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第10話


「お待たせいたしました」


 今日も今日とて客の待つテーブルへ料理を運ぶ。


 本日の日替わりランチは『生ハムのジェノベーゼ』。先程から漂うバジルと調和したニンニクの風味豊かな香りが、勤務中だというのに腹の虫を鳴り止ませない。


 時刻は14時38分。つい10分程前、ラストオーダーギリギリに来店された彼女等は本日3組目のお客様である。といっても私が働く一ヶ月の間では最多記録だったが。


「ごめんなさいね。ギリギリに来ちゃって」

「本当よぉ。貴女がどうしてもここがいいって言うんだから」

「そういえば以前来た時には見なかったけど……アルバイトさん?」

「あ、はい! 先月からこちらでお世話になってます」

「若い子がいるって良いわねぇ、何だか空気が明るくなったみたい」


 それから、少しだけ他愛のない会話が続いた。


 といっても、彼女らの話に時折相槌を打ちながら聞き手に回っただけなのだが、誰かから普通に話しかけて貰えるといった当たり前の事は、私にとって凄く新鮮なものだった。


 ほんの2,3分程度の何気ない些細なやり取りだったけれど、私にとっては自身の進歩を十二分に感じた瞬間だった。


 最近はほんのちょっぴりだけれど……自分に自信がついた気がする。これも、この”眼鏡“のおかげだろう。誰かと目を合わせて話す。そんな当たり前が私にとって一番嬉しいと思えた。


 因みにヴェルの姿はあれから一度も見ていない。それとなくカミゾノさんに尋ねてみるも「出張じゃね?」とだけ返された。どうして疑問形なのかはさておき、機会があればお礼を言いたいと思う。


「ごゆっくりどうぞ」


 私はいつもより弾んでしまった声を自覚しながら厨房へ戻った。


 時刻は14時46分――。まだ閉店まで少し時間があるというのに、早々に調理場を片付け終えたカミゾノさんは普段着に着替えていた。


「ディナーまでには戻る。客が帰ったら店を閉めといてくれ」

「へ?」

「昨晩は『怪異』を仕入れそこねたからな。そのツテを当たりに行くのさ」


 そう言うと、カミゾノさんは足早に店を後にしていく。


「昼飯そこに置いといたから」という言葉を残して――。


 見ると、調理台の上には『生ハムのジェノベーゼ』が一皿。湯気と共に厨房に漂う真新しいガーリックの香りが私の空腹を加速させ――ぐぅ。思わずお腹が鳴った。


 いやしかし、まだお客さんもいるし……。


 だが、冷めてしまっては最高においしい瞬間を逃して……。


(……まだ呼ばれない……かな)


 いともあっさりと天秤を傾けてしまった私は、そっとフォークを手に取った。温かい内に食べられたほうがパスタも本望というものだろう。お客さんに呼ばれたら直ぐに飲み込んでしまえばいいのだ。パスタもそう言っているに違いない。


 ……ごくり。と喉を鳴らし、徐に外した眼鏡を皿の近くに置く。

 そしてフォークの先端でスパゲッティを巻き取り――。


「――――んっ!」


 口に運んだ瞬間、美味しさが舌の上で弾けた。


 ガーリックとオリーブオイルの香ばしい風味が鼻腔を通り抜けると、瑞々しいジェノベーゼソースが追従するように心地よい刺激を運んでくる。


 口に運ぶ度に爽やかで芳ばしいソースが生ハムの塩気や食感と調和し、次いで松の実の独特な風味、バジルの爽やかな苦味、細かく削られたパルメジャーノ・レッジャーノの塩気、それらが混然一体となって舌の上で踊りだす。


 一口、もう一口と、フォークを握った手が止まらない……!


