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第7話


「――ミコトちゃんを宜しくお願いします」


 祖母が粛々と頭を下げている。対し、カミゾノさんも軽く首を下げると、私の待つ車の方へと踵を返した。


 私はそんな一連の様子を助手席の窓から眺めていた。両者とも何か余計な事を言って無ければいいけど……そう思いながら座席へと深く腰を沈める。


 革製の黒いシートに高い天井。車には詳しくないが、四駆というやつだろうか。何だか落ち着かない。


 ともなくして、カミゾノさんが運転席へ乗り込んだ。


「出発するぞ。忘れ物は無いな?」

「…………はい」


 エンジンの鈍い音が車体を小刻みに揺らし始めた頃、私は車の窓を開ける。そして身体ごと振り返りながら祖母を見た。いつも朗らかな祖母が、今は寂しそうに見える。


 そんな物悲しそうな祖母の顔を見ていると――いよいよ実感が湧いてきた。


 ああ、私……本当に家を出るんだな。って――――。


「お婆ちゃーん! 行ってきまーす!」


 車が走り出すと同時、私は大きな声で叫んでいた。


 窓から身を乗り出すようにして、大きく手を振っていた。


 それは自分の過ごした家が景色に溶けて分からなくなるまで、手を振る祖母の姿が小さく見えなくなるまで――手を振り続けた。


 私を乗せた車は、坂道を、畦道を、田んぼを、小川を、散歩の時とは段違いの速さで走り抜ける。いつも見慣れていたはずの景色が違うものに見えてしまうのは、車高が高いせいか、それとも私が浮足立っているせいか。


 少し寂しくなって……私は俯くように座席へと戻った。


「シートベルト」

「……あ、はい」

「出発後3分でもうホームシックか?」

「……そんなこと……ないです」


 既に家が恋しい訳じゃない。これが進学や就職が決まって田舎を出るという話ならば、前もって色々と準備(主に心)が出来ただろうけど、全てがいきなり過ぎたのだ。


 唖然とした気持ちや釈然としない気持ち。侘びしいけど、新たな生活の訪れに対する高揚感。不安感。何より……出発前にカミゾノさんが見せたメモ紙の内容を思い出すだけで、情緒が安定する気がしない。車酔いじゃないけど今すぐ吐いてしまいそう。


 ……そういえば、と私は尋ねる。


「ヴェルさんはどちらに?」

「先に帰った。用があるとかでな」


 あの紙に書いてあった内容を彼へ直に確かめようとしたのだが……用があって帰ったのなら仕方がない。


 果たして電車もバスも無いのにどうやって帰ったのか。しかしカミゾノさんが出直して来ている辺り、普通に街まで送ってもらったのだろう。


 最中、「あの紙の件だが――」と、空へ投げるようにカミゾノが口を切ったのは集落を抜けて山道へ入った頃だった。生い茂る雑木に囲まれた山道には深い木陰が落ちている。そういった仄暗い情景も相まってか、彼の表情はどこか深刻に見えた。


「除霊費用の1億だが、七山さんには働いて返してもらう」

「……普通に無理なんですけど」


 これまでの、どの体験よりも衝撃を受けた内容――それは請求書の額。


 一億円。

 平気で豪邸が建つ額である。納得いかない。


「そう睨むな。一応でもお前さんの“怪異”は解決したんだぜ? 半分くらい」


 もはや何かの冗談だと思っていたが本気らしい。

 しかし聞き捨てならない事をカミゾノさんが言った気がする。


「……………今さっき半分って言いました?」

「正しくは、まだ完全には解決できていない。の間違いだな」

「同じ意味じゃないですか……っ! その、私に憑いていたとか言う『憑霊』はヴェルさんが食べたんですよね! それで解決したんじゃないですか!? と言うか解決できてないのに1億請求するって可笑しくないですか!?」


「…………ん」


 カミゾノは自身の鼻を触りながら目線を上に向かせる。

 何かを考えている風な素振。


 妙な沈黙が降りた後、しばらくして視界が暗くなった。トンネルに入ったらしく、風を切る音だけが響く。そしてオレンジの光条がいくつか車内をちらついた頃、カミゾノさんは声のトーンを少し上げながら言葉を発した。


「関係なかったらしい。たまたまその辺の幽霊が憑いてたんだと」

「…………」

「……そんな眼で見るな。現状だと俺にも分からん事だらけなんだ」


 正面を向いたままのカミゾノさんは小さく嘆息すると、矢継ぎ早に言う。


「兎に角、お前さんにはうちで働きながら請求額を払って貰う。警察や弁護士に駆け込もうったって無駄だ。その眼の効力は完全に消えた訳じゃないからな。駆け込んだところでどうなるかは……お前さん自身が一番理解しているだろう」


