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第9話


 ◇――それから話は数時間後に戻る。


「ハズレだ」


 クーラーボックスに腰を落としたカミゾノさんは、煙草に火をつけながら言った。


 ハズレ。

 なんとも意味深な言葉に私は首を傾げる。


「ハズレって……どういう事ですか?」

「本来なら無力化した時点で元の場所に戻れるはずだが……そうならない」


 どこまでも続く長い廊下。走れど先は見えず、同じ形をした窓や扉が暗闇の降りるずっと向こうまで続く光景。


 異世界、異次元、異空間、呼び方は色々有るかもしれないが、本来存在しないはずの4階は変わらず私たちの目の前に広がっていた。


「つ、つまり……どういうことですか?」

「この幽場所(カクリバショ)を創った奴はコイツじゃないって事だ」


 幽場所――知らない単語である。それが何を意味するかなんて、初仕事でド素人の私が知る由もない。そもそも此処がどういう場所かすらも分かってない訳で……。


 そんなことを考えている内に私を見たカミゾノさんが嘆息する。


「……いい機会だから教えといてやる」


 どうやら唖然とした脳内が表情にまで出ていたらしい。急に恥ずかしくなった私は表情を引き締めながら、次の言葉を待った。


「俺達が生きるこの世界には、主に3つの次元が存在する。俺たちが生きるこの世。死者達が行き付くあの世。そして、霊や妖怪が住まう幽世(かくりよ)。中でも幽世はこの世と表裏一体の世界で、あの世とこの世の狭間の世界とも言われている」


 この世といった言葉は言わずもがな。あの世という言葉も平たく言えば天国や地獄といった世界なのだと想像が付く。


 だが……幽世……?

 無意識の内に口が開き始める。


「例えるのなら、俺たちが常日頃から認識している全てのモノにはラップみたいな膜が張られている状態で、幽世ってのは、そのラップが無い剥き出しの世界みたいなものだ」


 何となくのニュアンスは伝わって来た。

 口で説明しろと言われれば難しいが。


 カミゾノさんは紫煙を吐き出しながら頷く。


「そして、ある程度の力を持った幽霊は、ラップ越しであっても現実世界の物へ触れる事が可能な訳だ。霊子が良い例だろう。あいつは物理的に皿を運んでいるんじゃなく、皿の幽体を掴んで運んでいるのさ。もっとも、幽世で形を持つには数年の時を要するから、新品の皿を持つことは出来ないがな」


 少し……分かった気がする。と同時に、霊子さんを含めた幽霊達がなぜ物や人を掴めるのかも理解できた。触れられているのではなく、障られていると言う事なんだろう。


「で、」っと、カミゾノさんは続ける。


「『幽場所』ってのは、強力な霊が幽世を弄って独自に造り上げた部屋をイメージしてくれ。怖い話のお約束パターンに有るだろ、気付いたら人気のない場所に居たり、突然ドアや扉が開かなくなったりするやつ。それこそ奴らの『幽場所』に入った証拠だ。奴らは現世の存在に対し2割程度の干渉しか出来ないが、『幽場所』や『幽世』に誘い込む事でほぼ10割の干渉が可能になる。『幽世』に迷い込むのは偶然だが、『幽場所』は必然と言っていい。誘い込む人間を選べるからな」


「なるほど……今の現象が正にその状態って事ですね」


 カミゾノさんの口から豪快に吐き出された紫煙が無風の中を揺れ動いている。もちろん校内は全面禁煙のはずだが……それが異空間にまで適応されるかは定かじゃない。


「ところが、だ。『幽場所』を創り出したはずの本体を無力化しても廊下は消えない」


 ふぅ。と吐き出した煙が踊るように天井へと伸びていく。そして彼は立ち上がるついでに吸い殻を踏み消すと、足元のクーラーボックスを軽く蹴った。普段感情の起伏が少ないカミゾノさんとは言え、その様子はどことなく不機嫌に見える。


「てっきり『怪異』だと踏んで依頼を受けたが……当てが外れたぜ」


 ――怪異。即ち、『クネクネ』や『花子さん』といった、固有名詞のついた心霊現象のことを差している。元々はただの『幽霊』だったのが、人の噂が加わる事によってより強い個体になったというべきか。


