やはり台所では非現実的で馬鹿げた光景が繰り広げられていた。
「な……え? え……?」
私が唖然としている一方、彼の大きな背中は振り返らずフライパンに挽いた油を、慣れた手つきで満遍なく塗していた。熱を帯びたフライパンと油の独特な香りが漂う。
それは見紛う事なき“料理”の情景であることは明らかだ。霊媒師とやらは我が家の台所で何の突拍子もなく料理を始めつもりらしい。除霊前の腹ごしらえだろうか。
まぁ……。それだけならいい。謎のパン一男が我家の台所を勝手に使って何かを始めようとしている。それだけなら……まだ、一万歩くらい譲れば納得できない訳じゃないけれど――まな板の上へ置かれた『謎の物体』を見てしまっては無理な話だった!
「な、なんですかっ!? コレッ!?」
声を大にした私はシンクとコンロの間に置かれたまな板上の物体を指さした。
それはバスケットボールくらいの大きさをしたヘドロの塊か。除霊とやらが如何に非現実的であっても、眼に見える不衛生がその場に在るとなれば話は変わってくるぞ。
「ちょ、ちょっとぉ! 人ん家の台所に変なもの持ち込まないでくださいよ!?」
狼狽える私とは真逆に、カミゾノは冷静にコンロの火を一旦止めて振り返る。
「…………視えるのか?」
圧を放つような問い。しかしその問いは、その物体が何であるのかを理解するには十分だった。
「えっ。ま、まま……まさかこれ……が?」
「ああ、これがお前さんに憑いていた霊――『憑霊』だ」
促される様にして目を凝らすと、ぐにゃぐにゃの短い手足っぽいものが認識できる。
更に目を細めると顔にも視える箇所が……何だっけ。点が3つあると顔に見えるシミュラクラ現象だっけ。それに微かだが喫えた臭いまでしてきたぞ。
『オ、オ、オオ、オ死、、、コ、、、ミコ――ト、ォ』
しかもなんか喋ってるし……。
「凄い執着心だろ? お前さんの事を心の底から恨んでいる証拠だ」
「えー……え? えぇえ……?」
もう「え」しか出ない。
途端、こんな禍々しい塊が私へ憑いていたと思うと、首筋がうすら寒くなって来るようだった。
こんなのが枕元に浮かんでいたり、ふとした折に鏡なんかへ映り込んでいたら間違いなく卒倒する自信がある。
と、疑問はそれだけじゃなく。
「って……なんで私、視えるように……?」
「さあな」
怪奇現象のプロはこりゃまた無慈悲に私の疑問を切り捨てた。私が唇を尖らせていると、カミゾノさんは少し困った顔を浮かべて。
「今まで視えてなかった存在が何故か視えるようになった。そして問題なのは……こいつが0感の奴に視えるほど強い霊では無いってことだ。どうもきな臭くてかなわん」
「きな臭いって……どういうことですか?」
「今は分からんが、“調理”すれば事の全貌が見えてくるだろ」
調理……?
