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第6話


 客間へ戻ると、ヴェルは座卓に突っ伏したままだった。微かに寝息まで聞こえてくる。


 しかしカミゾノさんの言う通り、客間に戻って来た途端、間断なく鳴り響いていた奇怪な喧騒は、嘘の様にぴったりと止んでいた。


 私はひっそりと猜疑的な眼差しを彼へ向ける。


(……この人……何者なんだろう)


 カミゾノさんの言った『不浄』。その言葉の意味は分からない。それでも、妙な心地悪さが私の胸中をざわつかせている。


 上手く説明はできないけれど――違和感が実像を帯びて目の前にある様な、得も言えぬ気味の悪さが背筋に冷たさを運んでくるのだ。


「―――戻ったぞ、開けてくれ」


 声。低くとも透き通る様なその声が聞こえてきたのは、ちょうど私が戸襖の方へ視線を移して直ぐの事だった。


 私は安堵する。パンツ一枚の姿とは言え、今はそんな変態しか頼れるべき存在が居ないのだから。


「……! はい! 今開けま――」

 ――――戸襖を開けた先には誰も居ない。

「――す?」


 薄暗く、濃い木目が影を落とした廊下の先は、台所の灯りさえ消えていた。暗い。妙に暗すぎる。


 私が首を傾げた、その時。



『――――』


 ―――その声は突然―――何の前触れもなく聞こえて来た。まるで風に揺れる木々の様にザワザワと――緩急の無い音が耳元で漂って。


『――』『――』『――』『――』『――』


 そして、その声は、その音は、次第に重複していくと、頭の中で輪唱する。合唱みたいなその声々を聞いていると、何だか頭が……ボーっと……。


「あ……れ? なんだ…………か……」


 発熱した時のような――。

 いや、眠りに落ちて行く感覚のような――。


 違う。良い例えが見つからない。


 ――――――溶ける。


 そう、溶けて行くような――。


「――全く、随分と耳障に謡うじゃないか」


 微睡みに溶け行く意識の最中、私は奇妙なものを見た。 


 それは、おびただしい数の黒点が那由他に蠢く光景――。


 影。影。影――――。


 意志を持っているかのような無数の影が私の周囲を漂っている。


「――悪いけど、連れて行かせる訳にはいきませン」


 蠢く影は、やがて巨大な翅(はね)を形作ると――私を飲み込んでいく。そして抗い難い心地よさと共に――。


「――ナハッ。この娘にはうちでしっかりと働いていただきますからネ」


――――私の意識はそこで途切れた。



 ◇



 不思議な夢を見た。


 雨、全てを洗い流すような雨の中、私は空を飛んでいた。


 誰かに抱かれて、遠く、遠くを目指しながら――――。


「――――雨……」


 自分の声で眼が覚める。途端、汗まみれの身体が寝起きと共に不快感を運んでくる。


「なんか……変な夢を見ていたような……」


 目が覚めた瞬間にどんな夢を見ていたかのさえ忘れてしまったものだから、私は自身が吐露したはずの言葉に自然と首を傾げていた。


 長い夢だった気がする。

 私は確か……思い出せない。


 まぁ、変な夢だったのは違いないと、私は朝日に眼を細めつつ、未だ判然としない頭を抱えたままベッドから起き上がった。


「うぁ……蒸し暑ぅ……。シャワー浴びたい」


 まだ梅雨入りだというのに、妙な蒸し暑さが全身に纏わりついている。


 いくら引き籠りとは言えそれなりに規則正しい生活は送るようにしているつもりで、私はまだ覚束ない頭のまま今日は何をするかと漠然と考えていた。


 と言っても、毎日、毎日、毎日、同じことの繰り返しなのだが…………箪笥を開いた所で手が止まる。


「………………あ」


 瞬時にして鈍り切ったシナプスが弾けたのは、自身が昨日と同じ服装であることに気付いた直後の事だった。


 そう言えば、とんでもない事に巻き込まれていたんだ――――。


 そうなると、矢庭に脳裏へ浮かんだのは、あれからのこと。


 確か、全裸の不審者と不気味な笑みの外人を家に上げて、除霊がどうとかで、台所で怪奇現象が起きて……そうこう考えている内に頭がすっきりしてきた。と、同時に、


「やばかばいっ!」



私は顔も洗わずに、味噌汁の香りが漂う居間へと走り出したッ! 