 そしてもう一つ関連して思い出したのは、人の念は時として伝説や伝承を実体化させるという事。それらの噂やマユツバを信じ、恐怖する人が多ければ多いほど都市伝説や怪談等といった『怪異』として人々の前に現れるという。


 と言っても近年では『口裂け女』や『人面犬』『メリーさん』と言ったビッグネームも数を減らしているのだとか。まぁ、私ですらその辺は半信半疑なので、数を減らしているのも納得である。


「じゃ、じゃあ此処は……?」

「ただの幽世だ。いうなれば俺たちは神隠し状態ってやつだな」

「神隠しッ……!?」

「ただ此処は人の噂が創り出した空間なだけあって害はない。噂話として何十年もこの学校に在り続けては居たが、今までそれらしい被害者が居なかった事が証拠だろう。それでもってこの霊は、最近ここに住みだした不法入居者ってところだな」


 何となくカミゾノさんの声には疲れが見えた。此処は単なる場所。おそらく中身の入っていない空の卵なんだと思う。だからこそ彼の疲弊や苛立ちが、焦りによるものだと私は理解していた。理解しているが故に、私は不安げな気持ちに駆られていた。 


「金曜は明日……ですよね?」

「……ああ」


 彼の怪訝な相槌が真夜中の……異界の校舎へ溶けていく。金曜日の夜――即ち死神らが集うディナーの営業日である。だが、現時点でメインディッシュに成りえる『怪異』が未だ捕らえきれていないのだ。


「……大丈夫……なんですか? てか、用意できていない場合どうなるんですか?」

「七山さんが心配することじゃない」


 カミゾノさんは冷淡に吐き捨てる。たかだが働き始めて4週間目の私が心配するような事じゃないのは理解しているつもりだった。それでも一応、現場に立つ人間として不安が無い訳じゃないのに……そう言われてしまえば返せる言葉もない。



「……まぁ、ほかのツテを当たってみるさ。帰るぞ」

「かえ? 帰れるんですか?」


 クーラーボックスを手に取ったカミゾノさんは踵を徐に歩を進め始めた。その足取りは、未だ宙へ色濃く漂う紫煙の軌道に沿っている。


 そのまま彼のコツコツとした革靴の音にしばらくついていくと、ピタリと音が止む。


 顔を上げると、視線の先にはどれとも変わらぬ引き違いの扉が一枚。上部に位置した四角窓の先は、やはりどの扉とも同じように真っ黒な色だけが顔を覗かせていた。しかし煙だけが引き違い扉中央の隙間まで伸びている……。


 扉に手をかけたカミゾノさんは口を切った。


「こういった仕事をしていると、堂々巡りの迷い道や異界に異空間、そういった類の幽世には必ずと言っていいほど遭遇することになる。そういう時はタバコを吸うといい。煙が出口まで案内してくれる」


