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第13話(番外編)壮年期の名声、陰謀の胎動


享保年間の江戸、神田の賑わう町並み。佐久間宗太郎、32歳の壮年は、江戸の食文化を評する者として名を馳せ始めていた。浅草の焼き鳥屋「鳥吉」で筆を握り、最初の評を世に送り出してから12年。宗太郎の評は、深川の蕎麦、本所のうなぎ、佃の佃煮を江戸の名物に押し上げ、庶民の誇りを高めた。母・雪乃の遺した煮込みの味、深川の市場での幼少期、浅草での源蔵との出会いが、彼の舌と筆を支えていた。だが、松葉屋の藤蔵との対立が、息子・藤兵衛に受け継がれ、宗太郎の背後に暗い影を落としていた。


神田の蕎麦屋「藪蕎麦」は、商人や職人、旗本の家臣で賑わう名店だ。宗太郎は、腰に筆と紙を携え、藪蕎麦の暖簾をくぐった。店内は、蕎麦の香りと出汁の湯気が漂い、箸の音が響く。店主の辰蔵、後の柳川のうなぎ屋の主人だ。辰蔵は、40歳ほどの落ち着いた男で、蕎麦を打つ手つきに職人の魂が宿る。宗太郎はカウンターに腰を下ろし、辰蔵の動きを観察した。蕎麦粉をこねるリズム、包丁で切り揃える精度。それは、江戸の食の誇りだった。


「辰蔵殿、もり蕎麦を一枚。それと、鴨南蛮を一品頼む。」


辰蔵は無言で頷き、蕎麦を打ち始めた。宗太郎は、出汁の香りに鼻を動かし、市場での母との記憶を思い出した。客たちは、蕎麦を啜り、酒を酌み交わす。宗太郎は、江戸の活気に心を弾ませた。だが、藤蔵の息子・藤兵衛が松葉屋を継ぎ、宗太郎の評を妬む噂が耳に入っていた。藤兵衛は、父の屈辱を晴らすべく、宗太郎を陥れる策を練り始めていた。


やがて、もり蕎麦と鴨南蛮が運ばれてきた。もり蕎麦は、蕎麦の表面が滑らかで、つゆの香りが立ち上る。鴨南蛮は、鴨の脂が浮かぶ熱々の出汁に、蕎麦が泳ぐ。宗太郎はまずもり蕎麦を手に取り、つゆに軽く浸して啜った。


舌が喜んだ。蕎麦のコシと香りが、舌の上で弾け、つゆの鰹と醤油の旨味が調和する。宗太郎は目を閉じ、つぶやく。


「このもり蕎麦、神田の風そのものだ。蕎麦の香りが、庶民の汗を歌う。」


辰蔵は手を止め、宗太郎をじっと見た。客たちの視線も集まる。宗太郎は次に鴨南蛮を味わった。鴨の濃厚な脂が出汁に溶け、蕎麦の歯ごたえと絡む。葱の辛味が、味を締める。宗太郎は、辰蔵の技に感服していた。


「辰蔵殿、鴨南蛮は江戸の秋の暖かさだ。鴨の旨味が、蕎麦に命を吹き込む。」


辰蔵は微笑み、そっと言った。


「佐久間殿、俺の蕎麦をそう評してくれるなら、試作の一品を食ってみねえか?」


宗太郎は目を輝かせ、頷いた。辰蔵は奥から小さな椀を取り出し、蕎麦を昆布と干し椎茸の出汁で冷やした「冷やし出汁蕎麦」を差し出した。さらに、蕎麦の実を胡麻と味噌で和えた「蕎麦実の胡麻和え」を用意した。宗太郎は二つの創作料理を手に取り、じっと見つめた。


冷やし出汁蕎麦は、蕎麦が透き通った出汁に浮かび、刻み海苔が彩りを添える。蕎麦実の胡麻和えは、蕎麦実のプチッとした食感に、胡麻の香ばしさが絡む。宗太郎はまず冷やし出汁蕎麦を啜った。


舌が驚いた。昆布と干し椎茸の出汁が、蕎麦の香りを引き立て、冷やした清涼感が舌を洗う。海苔の磯の香りが、味を締める。宗太郎は目を閉じ、味の層を解剖した。この一品は、蕎麦の伝統に新たな風を吹き込む、辰蔵の創造だった。


「辰蔵殿、この冷やし出汁蕎麦、秋の川の清らかさだ。出汁の深みが、蕎麦に魂を与える。」


客たちがどよめき、辰蔵は目を輝かせた。宗太郎は次に蕎麦実の胡麻和えを味わった。蕎麦実の弾ける食感が、胡麻の香ばしさと味噌の甘みと調和する。宗太郎は「秋の実和え」と呼び、こう評した。