 ◇



「あら、おはよう」


 居間への襖を開けた先で、祖母が優しく微笑みかけた。既に朝食は済ませたようで、陽光の元で長閑に湯呑を啜っている。


 昨晩、この家が謎の怪奇現象の数々に包まれた事もあって、その日常はますます際立って見え――私の肩はすっかりと空かされていた。


「ボサっとして、どがんしたね? ご飯は?」


 敷居の上で佇んだままの私に祖母が声を掛ける。その一言は何も知らない事を裏付けているみたいで……私はなぜか落胆していたのだ。


 また無限に続くような毎日に戻って来たみたいで、浮足立っていた心が覚め覚めしていくのが自分でも分かった。


「……うん、食べる」


 私は食卓に腰を下ろす。正面では爽やかな顔をした女子アナウンサーが神妙な面持ちを浮かべ、「震災から9年」と言った旨の記事を読み上げていた。


 隣県に在るお城の復興にはまだ時間が掛かるらしい。そんなテレビ画面の斜め端に表示された時刻は10時。いつもより2時間くらい多く寝てしまったらしく、縁側へと通ずる硝子障子の向こうでは燦々とした日差しが庭先の緑を克明に浮かび上がらせていた。


 ふと、居間に隣接した台所へ目線を移す。


 流し台の前で丸まった祖母の背中と、水の流れる音。チチチ。と、点火したコンロが味噌汁を温め直し、チンッ。と、古株のレンジが鳴いている。あれだけ台所中に張り巡らされていたお札は嘘の様に消えていて、不気味なくらい日常の朝に戻っていた。


 あれから――どうなったのか。最後に覚えているのは、台所から客間へ戻ってきた途端に急激な眠気に襲われたという事だけで、後の事を私は一切知らない。覚えていない。


 私の呪い? 怪異とやらは本当に消えたのか。

 憑いていたとか言う幽霊はどうなったのか。


 全てが曖昧な一晩の記憶となれば、長い夢を見ていた気すら――。


「まだ寝ぼけとるとね?」


 台所より朝の香りを漂わせた祖母が出てくる。コトリ。と、椀底の音と共に、目前に置かれたのは白いご飯。


 継いで、味噌汁。納豆。

 オクラの和え物。フリッタータ。



 …………フリッタータ?



「え、これなんね?」


 チグハグな献立に目が丸くなる。ふわりと炊けた白飯に、青菜と豆腐の入った味噌汁。見慣れた容器の納豆。小鉢には畑で獲れたオクラとカツオ節の和え物。何とも日本人らしい食卓の中に突如現れたイタリアーノな風貌は、正しく異彩を放っていた。


「何って、卵焼きやろ?」

「まぁ……そがんっちゃけど……」


 ケーキのように切り分けられたその断面には、赤や緑、色々な具材が卵で焼き固められていた。いうならば洋風卵焼き。祖母が作るとは考え難い異国の料理。我が家の卵焼きと言えば、あの砂糖の入った甘々なやつ以外考えられないのだが……。


 しかし、今は「…………ゴクリ」と、私は考える前に生唾を飲んでいた。昨晩は色々あったせいで、夕飯すら食べ損ねた私のお腹の中はとっくに空っぽだった。


 仄かに香る出汁の香りが無意識に私の箸を誘う――。


「いただきます」


 沈み込みそうな程に柔らかく仕上げられた卵があっさりと箸で切れる。その切れた部分からはたっぷりと詰まった赤い具材が姿を見せ、それと対照的な深緑色も垣間見えた。


 ベーコン、ニンジン、ほうれん草。朝に嬉しい食材の彩りが包まれていて、口に運んだ瞬間、体験したことのない美味が口中に広がっていく……!


「――――――ん」


 ふわりとした卵を噛んだ途端にカツオ出汁の香りが鼻腔を潜り抜け、塩気と共にわずかな甘さを運んでくる。その味付けは和風にアレンジされていた。洋風チックな風貌でありながら、その味は完全に朝の食卓と合致していたのだ。実にご飯が進む……!


