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四皿目『霊子さんの怪』

第11話


 何処までも続く長い廊下。走れど先は見えず、ただ前方にある暗がりを目指して走り続ける。


 走る。走る。走る。

 体力が続く限り走り続ける。


 足が――痛い。

 息が苦しい。


 それでも走ることを止めてはならない。


 ――――ヒタリ。ヒタリ。


  常に後ろを纏わりつくような不気味な足音から逃げ続ける。

どうしてとか、なんでとか、考えた所で分からない。分かる訳もない。今はそうするしかないのだから――。


「オ―――――イ」 


 一定の抑揚を保った不気味な呼び声。逃げても、逃げても、その声が遠のくことはない。


 テノールで童謡を歌う様な声音は、いつまでも私を追って来るのだ――。


「も、もう無理イイィィイッ!」


 私は叫んだ。がむしゃらになって声を張り上げた。体力の無駄なのは分かっている。けれど、叫びでもしなければ今すぐ走ることを止めてしまいそうだった。


『叫んでいる余力があるのなら足を動かしなさい!』


 霊子さんからの叱咤激励が入る。そんな彼女は私の隣を滑空するように並走していた。当然の事ながら息が上がった様子も疲れた様子もない。幽霊が少しズルいと思った。


「……も、もう無理……無理……足が……」


 反し、私が限界を迎えるのは早かった。昨晩の体力がまだ回復してないとか、筋肉痛のせいで脚が痛いとか、今日は靴がローファーだからとか、色々な理由こそ有るが、アレに捕まったところで『死にはしない』といった慢心が私の足取りを緩やかにさせて行く。


(……でも、霊子さんは?)


 足取りが弱まっていく最中、そんな疑問が脳裏を過る。悪しき霊魂は、生者の生気とはまた別に、死者の魂を喰らう事でその力を増幅させ、生き永らえる事ができる。と、カミゾノさんが言っていた事を私は思い出していた。


 そう、霊と霊は互いを喰い合うのだと――。


 じゃあ……猶更、私が足を止めてしまえばいいじゃないか。


『七山ミコトさん?』


 完全に足取りを止めた私を見かねた霊子さんが尋ねてくる。


「……私に任せてください」


 踵を返した私は暗闇のずっと奥を睨みつけた。ヒタリ。ヒタリ。といった気配が段々と近付いてくるのを感じる。


 あんな事をされた手前、霊子さんの事を疎ましく思わない訳じゃない。しかし、霊子さんの事を完全に嫌いになる程、私はまだ彼女のことをよく知らない。それに誤解だって溶けていない。


 そう、私たちはまだ話し合っていないのだ。


 これまで誰かと話し合いすら出来ずに嫌われてきた私は、相手が幽霊であっても分かり合える事を信じたかった。何より、あの時に見せた彼女の弱々しい姿が、頭から離れなかったから――。


 覚悟を決めた私は背筋と声を張り上げた。


「カミゾノさんが戻ってくるまで……私が足止めしておきますっ……!」

『そうですか。ごきげんよう。立派な最期だったとお伝えしておきます』

「……へ」


 唖然とした私は振り返る。既に彼女の姿は暗闇の向こう側へと溶けていた。そりゃあ先に行けと行ったのは私だけども、正直モヤモヤする。


 ちょっとくらい労いの言葉とか躊躇いぐらい有っても罰は当たらなかっただろうに。


「……薄情な人」


 けど今は……私は気持ちを切り替えるべく、その場で溜息を吐いた。


 霊子さんには一つだけ誤算がある。それは私が必ず生きて帰るという事。どういう訳か、私は『怪異』の影響を受けない。本来ならば生気を吸いつくされて出涸らしになる所を、私はヌメヌメの不快感だけで済むのだ。昨晩に立証済みである。


 再び覚悟を決めた私は、暗闇の奥へと眼を細めた。


「……く、来るなら来んね……」 

「オ――――イ?」


 ヒタリ。ヒタリ。次第に大きくなる足音が刻一刻と迫って来る。どうやら逃げていない事を向こうは察したのか、その音はゆっくりとした足取りで向かってきた。正直とても怖い。今すぐ発狂して逃げ出したくなる所を、私はぐっと堪えながら奥歯を噛み締める。


 そして――――ついにその瞬間が訪れた。


「オ――イ」 


 ソイツは水面から顔を出す様に、暗闇の中からぬるりと現れる。異常に発達した両足。華奢な肩幅とは不釣り合いな大きい顔。その顔をフクロウのように左右へ揺らしながら私を覗き込んでいる。やはり間違いない。どういう訳か、昨晩捕まえたはずの『怨霊』が再び現れたのだ。


 カミゾノさんは確かに『怨霊』だと言っていた。だが『異世界の廊下』という『怪異』の名に相応しく、この何処までも続くような一直線の廊下はソイツの声と共に現れた。


 つまり――この幽霊は最初から『怪異』だったのか……?


