昼休み、千尋は生徒会室で書類を整理していた。外から聞こえるざわめきに、ふと手を止める。
「玲奈、転校するんだって?」
耳に飛び込んできたその言葉に、千尋の手が一瞬止まる。
「本当らしいよ。親の仕事の都合で、来月にはもう……」
書類を挟んでいたペンが、かすかに揺れた。
——玲奈が転校?
驚きよりも先に、胸の奥が締めつけられる。なぜ、何も言わなかったのか。
授業が終わると、千尋はまっすぐ玲奈を探し、人気のない廊下で呼び止めた。
「……どうして、黙ってたの?」
玲奈は一瞬、驚いたように目を瞬かせ、それから静かに微笑んだ。
「言っても、先輩には関係ないと思って……」
その言葉に、千尋の中で何かが弾けた。
「関係ない? そんなわけ、あるわけないでしょ!」
思わず声を荒げる。玲奈が戸惑うように千尋を見つめる。
「私、知らないまま玲奈がいなくなるなんて……そんなの、嫌だ」
思わずこぼれた言葉に、自分自身が驚く。
玲奈は一瞬、何かを言いかけたが、ただ小さく笑った。
「……やっぱり、先輩は優しいですね」
その笑顔が、どこか寂しく見えた。
屋上の扉を開けた瞬間、冷たい風が頬をかすめた。
千尋は静かに歩みを進め、フェンスの前で立ち止まる。いつもならそこにいるはずの玲奈の姿はなかった。
雨が降り始めていた。コンクリートに落ちる雨粒が、小さな音を奏でる。千尋は傘を持っていなかったが、そのまま立ち尽くした。
——玲奈は、来ないのか。
屋上はふたりの秘密の場所だった。何かあれば、ここに来ればよかった。玲奈が待っていると、いつも思っていた。けれど今日は違う。
ポケットの中のスマートフォンを取り出す。玲奈の名前を呼ぶように、指が画面の上をなぞる。だが、送るべき言葉が見つからない。
「……なんで」
小さくつぶやいた声は、雨にかき消された。
玲奈が転校すると知ってから、ずっと胸がざわついていた。確かめたいことがあったのに、まだ何も聞けていない。
それなのに、今夜、玲奈は来なかった。
雨が強くなる。制服の袖がじっとりと濡れ、頬に冷たい雫が落ちる。
どれくらい時間が経っただろう。結局、千尋は玲奈に会えぬまま、静かに屋上を後にした。
足元に響く水音が、ひとりぼっちの夜を際立たせていた。
部屋の窓を叩く雨音が、夜の静寂を埋めていた。
千尋は机に肘をつき、ぼんやりとスマートフォンの画面を見つめる。玲奈の名前が並ぶメッセージ履歴。最後のやり取りは、たわいもない会話のまま止まっていた。
——玲奈が、いなくなる。
その事実を改めて突きつけられると、胸の奥が締めつけられる。
「どうして、こんなに……」
ポツリと呟いた声が、空間に溶ける。玲奈の笑顔、からかうような声、少し寂しげな瞳——それらすべてが頭の中を巡る。
考えれば考えるほど、玲奈の存在が大きくなっていく。
(ただの後輩なら、こんな気持ちにはならない)
——あの子じゃなきゃ、ダメなんだ。
気づいた瞬間、千尋は立ち上がっていた。
スマートフォンを握りしめ、迷いなくドアを開ける。
「……玲奈に会わなきゃ」
理由はもう考えない。会わなければ、すべてが終わってしまう気がする。
雨がまだ降り続く夜の中、千尋は駆け出した。
夜の街は雨の匂いを纏い、静まり返っていた。千尋は震える指先をポケットに押し込みながら、玲奈の家の近くの街灯の下に立っていた。
何を言うべきかなんて考えられなかった。ただ、玲奈に会いたかった。
やがて、家のドアが静かに開く。
「……玲奈」
呼ぶつもりはなかったのに、自然と名前がこぼれる。
玲奈が驚いたようにこちらを見た。
「先輩……? どうして——」
言葉を遮るように、千尋は玲奈を強く抱きしめた。玲奈の細い体が腕の中で少し強ばる。
「行かないで……」
必死に抑えていた想いが、とうとう溢れた。
玲奈は千尋の背中にそっと手を添え、ふっと小さく笑う。
「先輩がそんな顔をするなんて……ずるいですよ」
「……本気なんだ」
玲奈は千尋の胸に顔を埋めるようにして、小さく囁いた。
「だったら、もっと早く言ってほしかった」
千尋の腕の中で、玲奈の体温がじんわりと伝わってくる。
この温もりを、もう離したくなかった。