 もちろん、お婆ちゃんの手料理だってこの上なく美味しいのだが、これは違う。なんというか……こう、お店の味。そういった表現がおあつらえ向きかもしれない。


「美味しいやろ、カミゾノさんが作った卵焼き」

「――――ゴフッ」


 むせた。呼吸を整えるために急いでお茶を流し込む。


 どういうことだ――と、尋ねる前に、正面へ腰掛けた祖母はしみじみと語る。


「聞いたよ。オウカが寄越したんだって? 全く十数年もの間、何の連絡も無かったかと思えば、いきなり都会の方から人を寄越してから……相変わらず勝手な娘たい」


 もはや呆れ果てた様子で祖母は溜息を吐いていた。心なしかシワが増えたように見えるのは完全に気のせいかもしれないが、あの人が祖母にまた心労のシワを刻んだのは確かだろう。


 因みに私は味の余韻が舌の上から消え失せていた。

 気が気じゃない。


「そ、それで……カミゾノ……さんは何て?」

「――お前さんを連れていく了承を得たところだ」

「ぎゃぁっ!?」


 突然、背後より聞こえて来た特徴的な声に心音が跳ね上がる。本当にもう、どうしてこう心臓に悪い登場ばかりするのだろう。


 私は座ったまま振り返る。

 念の為、ゆっくりと。


「よかった……服着てる……」

「馬鹿にしてんのか」


 出会って一日も経たないけれど、パンツ一枚と言った印象が深すぎる故の安堵。そんな服を纏った「元」変質者は小さくため息を挟み、「で、」と、口を切り出した。


「婆さんから預かった荷物は既に車へ積んだ。後はおま……七山さんだけだ」

「ちょ、ちょっと色々と急すぎませんか? 連れて行く了承って……え?」


 声を上擦らせた私とは裏腹に、祖母が実に落ち着きの有るいつもの語調で答えた。


「オウカがカミゾノさんとこの仕事ば辞めるけん、その欠員でミコトちゃんに白羽の矢が立ったって聞いたばい。ほんなごつ勝手な娘けど、お婆ちゃん、正直ほっとしたとよ。こんままミコトちゃんがずっと引き籠りやったらどがんしゅうか思っとったけん」


 うわぁ、何も言えない。

 表情を柔和にした祖母はシワを綻ばせる。


「飲食店はキツかばってん、よか経験になる。お婆ちゃん応援しとるけんね」

「飲食……店……?」


 もちろん承諾した覚えはない。

 というかそんな話は知らない。


 それも当然、目が覚めたら何故か彼の元で働くと言う話の流れになっているのだ。一日と言わず数カ月眠っていたとしてもそんな話にはなるまい。


「その、カミゾノさん。社員登録とかはどがんなっとるとですか?」

「先ずは試用期間でアルバイトからの採用にナリマス」


 しかしながら……祖母の中ではそういう話に成っているようだ。とんだ非常識な人だと思っていたが、良識的な部分が垣間見えて少し安心したのは内緒にしておく。


「えー……? と、えぇぇ……」


 今のところ疑問は山ほどあるが、祖母が嬉々とした声で話すものだから何も言えなくなってしまった。


 別に働きに出る事は問題じゃない。もちろん自分でも永遠にこのままではいけないと言う考えくらいはあるもので、何なら願ったり叶ったりでもあるが……。


 …………そもそも飲食店と言ったか。


 人と目を合わせた途端に嫌われてしまう私が飲食店? まるで働くイメージが湧かない。嫌とかそんな次元の話ではなく、もっと根本的な話。出来る出来ない以前の問題であって、本当に私で大丈夫なんだろうか。と。


 そんなごく当たり前の逡巡を断ち切るが如く、カミゾノさんが私の耳元で告げる。


「婆さんに心労を掛けたくはないだろう?」


 そう言ったカミゾノは私の背後から手を回し、掌を見せた。そこには丁度、彼の大きな掌に収まるサイズのメモ紙が見える。何やら書いて……。


「―――――――ッ!」


 その内容を見た瞬間、今まで感じた事の無い衝撃が全身を駆巡った。どうやら私に迷っている余地はおろか、当惑している時間も無いらしい。



「出発したら詳しい話をしよう」

「……わかりました」


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