「ケタケタケタケタケタ」


 その化け物は顔の端から端まで裂けたような口元を歪ませて不快に嗤う。今すぐ耳を塞ぎたくなる程の不愉快な笑い声が閉鎖的なコンクリートの壁に反響していく。


「あ…………いや……」


 ……やっぱり、怖いものは怖かった。先程のちっぽけな勇気は今や目前の異形の姿に圧倒され、潰えていた。脚の震えが止まらないし、眼には涙だって込み上げてくる。


「ア・ソ・ボ・ア・ソ・ボ」


 やばい。

 やばいやばいやばい。


 危険信号が明滅する。呪文のように頭の中で繰り返し唱え続けてきた『死にはしない』といった固い言葉も、『ひょっとして』と言う言葉が端を発して亀裂が生じ始めていた。


 昨晩は直ぐにカミゾノさんが助けてくれたから事なきを得た。けれど、今日は? 恐らく彼が戻って来て異変に気付いたとして、3時間は喫われ続ける事は想像に固くない。


 もし、もしも……。何の影響もない訳ではなく、ただ単に人より耐性が有るだけだとしたら?


「………ッ」


 一瞬にして血の気が引いていく。だが、逃げようにもすっかり委縮してしまった私の両端はその場で震える事しかできなかった。情けない。自分が情けない。


「アバァ――――」


 すると、私など一飲み出来そうな程に大口を開けたソイツから、鼻を摘みたくなる臭気の湯気を纏った舌が私へ伸びてくる。


 ――ヌルリ。ソフトクリームを舐めるような舌使いがネットリと私の脚、胴、脇腹を這って行く。


 まるで甘味を楽しむような、いいや、予め私の味を知っているかのような舌使いに鳥肌が止まらない。不快感極まりない舌を振り払おうにも、ただの人間である私にはその幽体を触れることさえ叶わなかった。不条理だ理不尽だ。


「い……や……いや…………」


 やがて長い舌が全身に巻き付いてくる。こんな事なら足止めするなんて言わなければ良かっ――――。


瞬間――――――――吹っ飛んだ。


 豪快な程に。

 信じられないほど唐突に。


 私は何かを感じる間も無く、ただそれを見ていた。


 突然として目前の化け物が蹴り飛ばされるのを、私は見ているだけだった。


『ッケ。胸糞悪いったらありゃしませんわ』


 先程まで化け物が立っていた私の正面には霊子さんが立っている。彼女が蹴り飛ばしたのだ。そのカモシカのような両脚を揃え、宙高く飛び上がったドロップキックで。


「霊子……さん? なんで……」

『ほら! 走る!』


 私を奮い立たせるようにして霊子さんは叫ぶ。すると直ぐに私の委縮しきっていた脚は動いた。と、同時――間髪入れずに後方から悲鳴のような金切り声が響いてくる。


「ギイィィイイ―――――――ッ!」


 数秒ほど全力で走った先で霊子さんがピタリと止まる。扉の前だった。急に止まるものだから転びそうになりながらも、私は体制を立て直して扉の前に立つ。


「ほら、このドアを開けてくださいませ!」


 ……扉。と言っても、これまで何十枚と通り過ぎて来たのと同じ形の扉。此処は『異世界の廊下』とやらの『怪異』が生み出した『幽場所』。どの扉も開くはずがない。しかし、目を凝らしてみると、薄っすらとした光が扉枠から零れ出しているのに気付く。


『ほら! 早く!』

「…………!」


 考えている暇はない。ドアノブを捻ると、いとも簡単にその扉は開いた――。


 間一髪――――部屋の中に入った私は直ぐに扉を閉める。


「オ――――――――イッ」


 ドンドンドンドンドンドンドンドンドン。


 扉を押さえた背中から激しい衝撃が伝わってくる。 


 ドンドンドンドンドン。激しい音と衝撃は――。


 ドンドン。と、次第に緩やかに、微弱になり――。


 ドン……。ドン。

 …………………。 


  ……止んだ。


「……居なくな……った?」


 音もない。衝撃もない。気配もない。となれば、私はその場でへたり込んでしまった。 


「はぁあぁ……怖かった……本当に怖かった……」


 深い溜息と共に張り詰めていた緊張感が抜け出てくる。状況が全く飲み込めないが、とりあえず助かったと見ていいだろう。


 私は部屋の中央で佇んだ霊子さんへ向けて、“一先ず”礼を述べる事にした。


「……その、ありがとうございました。戻って来てくれたんですよ……ね?」

『貴女が居なければドアが開けられなかっただけですわ。勘違いも甚だしい』


 照れ隠しにも聞こえる一方で、本当に扉が開けられなくて私を嫌々呼び戻しただけな気もする。どちらにしろ霊子さんのお陰で助かった事は事実だ。これ以上は何も言うまい。


『……にしても、よりによってこの部屋だなんて』

(この部屋?)


