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第12話


(…………?)


 ……気付くと、私の頭を真っ黒に塗り潰していた憎悪の不調和音は嘘のようにぴったりと止んでいた。


 恐る恐る、閉じ切っていた瞼を薄っすらと開けてみる。


(え……? ここ……どこ……?)


 直ぐに瞼が丸くなった。


 窓辺から差し込んだ温い陽光が家具一つないガランドゥの空間をセピア色に染めている。それは夕暮れ――薄暗かった視界はいつの間にか明瞭となり、柔らかな夕日が辺りを包み込んでいた。


 いきなりテレビのチャンネルを変えたかの如き現象を前に、まるで夢でも見ているかのような感覚に陥ってしまう。どうやら壁や床を見るに、同じ場所なのは間違いないのだが……。


 いいや、現に夢に近い何かなのだろう。


(……霊子さん?)


 だって――――私の目の前には霊子さんがいるのだから。


(と、誰だろう?)


 正面に見えるのは床に座らせられた状態の2人。


 一方は紛れもない霊子さんで、その一方は小学校低学年くらいの男の子だった。お互い腕を背面に回されたまま上半身をガムテープのような物でグルグル巻きにされていて、酷く怯えた様子で身を寄せ合っている。


(いったい何が……)


 私が唖然としている間にも、声は響く。


 ――どうやらあんた等の親父さんは、話を分かっていないらしい。


 ――お、お待ちください! 何かの間違いですわ!


 霊子さんが青ざめた様子で叫ぶ。その悲痛極まりない声の先は、なぜか私の背後へと向けられている。ひょっとして私が見えていないのだろうか……。


 違和感に振り向くと――2人の男が眼に映る。


(……どうなってるの?)


 壁際にて腕を組んだ男は、さながらドラマにでも出てきそうなチンピラの恰好をしている。そしてその片方、もう1人の男は、へたり込んでいる私の身体をすり抜け、そのまま霊子さん達の元へ歩み寄っていた。


 霊子さん達を隠すように、グレーの背広が丸みを帯びる。


 ――残念だよ。あんた等のどちらかを殺さなくちゃならない。


 ――そんなっ……! もう一度……もう一度父へ連絡を!


 ――諦めるんだね。恨むなら親父さんを恨むこった。


 そのやり取りを前に、私は理解した。


 過去。私は今、過去に此処で起きたであろう凄惨な事件の記憶を見ているのか。そんな自覚を持つと同時に、心臓を掴まれたような胸苦しさが込み上げてくる。初めて霊子さんと出会った時、彼女は既に幽霊で――すると思考せずとも答えは直結した。


(やめて! ねえ! ダメ……!)


 私は叫ぶ。手を伸ばす。だが届かない。掴めない。そもそも声が出ているかすらも怪しい。やがて私の声と手は届かぬまま、スーツの男は緩慢な動きで立ち上がった。


 ――俺は車を回してくる。やり方はお前の好きにしていいぞ。


 ――ヘイッ!


 ――手厚くやれ。


 スーツの男がこの場を後にすると、窓辺で腕を組んでいた男が2人へ詰め寄った。


 ――だとよ。お楽しみの時間だ。 


 ――殺すなら私を……! なんでも、なんでも仰ることを聞きますから!


 ――へぇ? じゃ、お前さんの出方次第でそのガキは生かしといてやろうか。


 懇願する霊子さんの声。見てられない。どうしようもない。何もできない。そんな無力感に打ちひしがれた私は眼を逸らし、この夢が、この幻が、1秒でも早く終わることを願うしかなかった。


 だから、目を閉じる。耳を塞ぐ。

 見たくない。聞きたくない。


 ――お嬢ちゃんは何もせず、ただ見てろ。それだけだ。


 ――お姉ちゃん! お姉ちゃん!


 ――ま、待って……何を……!?


 聞きたくない。それでも金具をカチャカチャと外す音が塞いだ耳を貫いて来る。


 見たくない。それでも、これから先の事が容易に想像できてしまう。


 ――へ、へへっ。一度ヤッてみたかったんだよ。このぐらいの年のガキと……。


 ――――――――――――――――瞬間。


 ガシャァッと、激しい音が塞いだ耳を強く打った。


(なに……? なんなの?)