確かに調理って言ったぞこの人。
「ゆ、ゆっ……幽霊を料理……?」
ヴェルの「非現実的で馬鹿げてる」と言う話の意味が、ここで理解できた。理解した所で、困惑した声音を口零す事しか出来なかったのだが……そもそも料理以前に幽霊って食べられるのだろうか。
漠然とした疑問符を抱えている最中、カミゾノは語る。
「調理とは『物事を整える』という意味合いがある。ある程度年月の経った霊は、恨みや怒り、悲しみと言った負の感情によって自我を失くしている。俺が今から行うのはそう言った“負”純物を取り除き、霊魂が持っている本来の記憶を最大限まで引き出すんだ」
寡黙で不愛想な人だと思っていたが、案外饒舌に語る彼の話を傾聴しながら私は考えていた。
霊は歳月と共に自我を失っていく。そこで調理と言う工程を挟む事によって、正気に戻した霊と対話を計るのだろう。そうに違いない。
幽霊を料理するという馬鹿馬鹿しくて現実味のない行為も、きちんとした意味を知れば重要である事が理解できる。
「で、こいつを食わせる事で、呪いに関する根幹的な情報を得る事ができるし、おまけに色々な手順をすっ飛ばして強制的に成仏させる事が可能になる。霊もここまでステージが進行していると並の霊能者じゃ手に負えないからな」
……と思ってたけど違ったらしい。冷静に考えれば料理するのだから、それを提供する相手が居てこその料理なのだ。
食べる事が一番の供養。と、かの有名な誰かが言っていた気がする。そして、我々は料理ではなく情報を食しているのだと……。
じゃなくて。
「食わせる? 誰に?」
「あの赤髪クソ野郎」
若干一名の該当者が頭の中に浮かぶ。というか彼以外知らない。何かの冗談としか思えないその反面で、何処か人間離れした雰囲気の彼ならば本当に幽霊を食べていてもなんら不思議じゃないと思う自分が居る。
もう理解が追い付く気がしないのでポッと思い浮かんだ疑問を口走った。
「……幽霊って美味しいんですか?」
「知るか。こんなもん食える訳ねーだろ」
「……身も蓋もない」
私はあきらめた。思考が停止した。一旦考えるのを止めた。どういう仕組みなのかを聞いたところで私には分かりようもないと直ぐに判断したからだ。
恐らく……この幽霊を食べる事で強制的に除霊させ、私の呪いとやらを解決するのだろう。話の流れ的に。
実に馬鹿げてる。
「さ、知的好奇心が満たせたのなら客間へ戻るんだな」
そう言い、カミゾノさんは「憑霊」から伸びる触角の様な物を無情に叩き落とすと包丁を手にしていた。
まるで短刀のようにも見える立派な刃が鈍い輝きを放っている。当然のことながら我が家では見た事も無い代物なので彼が持参した物だろう。危ない人だ。
「あと、その辺に貼ってある札には絶対に触れるな。いいな?」
彼が除霊の下準備と言って直ぐに客間へ戻ってこなかったのはこれら(お札)を設えていたのか。
フライパンの柄やまな板。それだけじゃない。気付けば台所の至る所にお札が張り巡らせてあった。
(ああ……お婆ちゃんが今にでも帰ってきたらなんて言い訳をしようか……)
禍々しくも感じる光景を目の当たりに、そう思っていた矢先――。
「――――ミコトちゃーん」
その聞き慣れた声は――台所の正面に在るスリ硝子窓の外から聞こえて来た。
有ろうことか祖母は最悪のタイミングで帰ってきたのだ。
「――――ミコトちゃーん。開けてくれんね?」
スリ硝子の中で曖昧に浮かぶ白い人影は面格子の間からトントンと窓を叩く。
私は血の気を下げたまま硬直していた。
しかし、こんな訳の分からない状況を見られてしまえば堪忍するしかないだろう。そして先ずは、一番有り得ない恰好の人へ服を着せるのが優先事項である。
「カ、カミゾノさん……その、もう大体は乾いてると思うので……服を……」
外に居る祖母へ漏れ聞こえぬよう、声を押し殺し気味にカミゾノへ云うが――。
トントントントントン、と窓を叩く音が脆弱な私の声を掻き消していく。
「――――ミコトちゃーん。開けてくれんね? 開けてくれんね?」
抑揚なく響く祖母の声。
そこで私は違和感を覚える。
その声は明らかに聞き慣れた祖母のものなのだが、変なのだ。まるで録音した音声をそのまま再生したかのように、トーンが、抑揚が、声量が、全て同じ。
そもそも……なぜ玄関ではなく、家の裏手側にある台所の小窓なのか――トントン――と、窓を叩く音は次第に強さを増し――。
「アケテ」
トントン。トトト。トトトトト。
ドドドドドドドドドドド――――ッ!
