目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
婚約破棄が導く新たな愛の物語
婚約破棄が導く新たな愛の物語
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年05月15日
公開日
4万字
完結済
完璧な公爵令嬢として名高いミアータ・クラレット。しかし、ある日婚約者アレンから「完璧すぎる」と婚約破棄を告げられる。それは彼女にとって屈辱と解放の瞬間だった。失意の中、ミアータは孤児院の支援活動を始め、初めて「自分の意思」で生きる喜びを知る。そんな彼女を支えるのは、若き侯爵カイル・エルネスト。彼との出会いが、ミアータの心を少しずつ癒し、新たな愛の形を教えてくれる。 一方、アレンと新しい婚約者リリーを巡る噂が社交界を賑わせ、事態は思わぬ方向へ動き出す。ミアータの過去と現在、そして未来が交錯し、彼女が掴む真実の幸せとは――。 ざまあ要素と心温まる成長が織りなす、爽快感あふれるラブストーリー。読後にはきっと胸がじんわりと温かくなるはずです!

第1話 薔薇の微笑みと婚約破棄

 春の訪れを告げる花々が咲き乱れる王都。その中心部にそびえる公爵家、クラレット公爵家は、王国の中でもとりわけ格の高い名門だった。そこに生を受けた唯一の令嬢、ミアータ・クラレットは、誰もが羨むほどの美貌と才覚、そして気品を兼ね備えていた。

 透き通るような白い肌、緩やかに波打つ銀色の髪。長い睫毛の下にある瞳は淡いブルーで、見る者の心を優しく包み込む。さらに、その口元にはいつも穏やかな微笑みが浮かんでおり、社交界では「微笑みの薔薇」と称えられていた。


 ミアータの暮らす館は、王都でも指折りの広大な敷地を誇り、手入れの行き届いた庭園には四季折々の花々が咲く。薔薇の迷路、噴水の周りを取り囲む花壇、そして温室には珍しい植物も数多く栽培されていた。屋敷の中は大理石の床が陽光を反射し、天井には美しいシャンデリアが輝いている。格式高い調度品や高価な芸術品が並ぶその様子からは、一目で公爵家の力と財を窺い知ることができた。

 そんな煌びやかな環境で育ったミアータではあるが、彼女自身は「貴族令嬢」という立場に傲ることなく、常に穏やかで柔らかな物腰を保っていた。それもそのはず、幼い頃から「優雅たれ」「人に対して慈しみの心を忘れるな」と両親から厳しくも愛情深く教えられてきたのだ。完璧な礼儀作法や教養はもちろん、舞踏や音楽にも長けているのは、彼女自身の才覚と努力の賜物であった。


 ある日の午後、ミアータは書斎で読みかけの小説に目を落としていた。窓の外からは穏やかな春の風と、小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。天気が良く、ゆったりとした時間が流れていた。とはいえ、その心はどこか落ち着かない。

 今日の夜には、王宮で盛大な舞踏会が催される予定だ。上流貴族のみならず、多くの有力者たちが招かれるこの舞踏会は、社交界の一大イベントでもある。そこで、ミアータは婚約者である侯爵家の嫡男――アレン・ヴァーサーと共に、改めて婚約の報告を行う運びとなっていた。もちろん、この婚約はすでに公爵家と侯爵家の間で正式に取り決められている。王国中の誰もが羨む、美男美女同士の結びつき。本人たちも、幼い頃からの幼馴染として穏やかな関係を築いてきた……はずだった。


 しかし、どこか釈然としない想いがミアータの胸の奥底にあった。アレンは紳士的で聡明、身分や家柄を見ても申し分ない相手だ。けれども、彼からはどこかよそよそしさを感じることが少なくない。特にここ数ヶ月は、何か悩んでいるような素振りがあり、時折り視線も合わなくなった。言葉少なに短く会話を終わらせようとする様子が続いていたのだ。