 驚いた私は目を開ける。


 すると音の根源たる窓が破られ、その窓枠に男が寄り掛かっているのが見えた。その近くには床に腹を付けた状態の霊子さん。恐らく私を助けた時と同じように、全身をもって男を蹴り飛ばしたのだろう。


 男が下穿きを降ろし切っていたお陰でその体制は大きく崩れている。下賤な欲が却って霊子さん達に幸をもたらしたのだ。


 霊子さんは間髪入れずに力強く叫んだ――。


 ――アヤト! ガラス片を拾って逃げなさい!


 ――でも……でも……。


 ――いいから走れっ! 


 覚悟を決めた少年は器用にガラス片を拾い上げ、直ぐに部屋から走り去った。幸いにも扉は閉じ切っておらず、霊子さんはそれを見過ごさなかったらしい。


 しかし火に油。直ぐに体勢を整えた男は少年の後を追うべく、激高した様子で地を蹴り――詰まった。霊子さんが己の顎を使って男を制止させたのだ。


 ――は、放せこの野郎!


 ――はなふもんれふかっ!


 裾に深々と嚙みついた霊子さんは離れない。その様子は私の知っている彼女とは思えない程に泥臭く、痛ましく、頬に深いシワを寄せた姿はまるで獣の如き形相だった。


 ――放せオラッ!


 男は無慈悲にも霊子さんの顔を目掛け、踵を叩き込む。そのまま蹴る。蹴る。踏みつける。殴る。踏みつける――その度に彼女の華奢な頭蓋がタイルの床と衝突して鈍い音を響かせ、ついには床を浸食するような鮮血が流れ始めていた。


 ――死ね! 死ね! 死ねよ! くそがっ!


 ――ひんで……も、離しま……。


 纏まりの有った黒の艶髪はささくれたように乱れ、端正だった顔立ちは岩場の様に醜く変形してく。それでも、男の暴力は止まらない。霊子さんは噛み締めた顎を緩めない。


(もうやめて……!)


 私は両手で顔を覆いながらその場にしゃがみ込む。


 眼を背ける事しかできなかった。


 彼女がいったい何をしたというのか。こんな暴力を受けなければいけない理由なんて、絶対に無い。有って良い訳がない。理不尽と不条理を体現したような状況を前に、私はもう心がバラバラになりそうだった。


 それから――どれくらい彼女は蹴られ続けただろう。


 どれくらいの時間、彼女は顎の力を緩めないまま殴られ続けただろう。


 しばらくして、音が止んだ。


 聞こえてくるのは、肩を荒くした呼吸の音。


 ――くそ、くそ……。やべえ、やべえ……ドジった……殺される……。


 足音が遠退いて行き、室内には無音だけが残った。打ち破られた窓からの喧騒は遠く、風の音すら入ってこない。落ち行く夜の帳が全てを闇色へ変え、私のすすり泣く音だけが自身の鼓膜に伝わってくるだけだった。


 静かだ。とても静かだった。


 ――な……し……ませ……。


 最中、聞こえて来たのは確かな声。そよ風よりも脆弱なその音を拾い上げた私は、ハッと我に返り、彼女の元へすり寄った。その拍子に鮮血で染まった辺りに白粒のような欠片が疎らに落ちている事に気付く。


 歯だ。

 歯が全部グチャグチャに折れているんだ。


(あ、ああ…………そんな……こんなことって……)


 血濡れた少女の顔はもはや判別すらつかない。医学的な心得のない私でさえ、目前の少女が助からないことは火を見るよりも明らかだった。


 そんな酸鼻に満ちた光景を目下に、私は考える事を、感じる事を放棄し、全身には脱力だけが駆け巡っていく。私には声を届ける事も、独り死にゆく彼女に触れる事も出来ない。叶わない。


(霊子さん……。もう、いいんです……もう……)


 それでも――私は霊子さんの身体を抱き締めた。触れる事は出来ないけれど、未だ地を這おうとしている彼女の背に覆い被さるようにして上から包み込んだ。


 霊子さんは死ぬ。


 誰にも知られる事なく、ただ独りぼっちで死んでいったのだ。


(あんまりだ……あまりにも寂しすぎるよ……)


 涙が溢れ出てくる。とにかく悲しかった。

 とにかく不憫でならなかった。


 ――お母……父様……ア……ヤ……ト……。


 霊子さんを抱き締める。目前で起きた理不尽に憤慨する訳でも、陰惨な情景に眼を背ける訳でもなく、最期まで家族を想い続けて逝った若き命の灯を、私は胸に感じていたかった。


 彼女が最期に何を想ったのかを、私だけは知っていたかったんだ――。



――ワ……たし……ま……だ……。



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