あれ、宗ちゃんってこんなんだったっけ?
白い肌。痩せてほおがこけているので、なおさらやつれて見える。細い目の下には濃いくまがあった。色白ではあったが、武道家らしく健康的なイメージが強かったので、別人のように見えた。いつも短く刈り込んでいた髪が、ボサボサに伸びている。着古した黒いスウェットも、高級マンションの住民には見えなかった。
「え……。宗ちゃん?」
「おお、アキ。久しぶりだなあ。まあ、上がれよ」
促されて玄関に入る。室内は薄暗くて、少しカビ臭い匂いがした。
「ちょっと散らかっているけどな。男の一人暮らしなんで、許してくれ」
宗ちゃんは僕の先に立って歩いていく。フラフラと足元がおぼつかない歩き方で、昼間から酒でも飲んでいるのかと思った。
通されたのはリビングだった。豪華なソファーセットがあり、その向こうに巨大な薄型テレビが壁にかけてある。昼なのにカーテンを閉めて、照明がついていた。他には何もない。壁際に段ボール箱が3つ積まれていて、引っ越してきて荷物を開けずに、そのままにしているような感じだった。
「そのへんに座ってて。なんか飲み物入れるわ。コーヒーでいいか?」
宗ちゃんはキッチンがあると思しき右側のドアを開けて、姿を消した。
「砂糖とミルク、両方とも要るんだったっけ?」
声だけ聞こえる。
「インスタントだったら要るけど、ドリップだったら要らないよ」
少し声を大きくして、返事をした。
リビングの床には、白いふかふかのラグが敷いてあった。その上にあぐらをかいて座る。さて、どうしたものか。変な気配を感じないか武蔵に聞いてみようと三脚ケースに手を伸ばしたところで、宗ちゃんが戻ってきた。とっさに手を引っ込める。
「床に座らずに、ソファー使えよ」
ガラストップのテーブルに、マグカップを2つ置いて、ソファーに浅く腰掛ける。促されて宗ちゃんの斜め前に座った。武蔵は足元に置いている。コーヒーのいい香りがリビングに立ち込めて、カビ臭さを追い出した。
「いや、びっくりしたよ。こんな高そうなところに引っ越したんだね」
何から話したものかと思ったが、当たり障りのない近況から聞いてみることにした。親しい従兄と会っているはずなのに、まるで取材みたいだ。ピンと張り詰めた緊張感が、僕の額のあたりに張り付く。それに気づかれないように、できるだけ何気ない顔をして、何気ない口調で切り出した。
「ああ、うん。ちょっと宝くじが当たってな。引っ越したんだ」
宗ちゃんはマグカップを取ると、ズズッとひと口、コーヒーをすすった。
「きょう、仕事休みなの?」
「ああ、仕事は辞めたんだ」
えっ、そうなんだ。大変だとは聞いていたけど、それでも僕よりはやりがいを感じているように見えていたんだけど。
「今は投資でメシを食っていてな。だから、こんな時間にアキと会えるんだよ」
宗ちゃんはそう言って、ニッと笑った。
「そういうアキこそ、この時間は仕事なんじゃないのか?」
逆に聞いてくる。
「いや、新聞記者って割と時間の融通が利くんだ。だから、こうやって仕事の合間にプライベートなこともできるってわけで」
「そうなんだ」
宗ちゃんはふうんと言って、ソファーに座り直す。もう少し、浅めに腰掛けた。
「で、用事は何? 誰か結婚でもするのか?」
最後に会ったのは今年の正月だった。僕にはいとこがたくさんいて、祖母の家で集まっていた。みんないい年になってきたので、そろそろ誰か結婚するんじゃないかなという話で盛り上がった。最初は年齢的に宗ちゃんでしょと振ると、いやあ、俺にはまだ相手すらいないからと言って朗らかに笑っていた顔を、今でも昨日のように思い出す。
だけど、今、目の前にいる宗ちゃんはまるで別人だ。ジトッと冷たくて、まるで長い間、入院していた病人のような不健康な印象を受ける。これが、本当に宗ちゃんなのか? 知らない人みたいだ。
「ああ、いや、違うんだ。宗ちゃん、ずっと剣道やっていたよね?」
脇の下にじわっと冷や汗がにじんできた。それに気づかれないように、軽く微笑んで本題に入る。
「うん」
宗ちゃんは薄笑いを浮かべて、うなずいた。その目からは、なんの感情も読み取れない。
「ちょっと教えてくれないかな。ほら、僕、フェンシングやってたじゃん? 日本人だから、日本の剣術も知りたいなあって、ずっと思っててさ」
嘘ではなかった。フェンシングを始めた頃から、日本人なので日本の剣道も知りたいという気持ちはあった。ただ、あまりにも唐突だ。宗ちゃんは、僕がすごく多忙な日々を送っていることを知っている。剣道を習っている時間なんてないということも、知っているはずだ。そこをツッコまれたらどうしよう。
「ふうん……」
宗ちゃんは無精髭の生えたあごをなでて、少し考えていた。少し疑わしい顔をして、チラッと僕の足元に目を落とす。
「それ、何?」
「あ、これ? これは三脚だよ」
やっぱり来たか。三脚ケースを買っておいてよかった。準備していた通りの受け答えをしているが、いつ化けの皮がはがれるかと思うと、ヒヤヒヤする。脇の下の冷たい汗が、ツツーッと流れるのを感じた。
犯罪者って、こんな感じなのかな。自分がやったこと、やろうとしていることをひた隠しにするって、こんな気持ちなんだろうか。
「ふうん……」
宗ちゃんは、またあごをなでた。
「できれば、居合も教えてほしいんだ。宗ちゃん、居合もやってたよね? ほら、模造刀を見せてもらったじゃん」
しどろもどろになっているのではないか。できるだけ落ち着いて話しているつもりなのだが、話し方に不審なところがあるのではないか。気が気ではなかった。
「居合なんて、運動にならないぞ」
宗ちゃんは、またジロリと武蔵を見る。
「いや、ほら、今、外国人観光客がいっぱい日本に来てるじゃん? 彼らに『日本人らしいことをやってみろ』って言われるかもしれないじゃん? その時に、侍みたいに刀が振れたらいいかなあって」
そこまで話した時、ふいに斜め後ろに人の気配を感じた。いや、人かどうかはわからない。何かの視線だった。ゾッとして、全身に鳥肌が立つ。何かに見られている。いつの間に現れた? いつからそこにいた? もう一度、ゾゾゾッと背筋に寒気が走った。
「お客さん?」
声がする。若い女の声だ。
「ああ、いつ。俺のいとこのアキだよ」
足音がした。軽い足音だ。裸足だろうか。恐ろしくて振り向くことができない。しゅっ、しゅっとフローリングの床を滑る音がして、それは僕の隣に現れた。
恐怖で首が回らない。きしみ音が鳴るのではないかと思うくらい、ゆっくりと横を向くと、それが視界に入ってきた。ヒッと思わず悲鳴が出そうになるのを、なんとか僕は押し殺した。