「アケテアケテアケテアケテアケテ――――」
「ひっ……」
一瞬、自分の心臓が止まったかと思えば物凄い勢いで脈打ち始める。
叩かれ続ける窓の音はダンダンダン! と激しく豹変し、祖母と同じ声を出していた何者かの声は「ウッンッー! ウッ、ンーッ」と呻き声の様なものに変貌していた。
正直泣きそうになった。
「そこを動くなよ」
「え――――?」
刹那、舌打ちを響かせたカミゾノが窓を勢いよく開け払い――私はその場へ座り込でしまった。というか、ばんッ。と彼が乱雑に開けた窓の音に驚き過ぎて腰が抜けた。
「うるせえぞ」
そう言い、彼は自前の包丁を片手に、身を乗り出すようにして窓の外を睨んでいた。
しかしこの男、パンツ以外は何も着てないのである。傍から見ればとてつもなく危ない人に見えなくもないが、この時ばかりは頼もしい存在に感じるのだから不思議である。
やがて嘆息したパンツマンは徐に窓を閉じた。
「ったく……下級霊如きが。演出ばっかり派手に登場しやがって……」
「さ、さっきのは……?」
「見た感じ『死霊』だろう」
もはや乾いた笑いが込み上げてくる。人生初の怪奇現象は委縮震慄と私の肝を潰しきっていた。もう笑うしかないじゃないか。
しかし、一息ついたのも束の間――更なる怪奇現象が私を襲う。
ピシッ、ピシッ――――と音が――。
「い、家鳴り……にしては大きいような……」
ピンポーン、と。
「ななな、なんで? こんな時間にチャイム……?」
ピンポーン。ピンポーン、ピンポンピンポンピンポン。
一瞬だけ来客を予想したが、間髪入れぬまま、それも壊れたように鳴り続けるチャイムがその線を否定した。おまけに窓の外ではガヤガヤとした話声まで聞こえてくる始末である。
「なっ……ななな……なんの起きよっとね……?」
「さあな。だが、ここまで酷いのは滅多にないぞ」
突如として我が家を襲い始めた怪奇現象のフルコースに、私は恐々と首を仰がせた。彼もそんな私に倣う様にして、不思議そうに周囲を見渡している。
心霊現象のプロである彼からしても、この怪奇現象の数々は度し難い風に見える。
刹那――トゥルルルル。今度は電話の音。
これは流石に祖母からかもしれない。と、立ち上がった私が電話を取ろうとするも、カミゾノさんが私を制止させる。
「……俺が出る」
まさかこれも……表情を強張らせた私は閉口したまま首を縦に振った。すると私の代わりに受話器を取ったカミゾノは開口一番に声を低くして――。
「殺すぞ」
なんてとんでもない事を。
本当に祖母だったらどうする気だったのか。
というか幽霊相手に「殺すぞ」と言うのもいかがなものか――。
「……どうなってやがる?」
受話器を置いたカミゾノさんは訝し気に私を見た。
そんな眼で見られても困るのは私の方である。
その間にも家鳴りや物音は止まず、窓の外ではいつの間にか複数乱立した謎の影が、妙な気配を漂わせていた。一生分の怪奇現象を体験した気分だ。
ともなくして、私を見ていたカミゾノが口を切る。
「……そうか。そういうことか」
何かを確信した物言いの後、
「どおりで内容と霊の強さが釣り合ってない訳だ。あいつ……何を企んでやがる」
彼は直ぐに眼を逸らし、考え込むような仕草と共に独白を浮かべていた。
私には何のことかも分からない。それでもカミゾノさんは明白な何かを掴んだらしく、今度は生気のない瞳に怜悧さを宿し、再び私を見た。
「客間に戻れ。まだ憶測だが……あいつの近くが一番安全だろう。不浄さにおいて奴の右に出る者はいないからな」
(………不浄?)
と、私が口に出して問う前に、彼は背を向ける。
「早く行け。俺はこいつ等をひっ捕まえてから行く。貴重な食材だからな」
有無を言わせぬ雰囲気に今は従う他ない。
何より恐ろしくて堪らない。
祖母の安否も心配になったが……無事であると信じたい。
「いいか? 俺が戻って来るまで、何があっても部屋から出るなよ」
カミゾノさんの意味深な言葉を後目に私は客間へ戻る。
もしこれが、家中を取り巻く奇々怪々の数々が私のせいだとしたら――。
……私の呪いって、いったい何なのだろうか。