三皿目『異界の廊下の怪』
「……ハッ……ハッ……! ハッ………………」
その夜――私は息せきを切りながら、夜の校舎を駆けていた。
ひたすらに、ただガムシャラに。いつまでも続くような長い長い渡り廊下を、全力で走っていた――。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だッ――――!」
廊下の両側に連なる扉や窓へ手を掛けるも微動だにしない。鍵が掛かっているにしても不自然な程に、それらは微塵も動く気配が無かった。
「……どうして、どうして開かないの……どうして……」
「――――――――――――い」
最中、微かな声が――闇夜に閉ざされた廊下の奥から響いてくる。
その声が聴こえた瞬間、私はまた一目散に声とは逆の方へ走り出した。
今すぐその場で蹲ってしまいたい。今すぐ気を失ってしまいたい。けれど、まるで内臓を掻き回す様な激しい心音と、逃げろと単一な命令を続ける私の脳内がそうさせてはくれなかった。
今は丈夫な意識と身体が忌々しい。
「ハッ……ハッ……ハッ……ハッ――――ッ!」
再び――何処までも続く渡り廊下を走り続ける。
勿論、この廊下が異常に長すぎる事はとっくに気付いている。
走り続けるしか選択肢が無い。
今は……今はとにかく、“アレ”から逃げなければ――――。
「オ――――イ」
一定の抑揚を保った不気味な呼び声。
何処まで逃げても追いかけて来る。
走っても走っても、常に私の背中へ届いてくる――。
「オ――――イ」
後悔、雑念、恐怖、それに走りっぱなしの肉体的疲労。
もうどれくらい走っただろうか、こんなにも走ったのはいつ以来か。
いよいよ私は……限界だった。
その時――――ヒタリ――――ヒタリ――――。
と――――今度は足音だった。
「ハッ――ハッ――ハッ――ハッ――――!」
こんなにも走っているのに――。
こんなにも自分の荒い息づかいと、足音しか聞こえないのに――――。
ヒタリヒタリヒタリ――。
まるで私の真後ろを付いて回るかのような足音が――。
ヒタリヒタリと私に付きまとい。ヒタ。ヒタヒタ。
ヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタ。
――追いつかれた。
“ソレ”は全力疾走する私を悠々と追い抜くと、まるで動画を一時停止したかのように数メートル先でピタリと止まり、ゆっくりと振り返った。
「痛ったぁっ……!」
私が急いで踵を返そうとするも、勢いを余してその場で転倒――。
ズレた眼鏡を急いで掛け直し、恐る恐る顔を上げる。
「…………ひっ」
その白い異形の存在は、満面の笑みで私の前に立っていた。
ヒタリ。ヒタリ。異常に発達した両足が固い廊下を仰々しく鳴らしている。
「オ――――――――イ?」
華奢な肩幅とは不釣り合いな、大きい顔。その顔をフクロウのように左右へ揺らしながら、ソイツは私を覗き込んでいた。まるで羽の無い鳥類。
そんな異形の姿を前に、怖いのに目が離せない。いや、その不自然な程に丸い二つの巨眼と、顔の端から端まで避けたような口元の笑みを見ていると、『早く楽にしてほしい』とさえ思える。
「――――――――ツ、カ、マ、エタ」
子供の様な――無邪気な声、それでいて何処か曇りの有る声だった。気付けば……枯れ枝の様に細い指が私の肩をガッチリ掴んでいる。
「い、や……やめて……いやっ……」
「アァ――バァ――」
ソイツは顔いっぱいに口を開かせ、私を食べようと――あ、食べられた。
「ひ、ひぃいいい……」
不自然にひんやりとした感覚が私の頭頂から胸元を覆う。何も見えない。それだけならまだいいが、何とも言えぬ滑りと湿気、私の上半身を前面に波打つように動く舌のせいで鳥肌が凄い事になってる。臭いが無いだけマシか……。
「……………」
ジュ。ジュゥ。ジュッ。と、まるで赤ん坊がおしゃぶりを咥えた時のような音が振動となって私の身体を駆巡り、連動するようにブニブニっとしたナニカが蠢く。こうなると恐怖感よりも不快感が凄い。
(……なんで私がこんな目に……)
――カミゾノさんの元で働くようになって4週間が経った。死神の接客と言う、全神経をくまなく使うような仕事内容はさて置き、まぁそれなりにウェイトレスの仕事は楽しく感じて来たし、やりがいのようなものも感じていた頃だった。
その矢先にこれだ。カミゾノさんの”裏“の業種は理解していたけど、まさか自分が幽霊に吸われる日が来るなんて思う訳ないじゃないか。というか幽霊って人を吸うのか。
思っていた矢先――――。
「――羅アッ!」
暗闇の中に力強く響いたのは、聞き覚えのある声。
まるで地獄に差した光の様な声が聞こえたかと思えば、刹那。
「―――――ブヴァァッ!?」
突然、凄い勢いで重力が反転して弾き飛ばされたッ!?