 つまり、つまるところ、私の呪いとやらはまだまだ現在らしい。


「…………詐欺」

「人聞きの悪い事を言うな。お前さんの呪いが完全に抜け切るまで、こちとら付きっ切りで面倒を見なきゃならないんだぜ。その額はガキのお守り代込みの値段みたいなもんだ」


 カミゾノはただ無感情に答える。

 悪びれた様子は無い。


 ようやく普通の人生への兆しが見えた途端に、有り得ない額の借金を抱えさせるなんて話が違うじゃないか。


「そんなに落ち込むな。時給9万2000円出すから年内には余裕で完済できるだろ」

「………は? え、時給?」


 絶望の最中に差し込んだ光とでも言おうか、彼がそう言ったのは奇しくもトンネルを抜けたのと同時だった。パァっと晴れた視界はまるで私の心情を表しているよう。


「月給じゃなくて、時給……が? 本当に9万円も……?」

「本当だ。こんなしょうもない嘘をついてどうなる」


 アルバイトの月謝ではなく、時給で9万2000円。一日8時間働いたとして凡そ72万円。月20日働いて1470万。その話が本当なら法外な請求も年内に完済できる。


 いいや……そんな旨い話がある訳が無い。


 現に存在した幽霊よりも俄かに信じがたい話だと思う。私はここで冷静に頭を冷やし、改めて呼吸を整えながら尋ねた。


「本当に飲食店……なんですよね……?」

「ああ、うちの店は少々“特殊”でな」

「……やっぱり」


 こうなると飲食店と言う言葉も何かの隠語にすら思えてきた。そもそもこんな私に接客業が務まるはずがないのだ。


 もし此処で人の尊厳を失う事になるのなら――今すぐ車から飛び降りてやる。そう思いながら、私は彼の真剣な横顔を見つめていた。


 そして彼は告げる。

 その声音はどこか暗澹と。


「おま……。いや、七山さんには、これから“死神”を相手に接客してもらう」

「シッい……? へ?」


 変な声が出た。

 しかしカミゾノは気にしない。


「死を司る神。死神だ。聞いた事くらいはあるだろう」

「……死神って? シニガミ? お迎えに来る系の……?」


 カミゾノは頷く。

 特殊どころの話じゃない。

 予想の遥か斜め上過ぎる。


「七山さんはこれから死神を相手にオーダーを取り、死神を相手に料理を提供し、死神を相手に本日のおすすめや品物の原産地、調理方法を説明してもらう。仕事に慣れたら俺の“仕入れ”も手伝って貰うから、そのつもりで頼む」


 幽霊。仕入れ。料理。食べる。

 飲食店――奇妙な符合に私の第六感が警鐘を鳴らし始める。否、私は確信していた。聞き間違いでも何でもない彼の確かな言葉に、想像すら憚られる悍ましい光景を予見していたのだ。


 昨晩見た悍ましいアレを求めて、更に悍ましい客が来るのか。そしてそんな悍ましいアレを捕まえる手伝いを、私にやれというのか――。


 そんな馬鹿な話があってたまるか。と、今すぐ叫びたい。けれど、昨晩体験した怪奇現象の数々が、否定と言う概念を私の思考から完全に消し去っていた。桁が2つくらい可笑しな高額時給にも納得がいくと同時に、新たなる疑問が私に浮かび上がった。


 それは、昨晩まで彼と一緒にいた不気味フェイスな彼の事――。


「じゃ、じゃあヴェルさんも死神なんですか……?」

「大まかに言えばそうなるな」


 どおりで――。

 幽霊を食べれるし、呪いとやらも効かない訳だと納得する。


「因みに死神と言っても、見た目はヤツと同じように普通の人間と変わらん。だから心配せず仕事にあたると良い」


 てっきり鎌を持った恐ろしい骸骨をイメージしていたけれど違うらしい。内心ほっとする。じゃあ大丈夫……なのかな。


「とは言え、死神共を相手にするのは週に一度だ。その他日中は普通に人間を相手に営業しているから、先ずは人間相手に接客の基本を学んでもらう」


「ま、待ってください? とりあえず……その、死神を相手に接客するのは分ったんですけど……普通の人間って? え、私の呪いってまだ消えた訳じゃないんですよね?」


 その折、赤信号を前に車が停止した。


「そういや渡しそびれてたな」


 そう言い、カミゾノは運転席の足元に手を伸ばし、小さな紙袋を手に取る。中には古臭い木箱が入っていた。何だろうと疑問に思っていると、彼はそれを私に差し出す。


「開けてみろ」

「……眼鏡?」


 中に入っていたのはシンプルなデザインの銀縁眼鏡だった。何気なく丸いレンズに顔を近づけてみても視界に変化は無く、伊達のレンズが外の明かりを反射させている。


 カミゾノさんの意図が分からずに困惑していると、彼はハンドルを握ったまま言った。


「ヤツからの預かりもんだ。サングラスのまま接客させる訳にはいかないからな」

「え、でもこれじゃ……見えちゃいますよね?」

「奴曰く、七山さんの呪いを抑えてくれる魔法の眼鏡だと」


 カミゾノはそれ以上を語る事は無く、車は緩やかに発進した。普通なら信じられない様な話でも、ここまで来ると私に疑う余地は無かった。


 呪い。怪異。幽霊。死神。


 これだけ有り得ない存在を目の当たりにしておいて、今更何を疑おうか。


「……ありがとうございます」


 私は彼の横顔を見つめながら、手の中にある眼鏡に視線を落とす。胸の奥底にある何かが、微かに震える感覚を覚えた。


 なんだ。悪い人達なんかじゃ無かった――って。


 早速、貰った眼鏡を掛けてみる。やはり度は無く、私の鼻筋にいつも通りの感覚が乗っかる。視界がクリアな分、サングラスよりもよっぽど良い。気に入った。


「え、えへへ……似合いますか……?」

「サングラスよりは似合うと思うぞ」


 カミゾノさんは無感情に言い放つ。


 こうして、私の奇妙な生活の始まりは幕を上げたのだった――。


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