 ガラッと、扉が空いた先には廊下が見えた。一瞬、また同じ場所かと身構えたが、窓辺から差し込む人工的な明かりが、戻ってきた事を私に自覚させる。


「本当だ……。どういう仕組みなんですか?」

「知らん。おばあちゃんの知恵袋的なもんだ」

「……身も蓋もない」




 ◇




『おかえりなさいませ! カミゾノ様……』


 時刻は1時32分。モルテへ戻るなり、歓声にも近い黄色い声が私を出迎えた。と思いきや、声の主は私だと気付くや否や満開だった表情を毒づいた顔へと変貌させる。


『って、七山ミコトさんですの。生きてらっしゃったのですね』

「あ……た、ただいま戻りました」

『てっきりその辺の馬の骨の餌にでもなってるかと思ってましたが、クソ残念ですわ』


 ツンとした態度でそっぽを向き、霊子さんは何事もなかったかのように店内の床掃除を再開させる。仕事中は割と普通に接してくれるのだが、それ以外は大体こんな感じなのだ。


 そのぶっきら棒な態度が変わる気配は……まだ遠そうだ。


 けれど、幽霊とはいえ悪い人じゃないとは思う。その不愛想な態度も生きていた時代が時代だからと言われれば、なんとなく納得できる。


 だって私に接客のいろはを教えてくれたのは霊子さんだったし、最初のころの「見て覚えろ」と言う彼女の新人研修も、如何にも時代錯誤な言葉だと今になれば思う。


『ほら、掃除の邪魔ですわ』

「あ……すみません」

『まったく、とろいんだから』


 霊子さんは掃除を続けている。私の目線から見たその姿は多少ぼやけているとは言え、もし見えない人が現状を見たら箒が勝手に動いているのかな。って、一応にも同じ職場で働く同性として仲良くしたい気持ちもあるが、生きている私と幽霊では埋まらない溝がある……のだろう。


『カミゾノ様ぁっ! おかえりなさいませ!』

「降りろ、肩が重たくなんだろうが」


 今度はカミゾノさんを見るなり、霊子さんは懐いた猫のように飛びかかっていた。大柄な体躯に纏わり付く小柄な死者は一歩間違えれば取り憑いているようにも見える。


 なぜ彼は幽霊からそんなに慕われているのか、私は二人の過去を知らない。言うなれば私は二人の間に突如として現れた異物に過ぎないのだ。


 ……少し疎外感を覚えてしまう。


 なんだろう。まだ仲間として認められていないというか、そう思ってしまうのは肉体疲労と心労が伴う眠気のせいかもしれない。割かし規則正しい生活を送っていた私に、日付を跨いでの仕事は少々堪えたようだ。


 そう思う事にしておこう。


「七山さん」

 ふと、カミゾノさんが私を呼ぶ。その手にはタッパー。


「こいつを『霊蔵庫』に仕舞っておいてくれ。終わったらそのまま休んでいい」

「……分かりました」


 受け取ると、彼の背に張り付いていた霊子さんが甘えた声を出す。


『ねぇカミゾノ様。よろしければ今回の除霊のお話をお聞きしたいですわ』

「依頼主への報告書を作り終えたらな」

『お待ちしております』


 と、霊子さんは脇目も降らず、私に向けてシッシッと手を払う。お邪魔虫は早々にご退散願いたい。そういうことだろう。


(……はいはい)


 私は胸中で嘆息しながら厨房へと回った。


 清潔感といった言葉を銀色で体現したかのように磨かれたコンロやシンクには汚れ一つ見当たらない。さながら映画のセットかと思うくらい整ったキッチンには、料理用品類のほぼ全てにお札が貼られている。


 一応、昼用と金曜の夜用で料理器具は分けられてはいるから……その辺の心理的な衛生管理も完璧なのである。たぶん。


「相変わらず壮大というか禍々しいというか……馬鹿馬鹿しいというか……」


 ふわぁ――と、人目がないのを良い事に、私は大口を開けながら呟いた。


 深夜によって鈍くなった頭が思い出すのは、やはり今日のこと。


 初めての仕入れ作業。死ぬほど怖い目にあったけれど、終わってみれば手元にあるタッパーサイズのように呆気ないものに感じた。


 そのまま目を凝らしてみると、泥水のようなナニカが曇ったプラスチックの容器越しに揺れている。どういう原理で閉じ込められているのか考えたところで分かる気もしない。


(まぁ幽霊に骨は無いだろうし、入れようと思えば入れれるのかな……?)


 なんて、特段どうでもいい事を考えながら『霊蔵庫』の取手を握る。その見た目は私の背丈よりも大きい業務用の冷蔵庫なのだが、張り巡らされたお札で直ぐに分った。


 すぅ、と吸い込んだ息を止める。


「…………」


 心を無にしながら開けると、「ゴオオ」とか、「ウゥ」とか、たぶん聴こえちゃいけない系の声が冷気と共に漂って来た。ついでに言うと眠気なんてとっくにぶっ飛んだ。


 私はなるべく気にしないよう、サッと空いたスペースにタッパーを入れ、


『タ、スケ――テ』『シ、ネ、シネシネ』『コロし殺す、やる』

『ミ、コ、トオォォオ』

『ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア』『ウゥウウゥ、ウ、ウウ』


 無数の黒い手や顔がジワジワ伸びて来たので、さっさと扉を締める。霊蔵庫を開けるのは二回目だった。改めて食材となる霊魂達の活きの良さには驚くし、慣れそうにない。


 そもそも死んでいるのだから活きとか関係ない気がするけども、怖いものは怖い。おかげ様でまだ寒いし鳥肌が立ってる。コンセントが入っていないとは言えあの冷え様は普通にホラーだと思う。いや、そもそも根本がホラーなのだが……。


