―――例えば、誰かを憎しみながら死んだとする。
そこから年月が経つにつれ、人は憎んでいた“誰か”を忘れ、何故憎んでいるのかの“理由”すらも忘れてしまう。
果てには自分が人間だったかさえも……。
だが、通常であれば恨んでいた何かを忘れた時点で、その魂は自然に消滅――即ち成仏へと至るのだが、強い未練を持った魂はそうはいかない。
結果、最終的に”憎んでいた”という感情そのものが残り、後は認識した者を無差別に襲う存在になると言う。
「――苦しい、辛い、悲しい、寂しい、ムカつく、うらやましい、気付いてほしい。そういった負の感情が生きた人間の魂を削り取るのデス。すると削られた側は衰弱し、精神や肉体に支障が生じ始めるル。これが『呪い』の仕組み……そして削り取った側は、その魂を糧にして生き永らえ続けるのですヨ。けして潤うことのない渇きとともに――」
―――コッ、と、木製の卓に触れた糸底の音が8畳の座敷に響いた。赤いベストに白いシャツ。和室の客間。外国人と緑茶。異文化の組み合わせが織り成すちぐはぐさは、我が家とは言え夢を見ている様な錯覚に陥りそうだ。
そんな夢の住人にも見えるヴェルは続きを語る。
「貴女に向けられている呪いは霊的な事物と無縁な人でも、目を合わせた途端にその気配や片鱗を感じてしまう程に強力でス。『くねくね』の時に話したように、強い存在は霊感が無い人でも不意に視えてしマウ。それと同じ事が貴女の眼を通して起きている訳ですネ。正しくルナティック、貴女の眼は人の嗜虐心やら狂暴性を高めてしまうようダ」
熱々だったお茶がぬるま湯になるくらいの時間を要した『私の眼について』という梗概を聞き終えた私は、唖然としたまま自身の湯飲みに口を付けた。
「それで私は……どがんすっぎ……いや、どうすれば……」
「簡単デス! 我々の事を信用してくれるだけでいいのですカラ」
困惑した私の声音を打ち破るようにヴェルは声を明るくした。そしてテレビ通販のように大仰で朗々とした語調を維持したまま続ける。
「ただ、これから行う方法は少しばかり特殊でネ。これから起こりゆる事が如何に非現実的で馬鹿げていても、それを受け入れると約束してくださイ。そうすれば晴れて当たり前の人生を手に入れる事が可能。悪い話じゃありまセーン。デメリットは無しですヨ?」
ヴェルは緩やかに唇を歪ませた。私の困惑は続く、むしろ放心にも近い感情に変化してる。まるで何に使うかも分からぬ商品の勧誘を受けている気分だった。
釈然としない今はただ呟くしかない。
「当たり前の人生……?」
「ナハッ、誰かと目を合わせても蔑まれない人生をネ」
「…………」
私は迷っていた。悩んでいた。逡巡していた。
しかし今は――長い前髪で目元を隠すように俯いていた顔を、少し上げてみる。ヴェルと眼が合った。それでも彼は嫌悪の表情一つ見せず、むしろ主張するかの如くギザギザの歯を見せ、笑顔を返してくれる。
私はますます分からなくなる。
「呪いって言いますけど……ヴェルさんは平気なんですか……?」
「ナハハ。この程度、平気じゃ無ければ務まりませーン」
「…………まぁ、それもそう……? なんですかね……」
自分でも分かる芯の入ってない呟きが溶けていく。
不安、不審、懐疑、猜疑、疑念。全てが払拭できた訳じゃない。あまりにも……そう、あまりにも現実味がない。
なにより認めたくない。
認めてしまえば――どうしようもなくなる。
――19年間。いや、正確な年月を当てはめると、私がこの眼に対して明確なコンプレックスを持つようになったのは、7歳を迎える頃だったか。
つまり約12年間、私の眼は人が嫌がるくらい醜いものなんだと負の自己暗示を続けて来た。そんな生まれつきという意地悪な運命に見初められた私は、ずっと一人で苦しんできたのだ。
家族にはもちろん、学校での出来事すら話していない。そもそもの話、私にはお祖母ちゃんしか家族と呼べる人が居ないのである。父は居らず、あの人は未婚の母だった。その実母に当たる私の祖母もさぞ心労したに違いない。