「……もう食べちゃった」


 あっ、という間に平らげた私は満腹感と満足感で幸せに包まれていた。ここ最近はカミゾノさんお手製の賄いを食べることが一種の楽しみというか、生き甲斐になっている。


 生き甲斐というのは少々大げさかもしないけど、それくらい美味しいのだから仕方がない。少々体重が増加してしまっているのはこの際考えないものとする。


「ふぅ。ごちそうさまでした」


 食べ終わったお皿をシンクへと置いたその折、


「すみませーん」と、先程の女性客の呼ぶ声がした。

「はい! ただいま!」


 条件反射のように声を返し、私が客の元へ向かおうとした瞬間――。


「え……眼鏡……? あれ?」


 先程の幸福感が一気に転落していくような感覚に陥った。近くに置いたはずの眼鏡が忽然と消えていたのだ――。


「え、どうして? なんで?」


 身体中から冷たい汗が滲み出てくる。

 無い。何処を見ても無い。


 調理台の下。コンロ。シンク付近。厨房のあらゆる場所を見渡してみても眼鏡は見当たらなかった。すると更に続く「すみませーん」の一声が、私の焦燥をよりいっそう駆り立てる。


 顔中が沸騰しそうな程熱い。足元がフワフワする。食べ終えたばかりの胃がキュゥっとなって、気持ち悪い――。


 ―――――怖い。怖い怖い怖い怖い怖い。


(大丈夫……大丈夫……きっと大丈夫)


 私は自身の頭髪を掻き混ぜた。無造作に伸びた前髪で顔を覆いかくしながらも、胸中では自身の心を落ち着かせることに徹していた。


 大丈夫。死神やお化けに比べれば生きた人間なんてどうってことない。目を合わせなければいい。簡単なことじゃないか。


 これまで通り、今までがそうだったように、下を向いていればいいんだ。


 覚悟を決めた私は深呼吸を挟み、客の元へ急いだ。


「お、お、お待たせ、しました!」


 声が上擦ってしまった。

 喉に余計な力だって入ってしまう。


 そのまま目を合わせぬよう、私は視線を少し下げたまま応対する。後は会計伝票を渡して、料金を頂いて、お釣りが有るなら渡して、お客様を帰るのを出入口まで見送って……それだけ。たった3つ、4つの行程だけなのだ。


 幸いにも女性客等が私の異変に気付く様子はまだ無い。


 2人の女性客は財布を取り出しながら、次は何処に行こうだとか、あそこの店も美味しかったとか、ありふれた雑談に興じている。このままスムーズに行けば、不自然に下を向き続ける店員の私など気にも留めないまま満足して帰っていくことだろう。


 だがそれも……当然のことながら長くは続かなかった。


「あら、どうかした?」


 ふくよかな女性が尋ねた。それは会計を終え、2人を見送ろうと私が外へ出た時だった。


 ――大丈夫。自分に暗示を掛けるかのように心の中で繰り返し、一息置いて答える。


「あ、ああー……すみません。す、す、少し目にゴミが入りまして」


 私の眼を見た人は嫌悪感を覚える。それはけして私の眼の色が醜悪だからといった理不尽な理由ではなく、私を取り巻く『怪異』とやらが私の眼を返して相手へ伝わることで、相手は本能的に恐怖心を感じてしまうのだ。


 猶更眼を合わせる訳にはいかない。


「大変! 早く洗い流したほうがいいわ。眼は大事よ」

「え、ええ……ありがとうございます」


 幸か不幸か、女性客達は納得したようだった。それ以上尋ねてくる事はなかったし、甲斐甲斐しくゴミの入った眼を見せて、と言うこともない。だから後少し。少しなんだ。


 後は――一礼して見送るだけ――――。



『――あら? この眼鏡はミコトさんのではなくって?』


 ――――――――え?


 声。可憐でいて、何処か儚げな声。そして2人の女性客には届いていないであろうその声は――私の視線を不意に上げさせた。


 一体どこに、なぜ霊子さんが? 

