成人男性を容易に吹き飛ばし、一撃で胴体の骨を砕く獣牙の拳は脅威以外の何物でもない。例えるならばそう……奴は人間ミサイルか自由自在に動き回るロケット砲だ。
強靭無比な肉体から繰り出される拳は音を置き去りにして敵を貫き、着弾と同時に炸裂する殺人拳。サードへ移行した状態でも見切れるかどうか怪しい拳。セカンドの状態で圧倒され、成す術も無く倒れた俺にどうこうできる相手じゃないのは分かっている。
「どうした? 来ないのか? なら俺から動くぜ?」
「……」フォースへ移行するまで耐え切るか、更に上のギアへシフトする準備をしなければならないだろう「……ッ!?」あれこれ考えている余裕なんて俺には無い。獣牙の放った拳を紙一重で躱し、拳圧だけで頬が切り裂かれる戦いなのだから。
「おぉ、この程度なら見切ってくれるのか? いや、見切りというより勘だな。それも戦士としての経験則。あのなぁ、もっと能力を引き出せよ。それじゃぁ直ぐに終わっちまうぜ?」
「……そうかよ!!」
拳を振り上げ地面に叩きつける。大理石の床に罅が走り、手と腕が滅茶苦茶に引き裂かれた。もう一撃、二撃と拳を叩き入れ、獣牙の足元を完全に破壊した俺は口笛を吹く男を睨む。
足場が崩れてはどうにもならないだろう。時間を巻き戻せる能力でもない限り、絶対に。両足を力み、聖女目掛けて突進した俺は「面白くねぇ戦い方なんざすんな。馬鹿にしてるのか? テメェは俺を」襟首を掴まれ、再び壁に叩きつけられた。
「テメェの相手は俺だぞ? 正々堂々殺してみろよ俺をよぉ」
「将を射んと欲すれば先ず馬を射よってか!?」
「軽口を叩く暇があんなら戦えや! このボケナスがぁ!!」
拳と拳を叩き合わせ、血に濡れながら奥歯を噛み締める。
「どうしたどうした! 俺の拳はこの程度じゃねぇぞ!?」
「ならもっと本気を出せよ!! 俺の身体も壊れちゃいねぇ!!」
嘘だ、衝撃波がスーツを吹き飛ばし、拳が交差する度に骨肉が悲鳴を上げている。叩きつけられる拳の殴打は爆撃機から放たれるミサイルの雨よりも重く、重機関銃も真っ青な暴力の嵐。拳をかち合わせる度に骨が砕け、血が吹き出る。
下級討魔官が獣牙との戦闘に突入すれば一秒も保たずに即死するだろう。拳を見切れずに身体が破裂し、血霧を残して吹き飛び消える。サード・ギアへ移行した状態でも獣牙の殺人拳を完全に見切れず、戦いの勘だけで凌ぐには無理がある。生温かい血の感触を確かめ、折れた歯を吐き捨てた俺はシフト・レバーを握る。
殺るか殺られるか……戦いは二つに一つの生死の選択だ。圧倒的な格上に殺されたとしても、こちらが弱かったと無理にでも納得しなければならない時がある。だが、そんな思考は己の持つ切り札を全て切った上での考え方。
サードまでのレバー操作は重い鎖に巻かれたような、無理に引き上げねば一寸たりとも動かない。ローからファーストへ、ファーストからセカンド、そしてサード……戦意と殺意で己を突き動かし、段階を踏んでようやく強化される肉体は槌で打たれる鋼のよう。
しかし、フォース・ギアは驚くほどにスッと嵌まり、肉体を巡る血を熱く滾らせる。既に準備段階の強化を終えていた身体は、フォース・ギアが齎す破滅的な強化段階に耐えうる強度へ至っているのだ。圧倒的な存在を蹂躙する力を、死の影を引きずりながら血を流す戦の鬼。獣牙の拳を殴り返し、初めて敵の血を視界に入れた俺は笑みを溢す。
「……なんだ、やっぱり、人間じゃねぇのかよ」
ドロリと濁った赤黒い血が獣牙の腕を伝い、奴の拳が花のように弾け飛ぶ。
「妖魔が人のように笑うんじゃねぇ、呪いが人間のように振る舞うなッ! 面ぁ見せてみろよ、どうせそのフードの下はロクでもない面があるんだろ? えぇ?」
「獣牙」
「剣鬼、まぁ少し待てよ。これから面白くなるんだからよ……面見せてみろだって? あぁ喜んで見せてやるよ。たまげるなよ? 斬魔」
黒フードを脱いだ獣牙の素顔は武骨な拳法家を思わせるものだった。荒々しくも端正な顔立ち……涼風と暴風という矛盾した雰囲気を醸し出す男は、剣を抜こうとする剣鬼を腕で制する。
「中々どうして……小僧、名前は?」
「……言う必要なんざ無い」