「蕎麦実の歯ごたえは、秋の畑の鼓動。胡麻と味噌は、庶民の知恵。この一品、神田の秋を和える。」


食事を終えた宗太郎は、店の隅で筆を取り、評を書き始めた。彼の文章は、蕎麦の素朴さと創作の奥深さを映し出す。




神田藪蕎麦の蕎麦、江戸の秋の風を啜りし一品。もり蕎麦は神田の汗を、鴨南蛮は秋の暖かさを宿す。冷やし出汁蕎麦は川の清らかさを閉じ込め、蕎麦実の胡麻和えは畑の鼓動を和える。この味、江戸の誇りなり。




その夜、宗太郎の評は版元を通じて刷られ、翌日には神田の茶屋や芝居小屋に広まった。藪蕎麦は客で溢れ、辰蔵は目を丸くした。冷やし出汁蕎麦は「神田の清流蕎麦」として、蕎麦実の胡麻和えは「秋の実肴」として、商人や職人の間で評判となった。宗太郎の筆は、蕎麦を江戸の秋の名物に押し上げ、彼の名はさらに広がった。






だが、宗太郎の名声は、藤兵衛の嫉妬を掻き立てていた。松葉屋を継いだ藤兵衛は、父・藤蔵の屈辱を晴らすべく、宗太郎を敵視していた。藤兵衛は、宗太郎の評が自分の店の客を奪うと確信し、浅草のならず者・弥蔵を雇った。藤兵衛は、薄暗い蔵で弥蔵に囁いた。


「佐久間宗太郎の筆、ちと厄介だ。奴の評が、松葉屋を霞ませる。偽の評を流し、奴の名を貶めな。」


弥蔵はにやりと笑い、頷いた。藤兵衛はさらに、川柳の平蔵と手を組み、宗太郎を陥れる策を練った。平蔵は、柳川のうなぎ屋が宗太郎の評で繁盛するのを妬み、藤兵衛の提案に乗り気だった。


数日後、宗太郎は、偽の評が神田に広まるのを耳にした。藪蕎麦を「出汁が薄く、蕎麦はコシがない」と貶める文章が、宗太郎の名で出回っていた。辰蔵は、宗太郎を訪ね、憤慨した。


「佐久間殿、お前の筆がこんな評を書くはずねえ! 誰がこんな真似を?」


宗太郎は偽の評を読み、藤兵衛の影を確信した。彼は、辰蔵を落ち着かせ、こう言った。


「辰蔵殿、こいつは俺の名を騙る策略だ。藪蕎麦の味は、俺の舌が知ってる。必ず真相を暴く。」


宗太郎は、版元の親方・庄兵衛に相談し、偽の評の出所を追った。庄兵衛は、弥蔵が偽の原稿を持ち込んだことを白状。宗太郎は、藤兵衛と平蔵の企みを確信し、偽の評を打ち消す新たな評を準備した。






その夜、宗太郎は神田の路地を歩きながら、背後に怪しい気配を感じた。振り返ると、弥蔵と平蔵の手下が尾行している。宗太郎は、浅草での藤蔵との対立を思い出し、警戒を強めた。彼は、路地裏に身を隠し、人混みに紛れた。そこに、源蔵が現れ、宗太郎を助けた。


「佐久間、危ねえとこだったぜ。奴ら、ただのならず者じゃねえ。誰かに雇われてる。」


宗太郎は、藤兵衛と平蔵の名前を挙げ、偽の評の策略を説明した。源蔵は拳を握り、憤慨した。


「そんな奴ら、許せねえ! 佐久間、お前の筆は俺たち庶民の誇りだ。俺も力になるぜ。」


宗太郎は、源蔵の忠義に感謝し、辰蔵と源蔵の支えを感じた。彼は、江戸の食文化を守る決意を新たにした。だが、藤兵衛の陰謀は、偽の評を超え、命を狙う暗殺に変わろうとしていた。






宿に戻った宗太郎は、筆を走らせた。彼は、藪蕎麦の味に感じた「江戸の秋」を記録し、辰蔵の創作を称賛する新たな評を準備した。だが、路地の闇の中、弥蔵と平蔵の手下は、宗太郎の宿を見張っていた。藤兵衛は、宗太郎の名声が止まらないことに苛立ち、暗殺の計画を立て始めた。


宗太郎は、筆を握り、次の店を思い描く。本所のうなぎ屋、佃の佃煮屋。そして、若い奉公人・太郎が、彼の弟子を志願する未来が待っていた。



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