 そんな事を考える前に顔を上げてしまったのだ。


「――――」


 目が合った。


 それも一瞬。ふと、街中で知らない誰かと目が合ってしまい、直ぐに目を逸らした時のような――それくらい一瞬だった。その最中、刹那に見えた女性客達の表情は、強張っていた気がするし、引き攣っていたような気もした。


 私は誤魔化すように声を張り上げ、勢いよく頭を下げる。


「あ、ああ、ありがとうございました!」


 見られてしまった。

 間違いなく。確実に。


 私は深く腰を曲げたまま頭を下げ続ける。今はただ、忙しく人が行き交うオフィス街の中へ彼女らが1秒でも早く埋没していくのを、自身の震える膝元を見つめながら願うことしかできない。


 しかし――。


「――嫌ねぇ。せっかく良い気分だったのに」


 ガヤガヤとした雑踏の中、間違いなく聞こえて来たその言葉は、グチャグチャだった私の感情を真っ白にさせた。そして空白になった私の頭の中に、今度は自身に対する悔しさが嫌悪感となって涌き立ち始める。


 美味しいご飯を食べて満足して帰る――ただ、それだけの事だった。しかし私と目を合わせてしまったが為に、2人の楽しかった一時は嫌な思い出へと上書きされてしまったのだ。


 私の責任だ。

 私が目を合わせなければ良かっただけの話なのだ。


 働き始めて4週間が経った今、眼鏡を返す事で人は私の眼を見ても普通に対応してくれるようになっていた。そしてその普通の事こそが、人前とは言わず、誰かが居る同じ空間で眼鏡を外してしまう油断へと繋がってしまったのだと思う。


 せっかく――私だってお話できた事が楽しかったのに。当たり前に接客できている事が凄く嬉しかったのに。


 あの時、あの瞬間、嫌なモノを見たと言わんばかりに表情を引き攣らせたあの顔を思い出すと、とても恨めしいと感じる自身の眼から……涙が溢れ出した。


 そうだ、普通という日々を知ってしまったが故に忘れていたのだ。人から理由も無く嫌悪されるのが、こんなにも苦しい事だったなんて。


【CLAUSE】


 店の表に掛かったサインボードを裏返して中へ戻る。

 忌々しくも涙が溢れ出る眼を押さえながら――。



 ◇



『なんてツラですの? これじゃ、どっちが幽霊だか分かりませんわね』


 霊子さんが声を掛けてきたのは私が室内に入って直ぐの事だった。まるで私が外から戻ってくるのを待っていたかのように、ホールの真ん中で腕を組んだ彼女は仁王立ちのまま呆れたような表情をしていた。


『そんなことより、コレ。落としては不味いんでなくって?』


 そう言って彼女が差し出した手には、厨房で無くしたはずの私の眼鏡があった。あれだけ探したのに、一体どこで見落としていたのか……。


「す、すみません……ありがとうございま……」


 差し出された眼鏡を受け取ろうとした瞬間、私の手は空を切る。

理解するのは簡単だった。何故なら、霊子さんが眼鏡を持ったまま手を上にあげているからだ。


『ふふっ。ほんと、貴女ったら眼鏡がないとオブスですわね』


 霊子さんは意地の悪い笑みを浮かべている。今はそんな冗談に付き合える程の心の余裕が無い。そもそも彼女はなぜ日中に起きているのか。日中は疲れるからと言った理由で姿を見せるのは決まって夕方からのはず。


 私が考えている内にも霊子さんは口を切る。


『カミゾノ様も仰られていましたわ。眼鏡を外したアイツは見れたものじゃないって』

「い、いい加減にしてください! なんなんですか!」

『あら、本当の事ですわよ?』


 霊子さんは動じない。小馬鹿にしたような態度で口元を押さえてクスリと笑う。


『ヴェル様からの提案じゃなければ、とっくにクビにしてるともね』


 嘘――嘘だ。だがその言葉を完全に否定できる程、私はまだカミゾノさんのことをよく知らない。付き合いの長いであろう霊子さんの方が彼の本心に近いのだろう。


 でも今は、昨晩の「助かった」という彼の言葉が、かろうじて私の心を否定へと傾かせる。


「そ、そんなわけ……ないです」

『そんな訳ありますのよ』


 絞り出すような私の声を直ぐに否定して、


『昨晩の仕入れでは散々足を引っ張られたとか。それに、常にビクビクした態度も一向に治る気配がない。先程のお客様対応なんて目も当てられません』


 彼女は依然として悪びれた様子もなく、まるで世間話をするように軽い口調で言う。


 私は込み上げてくる涙を抑えながら、震える声で問う事しかできなかった。


「……どうしてそんな酷いことをするんですか」

『どうして? ふふっ。どうしてですって?』


 霊子さんがゆっくりと近付いてくる。その瞳は怪しく光っているように見えて、本能的に危険を感じた私はジリジリと後退った。だが、すぐに壁際へと追い込まれ――ゴンッ。と、鈍い音を立てて後頭部と背中をぶつけてしまう。


