知性も持ち合わせている。
しかし、まさか、国を動かしてまで自分を連れ戻そうとしてくるとまでは思っていなかった。
「キッドが私の話を聞いてくれないから、こんなことまでしてるんだよ! 言っておくけど、もちろんジャンも私と同じ考えだからね!」
ミュウの言葉には、確固たる信念と共に、彼女自身の決意が込められていた。その上、彼女がジャン公王の支持を得ていることも、事態をさらに複雑化させている。つまり、これは単なるミュウの個人的な意見ではなく、公国の意志でもあるということだ。
キッドの身は、彼の知らないところで、もはや彼個人の意思だけでは解決できない問題に発展していた。
しかし、だからと言って、「よし、わかった」とミュウにうなずくわけにはいかない。
「……とにかく、今の俺はこの紺の王国の軍師だ。少なくとも今は、緑の公国に戻るわけにはいかない」
「軍師? 宮廷魔導士とかじゃなくて? どうしてキッドが軍師なんてやってるのよ!? ……いえ、それより、戻るわけにはいかないってなによ! じゃあ、いつになったら戻るの!?」
「俺には俺の考えがあるんだよ! とりあえず、帰ってジャンにそう伝えてくれ」
その瞬間、ミュウの表情が、途端にふてくされたものへと変わる。
「……やだ」
「やだって、お前……」
「キッドが一緒に戻ってくれないのなら、私は使者としての使命を果たせてないってことじゃない! だから、キッドが戻るっていうまで、私もここに残る!」
一見だだをこねているだけのように見える。だが、そう言い放った彼女の目に迷いはなかった。
「おいおい、緑の公国だって黒の帝国に備えないといけないのに、公国の三英雄の一人がこんなところで無駄に時間を過ごしていいわけないだろ!」
「そう思うなら、キッドこそ、さっさと
ミュウは一歩も退かない。まるでそこが戦場であるかのように、真っ向からキッドを睨み据えていた。
キッドは、彼女が簡単に言葉で引き下がるような人間でないことをよく知っていた。何か決めた時のミュウは、頑固なまでにその意志を貫く。それを止めるのは至難の業だ。
――どうしたものか。
キッドは深いため息をつくしかなかった。軍の整備が順調に進んでいた矢先に、またしても厄介な問題が持ち上がったものだと、思わず頭を抱えた。
キッドはひとまずミュウを王城内にある自分の部屋へ案内した後、再び謁見の間へ戻った。
キッドが姿を見せると、ルルーやルイセをはじめ、側近たちが一斉に彼へと視線を注ぐ。
そんな中、キッドは一息つき、簡潔に状況を説明した。自分が緑の公国へ戻るつもりがないこと。そして、ミュウがしばらくこの国に滞在することなどを。
キッドが戻ってきた当初は、明らかに不安の滲んだ顔をしていたルルーだったが、彼の話を聞いているうちに、次第にその表情は和らいでいった。
「……よかった。キッド様はこの国に残ってくださるのですね」
彼女の声は、ほっとしたようだったが、わずかに震えていた。
「ええ、まだ俺はこの国で何も成し遂げていませんからね。今、ここを離れるわけにはいきません」
キッドの返答に、ルルーは静かにうなずく。しかし、キッドの後ろからは、不穏なつぶやきが聞こえてきた。
「……命拾いしましたね。私を強引に軍師補佐にしておいて、自分だけさっさと緑の公国に戻るなんて言ったら、刺し殺すところでした」
ルイセの低いつぶやきに、キッドは思わず肩をすくめた。彼女が本気でそれを実行するかどうかはともかく、言葉の端々に滲む怒気は冗談とは思えない。
(聞かなかったことにしよう)
そう心の中で決め、キッドは話を続けた。
「ルルー王女、申し訳ありませんが、ミュウの部屋を用意してもらえますか? 私用で来たのならともかく、曲がりなりにも使者として来ている以上、無下に扱うわけにはいきませんので」
「はい、それはもちろん構いませんが……少々困ったことになりましたね」
ルルーは困惑した表情で、ちらりとキッドを見やる。
「はい……」
二人は同時にため息をついた。
キッドが紺の王国に留まり、使者であるミュウまで王城に滞在するとなると、さらなる外交問題に発展する可能性を孕んでいる。ただでさえ、紫の王国という直近の問題があるのに、今のこの国に、緑の公国との関係に余計な波風を立てている余裕などまったくないのだ。
「ジャン公王には、私の方からも使者を送り、正式に事情説明をいたします」
「頼みます。黒の帝国に対抗するには、緑の公国との連携は必要不可欠です。本来なら俺が説明に行くべきところですが、今はその時間も惜しい。両国の関係が崩れぬよう、穏便に進めてください」
「お任せください」
課題は山積している。それでも、ルルー王女は力強くうなずいた。
彼女にとって、キッドが緑の公国に戻ることが最大の懸念事項だった。しかし、その心配は今、ひとまず払拭された。
外交に関しては、ルルー自身でどうにかできる問題だ。彼女は、必要であればどんなことでもする覚悟でいた。
「よろしくお願いします」
ルルーに頭を下げながら、キッドはふと、自分自身に問いかけていた。「少なくとも今は、緑の公国に戻るわけにはいかない」とミュウに伝えた自分は、この国にいつまで留まるつもりなのだろうか、と。
その答えはすぐに出そうにはなかった。