チュポンッ。と、景気の良い音と共に口元から吐き出された私は床へ叩きつけられる。そのまま粘液塗れのせいで、壁際へ滑る。滑る。滑る――壁にぶち当たって停止。
完全に厄日である。
「痛ったぁ……もぉ……最悪……」
二次被害を受けた頭部を押さえながら体勢を立て直すと、体勢を海老反りにさせたカミゾノさんが目前に映る。成程、そのままジャーマンスープレックスを仕掛けたらしい。
私は床に転がった眼鏡を掛け直し、ブリッジしたままの彼へ声を投げた。
「……痛かったんですけど」
「悪い」
そう言い、カミゾノさんはゆっくりと身体を起した。
ずらずらっと並ぶ窓から滲む朧気な外灯りが彼の大柄な輪郭を薄っすらと浮かび上がらせる。流す様に整えられた短い黒髪と、葬式帰りの様な黒色ネクタイに白いYシャツ。袖を捲った先に露呈した前腕は隆々としていて、服の上からでも分かるガタイの良さ。そんな彼は薄弱な青白い光の中、まるで死人のような顔色で私に問いかけた。
「初仕事から災難だったな」
「…………お風呂入りたいです」
「言ったろ。絶対捕まるなって」
「……………最悪、おえ……ネバネバしてる……」
「ともかく、普通なら翌朝不審死体コースだ。ヌメヌメで済むだけありがたく思え」
この人ってば本当……労いの言葉くらいないのだろうか。しかしまぁ、数分前まで昏倒していたカミゾノさんに比べて私には何の影響もないのだ。必ず一度は怪異の影響? を受けなければならない彼と比べればマシなのかもしれない。
故に、私はぼやくように呟いた。
「なんで……私は何ともないんだろ」
「体質だろ。世の中には信じられんくらい鈍感な奴もいるらしいし」
「なんか悪口言われてる気がするんですけど……」
カミゾノさんが私の呟きに相槌を挟んだ、その時。ガタンッ。ガタンッガタガタガタガタ――と、カミゾノさんの足元にあるクーラーボックスが激しく揺れ始めたかと思えば、中から籠った悲鳴が聞こえてくる。
一見、何の変哲もないクーラーボックスには幾つものお札が貼られていて、霊体を閉じ込める工夫が施されているんだとか……。
「除霊(仕入れ)って毎回こんな感じなんですか……?」
「場合に寄りけりだが、大体はこんな感じで泥臭くやってる」
「じゃあ他の霊媒師? さん達もこんな感じにプロレス技を?」
「な訳ねえだろ。俺の場合、触れられる。なら殴った方が早い。それだけだ」
「わぁ……身も蓋も無い」
◇――数時間前。
「ヤサイ・ニンニク・アブラカラメ」
「……………はい?」
ランチタイムに来店した壮年の男性からその呪文のような注文を聞いた時、私は白紙のオーダー票を手に握ったまま唖然と口を開ける事しかできなかった。私がこのお店で働き始めて丁度、4週間目の木曜日の事である。
もちろん、その呪文のような言語が某ラーメン屋さんで唱える事くらいは田舎者の私でも知っている。てっきり店を間違えたんじゃないかと思ったけれど、その事をカミゾノさんへ伝えた途端、疑問は直ぐに解消した。
即ちその場違いな呪文は、除霊の依頼だったのだと――。
「誰からの紹介だ?」
カミゾノさんはその壮年の正面に腰掛けるなり、何処か威圧的な声音で尋ねた。気怠そうに片方の腕を椅子の背もたれへ回した様子はとても客商売とは思えない態度である。
「天堂シゲコさんからです。うちじゃ無理だから貴方をと……」
「あの占い婆さんか……。あんたは?」
「申し遅れました。私、〇〇小学校の学校長を務めております、タムラと申します」
「その校長センセーがどういった用件だ?」
タムラと名乗った壮年は、平面な額をハンカチで拭いながら『怪異』の概要を語る。
「当校舎の夜間巡回を担当された警備員の方々や、当校の生徒たちの間で『4階に幽霊が出る』『夜の学校に来ると4階への階段が現れる』等と言った噂話が囁かれているのを小耳に挟みました。うちの学校はそもそも3階建てですが……如何せん、そういった噂話は学校と言う場では事欠かないので、職員を含めた私も気にしないようにしていたのです」
聞き耳を立てていた私はその内容に既知感を覚えていた。
(そういえば地元の学校にも有ったなぁ。目が動くベートーヴェンとか、勝手に動く人体模型とか、トイレの花子さんとか……)
七不思議ってやつだろう。
どの学校もそう言った噂話は共通らしい。
少し懐かしくなりながらも私は聞き耳を立て続ける。
「しかし……ある事件が起こったのは先週の事でした。夜間警備を担当された方が翌朝、校舎内にて変死状態で発見されたのです。警察の調べでは心不全として扱われ、事件性は無いと判断されたのですが…………」
……妙な間が降りる。
少し離れている私でも彼の顔が青ざめていくのが分かった。
タムラ校長はハンカチで汗を拭いつつ重い口を開く。
「亡くなった方の社用携帯に『この学校に四階なんてありましたっけ?』と、未送信のままのメッセージが残されていたのです。不幸にもその方が当校の夜間警備を務められたのは初めての事で、警察も心不全の痛みによる意識の混濁だと……。最初は私も偶然の事故だと思ったんです。ですが、改めて警察に四階の件を確認された事で、私もこの噂話がマユツバだとは思えなくて……」
……鳥肌が立った。いくら幽霊を乗せた皿を運んで死神様を接客してようが、こういった怖い話は苦手なのである。それは一緒に働いている人が幽霊であっても変わらない。
すっかり委縮してしまった私とは裏腹に、カミゾノさんはあっさりと答えた。
「分かった。今晩伺う」
「ありがとうございます!」
それからタムラ校長は何度も首を下げながら店を出て行った。夜間、カミゾノさんが度々どこかへ出かけていたのは知っていたが、初めて外部委託的な除霊依頼を目の当たりにした私は少し関心していた。まるで映画の世界みたいだ。
「じゃ。そういう事だから今晩よろしく」
「……え?」
――仕事に慣れたら俺の“仕入れ”も手伝って貰うから、そのつもりで頼む。
私が彼の元で働くと決まった時、確かそんなことを言われたのを思い出す。といってもこの4週間、接客の基本だとか、死神を接客する時の心得だとか、色々な事を覚えるのに必死ですっかり頭から抜け落ちていた。