厄介ごとはいつもこの少女が運んでくる。オレリアン伯爵家の長子であり、家族や使用人、そしてミリオンの婚約者から「天使」と称される少女ビアンカ。
この国の幾つかの古い家系では、本当に翼をもつ神の使徒が生まれたことがあると文献には残されている。使徒は強力な魔法を行使し、繁栄をもたらすと伝えられる。穢れを許さぬ白い翼の「天使」、安寧をもたらす黒い翼の「
(ビアンカが本当に天使であるわけではないけれど、幼い頃にお母様と見た
故にビアンカは天使ではない。だがしかし、万が一にも彼女が真に天使だったとしたなら、その翼はきっとミリオンの元へ問題を運ぶために付いているのだろう。そんな考えが浮かんで、ミリオンは口元が笑みの形をとりそうになるのを慌てて堪えた。今はそんなことより重要な話の最中であったはずだ。
(セラヒム様とは婚約式の証書署名の時に会ったきりだし、そのお顔に泥を塗ったって言われても、婚約式以降のこの1年間は、屋敷から出ることがほとんど許されなかったのだけれど……)
分からないことだらけで首を捻るミリオンだが、一番理解できないのは目の前に立った2人だ。
勝ち誇ったような笑みを浮かべてミリオンの婚約者の腕に絡みついた
馬鹿げた見世物に心が冷えるのを感じながらも、黒い感情が大きく育たないよう深呼吸を繰り返す。
(お父様があてにならないから、わたしの将来のために、お母様がご自身の伝手で結んでくださった婚約のはずだけれど……この2人の様子じゃあ、わたしの味方は誰もいないってことね)
いつものように馬車の中で聞いた、母親の最期の言葉を脳裏に浮かべたミリオンは、なるべく感情を動かさないように静かに2人を見詰めた。
――今からちょうど1年前。
ミリオンと母が領地の視察に出掛けた父を追い、数日遅れで王都のタウンハウスから馬車で出立した。その道中、郊外の荒れ地で突然馬が暴れはじめ、馬車は散々揺られ、あちこち破損させながらついには横転したのだ。その馬車の中、母はミリオンを庇って帰らぬ人となってしまった。
恐ろしい暴走の最中、ミリオンを護ってしっかりと彼女を抱え込んだ母は、打ち付けられる身体に顔を歪ませながらも力強い声音で語りかけたのだ。
『ミリオン、あなたは時別な子。心穏やかにありなさい。優しさこそがあなたを助ける強さになります。優しさがミリオンの味方となります。どうか心穏やかに』
母は分かっていたのだろう。ただの一言も父を頼れとは言わなかった。そのことは、母の葬儀後間をおかずにやって来た、義姉と義母を見て即座に理解した。自分よりも2つ年上の片方だけ血の繋がった義姉の存在は、イコール父の不義を現す。理不尽極まりない境遇に陥ることが分かっていながら告げられただろう言葉だったのだけれど、ミリオンはその言葉を心の支えに、義母や義姉から部屋や物、教育の機会を取り上げられ、使用人の様に扱われ、謂れのない折檻を受けても、心穏やかに過ごすよう心掛けて来た。
――セラヒムが腰に差したロングソードを引き抜き、ミリオンに向かって振り下ろすまでは。