そうなると、自ずと心配を掛けたくないと思うのは当然の事で、家内では平常を装ってきた……つもりだ。
でも、それらの境遇は全て、私に憑りついている『悪霊』のせいであって。その『呪い』が、私と眼を合わせた人に嫌悪感を抱かせてしまうせいでもあって。
あの人――――。
お母さんは私を捨てたのかな――。
なんて事を今さら認めてもどうしようもない、何かが変わる訳でもないのだ。
だから、呪いのせいなんかにしたくないのに――。
「……それで……」
私は乾いた舌を湿らせる為にも、冷え切った緑茶を口に含んだ。ある疑問が脳裏を過り、その事を訊ねようと今にも喉元まで出かかっている。
それはあえて質問するまでもない残酷な事実確認だった。
けれど、私はやっぱり12年以上なんの音沙汰もなかったあの人の意図が知りたくて、鉛のように重く感じる声を繋げた。
「……オウカさんは……なぜ今さら私の除霊の依頼なんかを?」
尋ねながら胸が苦しくなる。
別に後悔や罪悪感に駆れていて欲しい訳じゃないけど、なんでもっと早く助けてくれなかったのか。とか、なぜ今まで連絡の一つも寄越さなかったのか。とか、積年の想いが私の心を締め付けていた。
するとヴェルは答える。呆気なく。
「さぁ? 依頼主への詮索はしない主義でしてネ」
「…………」
その一瞬、私にはなんの感情の揺らぎも無かった。
哀しみが走り抜ける事も、憎しみが煮える事も無く、妙な安心感だけが心を軽くしていた。
今は謎のままでいい。少なくとも胸に滲むような安堵がそう言っているのだろう。
「ただ――」
口を切り出したヴェルは悪戯っぽく首を傾げる。
「すべてが終わったら、貴女に会いたがっていましたヨ」
「…………そう、ですか」
私は素直に微笑する。
嬉しい反面、複雑な感情が煩雑した表情。
会いたくない訳じゃないけれど、仮に会った後の事が想像できない。もし、再開が果たされたその時、私はどういう表情をするべきなのか――今はまだ分かりそうにもなかった。
温い様な、心地悪い様な、何とも言えぬ感情が込み上げてくる。
最中。
「―――――戻ったぞ」
「ぎゃあっ!」
唐突に開いた背後の襖。
自分の悲鳴によって、曖昧な感傷は霧消したっ。
「おや、随分と早かったですネ? カミゾノ」
「も、もう……! 脅かさないで……」
我が家のお風呂を借りていたカミゾノさんが戻って来たらしい。
つい叫んでしまった事を恥ずかしく思いながら振り返ると、
「ぎゃあっ――――!?」
今度は踏まれた猫みたいにもう一度――叫んでしまった。
すかさず身体ごと視線を逸らした私は背後へ向けて声を全力で投球するっ。
「なっ、何でパンツ一丁なんですかっ!?」
「着る服が無いからだ」
カミゾノさんはきっぱりと言い放つ。あたかも全裸である事が正当かのような主張である。
不思議と替えの服すら用意してないこちら側に非がある気がして……そんな訳あってたまるか。
「だからって……何もパン一で……」
祖母が町内会へ外出中で本当に良かったと思う。恐らく帰りはもう少し遅くなるだろうが……今にも祖母が帰宅したらと思うと気が気じゃない。
憮然と溜息を吐いていると、
ヴェルが私の背後へ向けて声をかける。
「じゃ、さっそく頼みましたヨ」
平然とした態度は大人の余裕か、あるいは文化の違い故か。
するとパン一の男は答えた。小さな嘆息を挟んで。
「確認するが……本当に間違い無いんだろうな?」
「ナハハッ。アナタは言われた事をやればいいのデス。これまでも、これからも」
「…………チッ」
苛立ちを隠せない舌打ちが私の背後で響いた。
カミゾノと言う男はヴェルに逆らえない理由でもあるのか……それとも、そこはあくまで雇い主と雇い人と言った関係が有るのだろうか。ちょっぴり二人の関係性が少しだけ気になったのはこの際置いておく。
そこから一瞬の間が流れた直後、私の頭上では気怠そうな嘆息が響いていた。
「おい、イモ。今から除霊するぞ」
「……七山です。七山ミコト」
「イモの品名に興味なんざねえ」
