花京院家のファミリールーム。
緊張の面持ちで座っている幹の前に、中務の給仕で優美なティーカップが出された。
「美百合を無事に連れ帰って下さって、ありがとう……」
美百合の母、花京院すみれは、お茶をどうぞ……という仕草を見せながら言った。
美百合に数十年の年月を重ねたら、この人のような大人になるのだろう。
未来の美百合と向かい合っているかと錯覚する程、良く似た母子である。
美しさと包容力のバランスが、幹を神妙な仔犬のような気持ちにさせる。
「いえ、無事とは言えない状態です……ごめんなさい……」
頭を下げる。
「ほら、またそんなお顔……」
すみれは心配を含んだような笑みを浮かべる。
「私はね、サイレント・ゼブラとクリスタル・リリの大ファンなの。もちろん、今日の中継も見ていてよ?」
もちろん幹も、知られていると確信しての謝罪ではあったが、はっきりとゼブラの名前を出されて、思わずハッと顔を上げる。
すみれは微笑んで頷いた。
「大変な戦いだったけれど、彼らはよく切り抜けましたね。ゼブラが居てくれるから、リリは安心して力尽きるまで頑張れるんだと私は思っていてよ? ビジュアルも関係性も美しくて、良いチームだわ。一生推せる……って、こういう時、推し活民は言うのよね?」
深い眠りに落ちるほど疲れ果てて帰ってきた愛娘が心配でない訳がないのに、穏やかに労ってくれる。
すみれの優しい声を聞きながら、いつの間にか幹は泣いていた。
ありのままでは生きられなかった。
異能力者であったが故に、薄くとも血の繋がった大人から何度も何度も捨てられた。
恐れられ。疑われ。幼子は自分を守るため、心を通わせる関係を諦めた。
せめて能力者としてパーフェクトに近付く事で、自らの存在価値を、誰より自らに示してきたのだ。
それなのに--
パーフェクトでなかった今日。
それでも、存在を許された。
抑え込んでいた心の澱が溢れ出したようであった。
感情を揺らさないように生きてきたはずなのに、向けられた包容力を前に、為す術もなく幹は泣いた。
「持ってしまった能力を、理解してくれる大人が居ないまま生きて来たのでしょう……? どれほどの孤独を耐えて来たのか……いち能力者の母として、胸が痛みます」
すみれの声も潤んでいた。
まるで幹の生い立ちやこれまでを知っているかのようだ。
問うように顔を上げた幹に、すみれは、ああそうそう……と声色を変えた。
「失礼ながら、身辺調査はさせて頂きました。だって私、大家さんですから」
ちょっとおどけて言う。
正に美百合そのものの可愛らしい様子に、幹は呆気にとられた。涙の引っ込んだ目を、ぱちくりと瞬く。
そしてすぐに我に返り、慌てて頭を下げた。
「ご挨拶もしないですみません! 紫陽花館をお借りしています、泉森幹と申します!」
すみれはクスクスと笑った。
「大歓迎よ。一生居てくれても構わないわ……っていうか、そもそも美百合が強行したのでしょう? こちらこそごめんなさいね」
能力者である事を知りながら、安心出来る居場所を提供してくれる大家さんは、ひとつだけ、
私の事はすみれさんと呼んでね?
という「条件」を幹に要求してきたのであった。
ファミリールームは家族のためだけのリビングだ。
ゲストを案内する広いメインリビングの格式高い様子とは異なり、暖か味のあるカジュアルなインテリアで、それぞれ好きに過ごす家族の気配が心地好く感じられる空間だった。
部屋のあちこちには家族写真が飾られている。
この部屋にもすみれにも、やっと少し慣れた幹が立ち上がった。
「写真を見ても良いですか?」
断ってから、部屋の壁やコーナーテーブルのフォトフレームを散策する。
幼い美百合はお人形さんのように愛らしく、イタズラやおてんばの表情も微笑ましく--
そして、幹も知る現在の美百合まで、美しく成長して行く歴史の縮図がそこにあった。
そんな宝物を、いつも傍で優しく見守る和服姿の渋いオジサマが、美百合の父親で華道花京流家元の重親(しげちか)だと言う。
花京院家の敷地内西側には、外部からアクセスできる独立した日本庭園があり、そこにある和風建築「菫館」が華道花京流の本部であった。
重親は現在、上級のお弟子さんとお稽古中のようだ。
「夫は、私の父……先代家元の一番弟子だったの。娘の私に華道家の才能が無かったものだから、後を継がせるために婿養子にされた可哀想な人なの」
すみれはサバサバとした様子で笑う。
とはいえ、自身の仕事場に「菫館」と妻の名前を付ける人だ。睦まじい夫婦なのだろう。
「残念ながら美百合の腕前も家元の器ではなくてね。でもあの子には、家業に縛られるより好きに生きて欲しいと私達は思っていて……。夫とも、もう花京院の家から家元を……という縛りは捨てましょうと話しているの」
そういうすみれの方は宝石商を営んでいて、世界中に支店があるらしい。
リリのクラフトが「植物の形を成す」「クリスタル状の」というのが納得できる気がした。
両親の影響を半分ずつ受けているのだろう。
「すみれさん、この写真は……?」
大家さんの「要求」にちゃんと応える幹が、古い一枚の写真を指さす。
美百合が、二人居た。
「それは私と双子の妹、かすみ……」
「すみれさんと、かすみさん……」
「そう……」
まだ幼さの残る少女時代の麗しい双子姉妹の写真に、すみれは愛おしそうに目を細めた。
「かすみは……五年程前に体を壊して亡くなってしまったのだけれどね」
幸せな結婚もしたはずだったのに……と、妹を偲ぶ。
恋愛結婚をして男の子を産んだが、その夫と子供も二年前に消息が分からなくなってしまった。
自ら操縦するセスナ機が、何らかの機体トラブルを起こしたのではないかと言われている。当時七歳だった子供も同乗していたとの事。
知り合ったばかりの幹の目にも、朗らかで大らかな印象しかないすみれであったが--
愛する妹だけでなく、その家族すらも失い、心の深い所には哀しみの河が枯れることなく流れているのだった。