 呟くような彼女の声音を皮切りに、私は改めて室内を見渡した。存外、狭く感じる。与えられた私の部屋よりもずっと狭い。恐らく6畳も無いだろう。


 そんな狭く薄暗い空間にあるのは、書類が山積み重なった事務机が一つ。とても快適とは言い難そうな無骨なソファーにはブランケットが一枚掛かっていて、その正面のセンターテーブルには、片付けられていないカップ麺の容器やら水のペットボトルやらが所狭しといった状態で置かれていた。


「ひょっとして此処はカミゾノさんの……」


 言いかけながら、室内に転々と散らばった衣類で確信する。どれも白のシャツ。黒のスラックス。間違いなくカミゾノさんの部屋だと、立ち上がった私は背面の扉を見た。


「このお札……」


 そこには彼の部屋である事を裏付けるように見慣れたお札が張られていた。恐らくこのお札のお陰で、異界とはいえカミゾノさんの部屋に辿り着くことが出来たのだろう。それ故に、幽霊である霊子さんが扉を開けられなかった事もなんとなしに納得する。


「ひ、ひと先ずはこれで安心ですね。カミゾノさんのお札が貼ってあるなら、あのお化けも簡単には入ってこれないでしょうし……」


 意図せず口数が多くなってしまうのは恐怖心を紛らわせる為か、それとも霊子さんと私の間に流れる得も言われぬ微妙な空気のせいか……どちらかは分からない。でも、多分後者なんだと思う。先程から表情に陰りを見せた霊子さんの事が気掛かりだったのだ。


 すると霊子さんは暗澹とした様子のまま口を切った。


『いいえ、時間の問題ですわ』

「……え?」


 霊子さんを見る。やはりその表情は暗い。窓辺の、深々と降ろされたブラインドの隙間から零れる薄弱な逆光は、不自然にも霊子さんの顔に濃い影を落としていた。それが妙に暗すぎるのだ。まるで影が纏わりついているかのような……。


 やがて暗がりを纏うような霊子さんの唇から、漏れ出すような声が零れる。


『思い……出……しまシタの。ワタクシ、が……ナニ、を。何を恨んでイタのか……』


 影に覆われた顔は蠢くように私を見ていた。その表情は黒に塗れて分からない。それでも、どこか悲しげな表情をしている気がした。


『アア。きっと、罰が当たったノ……デすね』

「霊子……さん……?」


 もはやただの影へと成り果ててしまった彼女は答えない。何が起こっているのか私には全く理解できなかった。困惑と心配が思考を掻き混ぜて――ユラリ。影が動く。非常にゆっくりとした足取りで向かった先はソファーの上だった。だが、上というのも違和感がある。何故なら、その影はソファーの中央を突き抜けるようにして佇んでいるのだから。


『コ……コ…………シて……』


 壁の端に寄せられたソファーの中央で、漂う影は何かを呟いた。上手く聞き取れなかったが、「退かして」と、確かにそう聞こえた気がして、私はソファーに手を掛ける。


「え、と……ここを退かせばいいんですか……?」


 影は答えない。私はそのまま腕に力を籠める。フレームの細いソファーは非力な私でも簡単に動かすことができた。しばらく間そこに置かれたままだったのだろう。引き摺った木脚が床上に埃の軌道を作っていく――。


 そして完全に退かし切った直後――私は息を飲んだ。


「な、なな……」


 尻もちをつく。眼下に現れたモノを見た私は、驚きの余りその場で腰を抜かしてしまい、へたり込んだ姿勢のまま膝下だけを動かして距離を取るのに精一杯だった。


「こ、これ……これぇ……」


 ソファーの下にあったのは――小柄な人影だった。一見、カビが群がった大きなシミとも見て取れる床上のそれは、本来ならば白いはずの床を黒に近い褐色に染めている。だからこそ、それが何なのかを理解した私は、戦慄して腰を抜かしてしまったのだ。


 影の上で影が揺れ動く。


『ワ、たくシ……死――死、こ、コ、死死死』


 身体を燻らせ、壊れたラジオのように同じ言葉……いや、音を繰り返して。


 霊子さんは此処で殺害されたのだ。


 なぜ霊子さんがこれを私に見せたのか、そんな事は分からない。私は込み上げる怖気を抑えながら声を掛けるしかなかった。


「ど、どうしてこれを……」


 ビシャァ。バケツの水をひっくり返したような音と共に、霊子さんは影よりも濃い黒を吐き出した。返事の代わりと言わんばかりに、その吐瀉物は足元のシミに向かって吐き出され続けていく。


『ニ、ゲ……て』


 吐瀉の合間、途切れながら告げられた警告。だが……遅い。

立ち上がる間も無く、霊子さんだった影は私に覆い被さった――――ッ。


「……いっ……」


 瞬間、激しく噴火する火山の如き感情が私の中で爆発する。



 それは――憎悪――。


「いやああああぁぁぁぁぁぁあああ!」



 憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪。


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