玲奈の温もりを感じたまま、千尋は息を整えようとした。しかし、心臓の鼓動が激しくて、まともに呼吸さえできない。
「先輩……」
玲奈がゆっくりと顔を上げる。千尋の瞳を覗き込むようにして、小さく問いかけた。
「それは恋ですか?」
雨上がりの夜、静寂の中に玲奈の声が響く。
千尋は言葉を失った。
恋——そんな風に考えたことがなかった。ただ、玲奈がいなくなることが怖かった。それだけだった。
「……わからない」
ようやく絞り出した言葉は、驚くほど頼りなく、震えていた。
玲奈は目を伏せ、そっと微笑む。
「そっか」
その微笑みがどこか悲しく見えて、千尋は強く玲奈の手を握った。
「でも……お前がいなくなるのは嫌だ」
玲奈の瞳が、かすかに揺れる。
「それじゃあ、どうすればいいですか?」
玲奈の問いに、千尋は何も言えなかった。ただ、彼女を手放したくないという想いだけが、胸の中で膨らんでいく。
玲奈の瞳が静かに千尋を見つめる。
「じゃあ、私を引き止めてください」
玲奈はふわりと微笑んだ。その表情はどこか試すようで、どこか切なかった。
千尋の喉がかすかに鳴る。
引き止める——どうすればいい? 言葉ではもう足りない気がした。
心臓が痛いほどに高鳴る。ためらいながら、千尋は玲奈の頬にそっと手を添えた。
「……いいの?」
玲奈は目を閉じ、微かに頷く。その仕草があまりに儚くて、千尋はもう迷えなかった。
ゆっくりと顔を寄せる。玲奈の頬に唇が触れた瞬間、すべての雑音が消えた気がした。
——温かい。
玲奈の指先が、千尋の背中にそっと触れる。そして、やがて千尋を引き寄せるように回される。
それは、初めて心が重なった瞬間だった。
玲奈は目を開け、千尋を見つめた。
「……もう、離さないでくださいね」
千尋は静かに頷く。
「絶対に」
雨上がりの夜、ふたりの影がゆっくりと重なっていた。
次の日、玲奈が静かに千尋の肩を叩いた。
「先輩、少し話せますか?」
放課後の図書室、昨日の雨の匂いがまだ微かに残る空気の中で、玲奈はそっと微笑んだ。
「転校、延期になりました」
千尋は一瞬言葉の意味が理解できず、玲奈を見つめた。
「家族と話し合ったんです。すぐに転校しなくてもいいって」
玲奈はそう言いながら、かすかに笑う。
「あと半年、一緒にいられる」
千尋の心が、じわりと温かくなる。別れがすぐそこにあると思っていたのに、時間が増えた。それがどれほど嬉しいことなのか、言葉にならなかった。
「……そっか」
それだけを言うのがやっとだった。
玲奈は机の上に頬杖をつき、千尋を見上げる。
「先輩、喜んでくれました?」
千尋は少し顔をそらしながら、小さく頷いた。
「……まあ、悪くない」
玲奈はくすっと笑い、千尋の袖を軽く引いた。
「あと半年、先輩は私のそばにいてくれますか?」
千尋は玲奈の手をそっと握り返した。
「もちろん」
新しい時間が始まる。限られた半年の中で、ふたりはどんな関係になっていくのだろうか。
放課後の空は澄み渡り、雨上がりの匂いが優しく風に混ざっていた。
屋上への階段を上がると、そこには玲奈がいた。まるで最初から待っていたかのように、フェンスにもたれて空を見上げている。
「またここに来るなんて、やっぱり先輩は律儀ですね」
玲奈が振り返り、微笑む。その無邪気な表情が、どこか穏やかで柔らかい。
「お前が呼んだから」
千尋はそっけなく言いながら、玲奈の隣に立った。二人の肩が触れそうで触れない距離に並ぶ。
「これからは、私たちの時間ですね」
玲奈がそっと千尋の手を取る。指先が絡む瞬間、千尋の鼓動が一瞬跳ねた。
「……そうだな」
短く答えながら、千尋は玲奈の手をぎゅっと握り返した。
ふたりの影が、雨上がりの屋上の床に寄り添うように映る。
以前と変わらないようでいて、確かに何かが違う。
玲奈が隣にいる、それが何よりも心を温めるものだと千尋は気づいていた。