彼は怪訝な声音で吐き捨てる。とことん失礼な人だと思う反面、あえて訊ねてみたいと思った事がある。
「……あの、一つ良いですか?」
「手短にな」
実に冷淡で無機質な相槌。つい畏縮してしまいそうになりながらも、私は続けた。
「カミゾノさんは……その、私の眼を見た時……どう思いましたか?」
「どうって……サングラス似合って無かったなコイツって思った」
「……は?」
「カミゾノは一度受けた呪いに抗体ができる“特異体質”でしてネ。既に貴女の呪いは受けているはずでス。因みに失礼でデリカシーが無いのは元々ですヨ」
ふと、座卓を挟んだ向かいへ目を向けるとヴェルは退屈そうに頬杖を付いていた。これまでの余裕めいた態度もどこへやら、なんだかお疲れの様子。声音もどこか緩慢だ。
「……なんか疲れてませんか?」
「腹減ってんだろ。ちゃっちゃと終わらせるぞ」
カミゾノさんは特に頓着した様子も無く答えた。なるほど、お腹が空くと元気がなくなるタイプらしい。案外可愛らしい一面が見えた気分になる。
「さて――――動くなよ」
彼の声が鼓膜を揺らすと同時、私はギュッと眼を閉じた。
緩んでいた緊張感と気が引き締まる。
今から『除霊』とやらが行われるのだ。お経が読まれるのか、もしくは背中を激しく叩かれるのか、はたまた彼の太い腕で首を絞め落とされるのか……想像すらできない。
できる事と言えば、手を合わせながら眼を閉じるくらいで――。
「捕れたぞ」
「は? もう獲れたとね?」
一瞬だった。思わず方言交じりのため口になってしまうくらい、それは一瞬の出来事だった。
もっとこう……身を清めたりとか、神棚の前に通されるとか、背後で数珠をジャラジャラと激しく鳴らされる――なんて事を勝手に想像していたのだが、余りの淡泊さに茫然としてしまったではないか。
というか今までの話はなんだったのか。
これならまだ『くねくね』の時のようにアルゼンチン・バックブリーカーでも仕掛けられた方が納得できる気がしたが……ここは冷静に、再度訊ねてみよう。
「えー……と、もう終わったんですか?」
「これからが本番みたいなもんだ」
「あ、ああ。ですよね」
私はなぜか安堵した。しかし束の間、私の背後に佇んだままの彼は冷淡な声で尋ねる。
「なぁ、誰かから心底憎まれるような事した覚えあるか?」
「い、いやいや! ない、絶対ないです、そんなことっ」
「……まあいい。早速だが次の工程へ移らせてもらう」
何やら歯切れの悪そうな物言いに不安が押し寄せる。
心底恨まれるような事……思い返してみても心当たりが微塵もない。
そもそも私と目を合わせた人が嫌悪を感じて、自ずから関わらない様にするのなら初めから恨まれようもない気がするが……。
「じゃ、台所借りるぞ」
カミゾノは客間を後にしていく。サァ、と襖の開く音がしたと思えば、直ぐにトン、と閉じる音が返ってきた。後には静けさだけが残る。
「……台所……って?」
どういう事だとヴェルへ目を向けるが、溶ける様に座卓へ突っ伏していたので、問うのを止めた。
車で3時間という地味な長旅のせいもあって疲弊したご様子である。卓上に根を張るが如く伸びた赤い髪はピクリとも動く様子が無い。
「…………」
「……………」
曖昧に漂う静寂の中、チチチチ――――ボッ。
嫌に聞き覚えの有る音が台所の方から聞こえてきたぞ。
「いやいや……まさかねぇ」
独白しながら立ち上がった瞬間――クラリとした感覚が私を襲った。
珍しく立ち眩みがしたのは普段使わない頭を使い過ぎたせいか、それとも先程の音によって得たくもない確信から想起してしまった“ある行為”のせいかは分からない。恐らく両者。
……とりあず、どうしようか。
ヴェルへ尋ねようにも、わざわざ起こして問うのも申し訳なさの方が先行する。
非現実的で馬鹿げていても受け入れると言った説明の手前、人様の家の台所で何をするのかは言及しないけれど……。
「さ、流石にね? 流石に……うん……」
自身を納得させるかのような独白を浮かべながら、私は確かめる事を選択する。