 逃げ場を失った私を見て、霊子さんは幽霊らしい、薄気味悪い笑みを浮かべて言った。


『貴女を見てると、何だか凄くむしゃくしゃするんですの』

 無感情に、無機質に。

 冷淡に吐き出されたその言葉は――私の心を貫く。


 消えろ。失せろ。居なくなれ。散々浴びせられて来た罵詈雑言の記憶が連れて来たのは涙ではなく――――吐き気にも近い最悪の感覚。自分を否定されるのは慣れているはずだったのに、それでも昨晩の「助かった」という温かみが、一度知ってしまった普通という温もりが、私を更なる底へと叩き落としていた。


 こんなことなら――――普通なんて知らない方がよかった。


『なーんて。おほほッ。冗談ですわよ。ジョーダン』

「…………」

『ほら、お返ししますわ。よっぽど大事なものなのでしょう?』


 俯いた視線の先に霊子さんのか細い腕が伸びてくる。私は差し出された眼鏡へ手を伸ばした。霊子さんの手をするりと私の指先が通り抜け、その眼鏡を掴む。


 すると……なんだか涙が……。


『ふん、たかが眼鏡くらいで大袈裟な』


 霊子さんは少しだけ声を上擦らせていた。彼女にとっては“たかが”眼鏡であっても、私にとっては掛け替えのない物。


 ただ――普通で有りたかった。この眼鏡はそんな私の、普通へと通じる唯一の通行券である事を彼女は知らない。知らないからこそ、彼女はまた毒付くのだ。


『ふんっ……。良いですわよね、貴女は泣けて』

「……?」

『あーあ。ほんと、良いですわよね。貴女はカミゾノ様のご飯が食べれて』


 怒っているような、ともすれば嘆くような。そんな投げやりな物言い。その声は、なんだか震えている様な気がして……。


『ほんと、ムカつ……く……?』


 ふと、霊子さんの語調が不自然に弱まっていく。違和感を覚えた私が視線を上げると、霊子さんの瞳が丸みを帯び始めていた。


 そのすっかりと丸くなった目の焦点は、私ではなく私の背後へと向けられている。


 なんだか既視感のあるやり取りに、私は背筋に冷たいものを感じてしまった。


 こういう時、決まって私の後ろには誰かが立っている。

 それは二つに一つ。幽霊か、カミゾノさんだ。


 だから、ゆっくり振り返り――――。



「…………えっ」


 結論から言うと、私の後ろには誰も立っていなかった。そもそも霊子さんが私の肩越しへ目を向けている時点で、おかしかったのだ。


だって。

だって、私の直ぐ後ろは壁だったのだから――。


「……うそ……なんで……」


 そこには――何処までも続くような長い廊下が私の目前に現れていた――。


 もう一度振り返ると、先程までホールだった場所も同じように廊下と化している。困惑や混乱。はたまた慄然といった感情のまま私は立ち竦んでいた。


 この光景を知っている。


 だが、昨晩嫌と言うほど走り回った学校の廊下と比べ、私達を取り囲んだこの光景は、紛れもない既視感があった。暗闇の先まで続く薄汚れたコンクリートの壁。そして、その両端に並ぶのは見慣れた木製の扉。


 それはまさしく、住居にもなっているモルテ2階の廊下をそのまま此処に落とし込んだような光景……。


『こ、これは……『幽場所』……? なにが起こったんですの?』


 霊子さんが狼煙のような声を上げる。その表情は恐怖というよりかは、混乱に近い形で歪んでいた。気が付けば突然知らない場所が目前に現れたのだから無理もない。


 反し、私はこの場所……いや、この現象を覚えている。そして廊下の輪郭を飲み込んだ暗闇の先――ヒタリ。ヒタリ。と微かに聞こえてくる気配の正体を私は知っている。


 理解しているからこそ、私は声を荒らげた!


「走って――――――ッ!」


 オ――――イ


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