「そりゃねぇだろ? 面白い奴のこたぁ覚えておく質なんだよ、俺は。忘れないように、失わないように、俺は覚えておきたいんだ。強い戦士のことを。教えろよ小僧、テメエの名前をよ」
「……神代銀次。斬魔所属の上級討魔官だ。覚えておけよ? クソ妖魔が」
「神代銀次、オッケーありがとよ。じゃぁ……殺し合おうぜ? 斬魔ァあ!!」
フッと獣牙の姿が掻き消え、糸のように細い殺意が首筋を突く。その場で跳び上がり、宙返りをした俺は犬歯を剥き出しにして黒鉄の拳を構える獣牙を見据える。
獅子の脚を思わせる異形の逆関節と鋼鉄をも裂く獣の爪。一振りで大理石を真っ二つに斬り裂き、飛び散った石の破片を弾丸のように指先で弾いた獣牙へ俺は蹴りを放ち、頬を穿つ。
「ッ!!」
足先の爪が割れ、骨肉が弾けた。ダイヤモンド以上の硬度を持つ獣牙の頬の先にある牙が俺の足を噛み砕く。
「クソ不味いな、テメエの足は!!」
「そうかよ!!」
ギリギリと足首の強化を進め、獣牙の牙を蹴り抜き鮮血を散らす。
右足はもう駄目だ、使い物にならない。だが、まだ戦う術は残されている。腕があれば殴ることができる。左足があれば動くことができる。敵を殺すことができる。激痛に耐え、呼吸を浅くした俺は振り下ろされる獣牙の拳を殴り飛ばし、懐に潜り込むと心臓目掛けて手刀を構えた。
殺った―――。強大な妖魔であろうとも心臓を破壊されてはひとたまりも無いだろう。勝利を確信した矢先に「時間だ、獣牙」冷たい声が鼓膜に響く。
「―――?」
気がついた時には血を流しながら倒れていた。
「もう時間か? これからもっと楽しくなるのによ」
「遊びすぎだ馬鹿者め。殺すくらいならば全力を出せ、獣牙」
「別に殺すつもりは無かったんだけどなぁ、ほんの一割だぜ? 今の俺はよ」
「その一割が命取りになるというのだ。いいか? 貴様の問題点は」
「お遊戯に時間を掛けて、命を落とす。分かってるよ先代殿、前もそれで死んだもんな俺は。まぁ、その結果がこのザマだがな。おい斬魔……いや、神代。死ぬなよ? これからよ」
死ぬな? どういうことだ? 指先一つ動かせないまま獣牙と剣鬼を睨み、聖女へ視線を移す。
「……戦いは終わりましたか? 獣牙」
「終わったというよりも、終わらせられたと言った方が正しいですかねぇ。聖女殿の方は如何な程で?」
「祈りは大地に捧げられ、嘆きの涙が零れます。魔姫……斬魔の戦士の状態を教えてください」
「ズタズタの襤褸雑巾ね。まぁ、剣鬼に斬られても生きているのは驚異的だけれど」
「そうですか、ありがとうございます。貴女は先に転移門の解放を。私は斬魔の戦士を癒しますので」
「聖女様、それは」
「いいのです剣鬼。教団の敵であろうとも、彼も人の子。大地から生まれる命の一つ。故に私が救わねばならないのです。手を貸して頂けませんか? お願いします」
「……聖女様の御心のままに」
血が滴る剣を手に、聖女の手を引いて近寄った剣鬼は「命拾いしたな斬魔」と耳元で呟く。
「大丈夫ですか? お怪我は」
「……テメェが、聖女……教団の、トップか」
「酷い怪我……少々お待ちください。斬魔の戦士に効くかどうか分かりませんが、良い効き薬があります。それと、術を」
「殺してやるよ……少しでも俺に触れてみろ、その首叩き斬ってやる。だから」
「剣鬼、彼の怪我の位置を教えて下さい」
「……耳聞こえねぇのかッ⁉ 殺して」
「少し黙れ、斬魔」
鮮血に濡れた刃が首筋に当てられ、血の一滴が滴り落ちる。
「聖女様は少しばかり耳が遠いのだ。貴様がどれだけ喚こうが、呪詛を吐こうが、我が君には聞こえぬ。故に、貴様は聖女様の施しを黙って受け入れろ。頭を垂れて、慈悲に震えるがいい。理解したか? 斬魔」
少しでも動けば一切の躊躇も無しで殺す。超圧縮された殺意を刃に乗せ、聖女の肩に掌を乗せた剣鬼はそっと俺を指差し「胴体に五十の切り傷、そして四肢の複雑骨折、頭蓋の陥没。以上が斬魔の傷です」と冷たく言い放つ。
「ありがとうございます、剣鬼。獣牙、貴男は先に本部へ帰還して下さい。魔姫も」
「はいはい、用事が終わったら帰って来るのよ? それと……本当に生き残れたらいいわね。斬魔の坊や、また会える日を楽しみにしているわ」
「じゃぁな神代、今度はもうちっと強くなってろよ?」
黒い門に歩を進めた二体の妖魔を横目に、俺は聖女が発した光に包まれる。