「はぁ……怖……」


 私が嘆息を零したその時、


「……ふむ。ちとばかし『死霊』の在庫が心許ないな」

「ヒィヤァッ!?」


 もう、どうして毎回こうも心臓に悪い登場をするのか。直ぐに叫んでしまった事を恥ずかしく思いながら、私は首を横に向けた。


「も、もう……驚かさないでくださいよ……」

「勝手に驚くなよ」


 クッキリとした輪郭の横顔が元の首の位置に戻っていく。相変わらず何とも思ってなさそうな表情。その人を寄せ付けない鉄面皮も雰囲気も、4週間ほど一緒に仕事をしていれば慣れてくる。彼はそういう人なのだろう。


「勝手にって……普通は驚きますよ」

「そうか」


 カミゾノさんは私から目を逸らした。私はそんな彼の横顔を見ながら、小さく溜息をついていた。この人ってば何を考えているのだろうか。基本的に表情筋が動かないのだから仕方ない。


 私が憮然としていると――カミゾノさんが口を開く。


 何の脈絡も無く、急に、突然、藪から棒に。


「その、今日は助かった」

「え?」


 っと、思わず聞き返す。そんな私の困惑を無視して、カミゾノさんはキッチンを後にしていく。その様子は何事も無かったかの様に白々しいものだった。


 やがてコツコツとした彼の靴音が遠ざかると、ホールで椅子を引き摺る音へ繋がる。その間、私はカミゾノさんの発言をただ黙して考えていた。


 ――助かった。たったそれだけの言葉。

 今まで誰からも貰ったことのない言葉。


 つい照れ臭くなって、頬が勝手に緩んでしまう。


 少しだけ、ほんの少しだけ、カミゾノさんの事が分かった気が――。


その時――めりぃっと、何かが軋む音がした。


「ひぇっ……!?」


 次の瞬間、私は短い悲鳴を零していた。強烈な寒気が私の背中を刺したかと思えば、直ぐに悪寒の原因はキッチンの入口から送られた眼差しであることに気付いたのだ。


 壁が鳴動する程の禍々しい気配を纏ったその双黒は――霊子さんの物だった。


『ノ……ロ……ウ……呪ってやりますわぁ……』


 怨念に満ちた声音でそう呟いた彼女は、ニタリと口角を上げる。まるで子供が描いた絵のような、一見純粋だけれど、通常ではあり得ない口の曲がり方をした邪悪な笑み。


 可憐で見目麗しい形貌のせいで忘れていたが、彼女も『地縛霊』という立派な怪異なのだ!


 ――――刹那。


「うっさい」 


 その怪異はカミゾノさんのチョップによって直ぐに停止した。異変に気付いて様子を見に来たらしいカミゾノさんへ向け、霊子さんは何とも愛おしそうに自身の頭頂を押さえながら声のトーンを数段上げるのだ。


『んもぉう! ちょっとしたジョークですわ! ジョーク! 現実の見えていないコンチクショーをババちびらせてキャン言わせたろう思っただけですのよ!』

「いいから掃除に戻れ」

『……では七山さん、ごきげんよう』


 誤解を解く間もないまま、霊子さんはスカートの両端を軽く摘み上げ、足を交差させながら軽く会釈する。


 まるでお嬢様といった存在を絵に描いたような立ち振る舞いに、先程の身の毛立つような殺気はおろか、チンピラ言語の欠片も感じられなかった。


『………………………覚えてろよ。デスわ』


 ボソリと呟いて霊子さんはホールへ戻っていく。 


 最後のデスは、完全に”DEATH”のそれだった――。


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