 ミアータは、もしや自分が何かアレンを怒らせてしまったのではないかと考え、悩んだこともあった。しかし思い当たる節はない。彼女なりに、侯爵家の令嬢にふさわしくあろうと振る舞ってきたし、いつでもにこやかに接してきた。それでも埋まらぬ距離があるようで、モヤモヤとした不安が心を覆っていた。


 「ああ……こんな気持ちのまま舞踏会へ行くなんて……。でも、決まった行事なのだから仕方ないわね。」


 小説を閉じて立ち上がると、そばに控えていた侍女が「お着替えの準備はいかがいたしましょう?」と声をかけてきた。

 ミアータは一瞬だけ迷ったが、すぐにいつもの柔らかな微笑みに戻り、「お願いするわ」と答えた。こういった日常の中でも、気持ちを切り替えて完璧に振る舞うのが彼女の“公爵令嬢”としての使命だと信じていた。



---


舞踏会の夜


 そして夜――王宮の広大な大広間には、華やかな衣装に身を包んだ貴族たちが集い、にぎわいを見せていた。壮麗なシャンデリアが天井から輝き、床に敷かれた赤い絨毯の上を、貴婦人たちが優雅に歩を進める。男性陣もまた、豪奢なタキシードや礼服に身を包み、周囲と談笑しながら舞踏会の幕開けを心待ちにしていた。

 ミアータは、深いローズピンクのドレスを身にまとって登場した。そのドレスは彼女の肌の白さを引き立て、ウエストのラインが美しく強調されるデザインだ。肩から背中にかけてはやや開いた形になっており、過度ではないが上品な色香を漂わせる。髪は銀色の美しい巻き毛をあえてまとめずに、一部だけを上げて飾りピンで固定し、ドレスの色と合わせた薔薇の髪飾りをつけている。

 彼女の姿を見た人々は、そのあまりの美しさに息を呑んだ。そして、すぐに周りから称賛の声が上がる。


 「さすがクラレット公爵令嬢。今宵も一段とお美しい……」

 「まるで薔薇が歩いているようね。なんて気品なのかしら。」


 しかし、ミアータはそれらの称賛を受け流すように微笑み、「皆様こそ素敵ですわ」と返す。彼女にとってはごく当たり前の社交界の風景だったし、心が浮き立つというよりは、いつもの“任務”をこなす感覚に近かった。それでも、完璧な笑みをたたえることが彼女の生き方なのだ。


 そんなミアータのもとへ、婚約者のアレンが少し遅れて現れた。アレンは夜会服に身を包み、金色の髪を整えて、外見はまさに貴族らしい華やかさを放っている。けれども、その表情はどこか曇っており、ミアータと目が合うと一瞬ぎこちない笑みを浮かべた。

 「ミアータ、今夜は……その、すごく綺麗だ。」

 「あら、ありがとう。アレン様こそ、とてもお似合いです。」


 いつものように完璧な応対をするミアータ。しかし、そのやりとりをするわずかな間も、アレンの落ち着かない視線が気になって仕方ない。彼は周囲を気にするようにきょろきょろと目を動かし、まるで何かを探しているかのようだった。

 「……どうかしたの?」

 少し首を傾げて問う彼女に、アレンははっとしてから、「いや、なんでもない」と短く答えた。その曖昧な返事に、ミアータは一抹の不安を覚える。まさか、何か良くないことが起こるのでは――そんな予感が胸の奥をチクリと刺した。



---


婚約者がもたらす沈黙


 しばらくすると、舞踏曲が流れ始めた。貴族たちはそれぞれパートナーを見つけ、優雅にフロアを舞い始める。ミアータはアレンに手を差し出され、いつものように微笑んだまま彼の手を取った。こうして二人が踊る姿は、美男美女の理想的な組み合わせとして周囲からも注目されていた。


 「あまり気が進まないのなら、無理に踊らなくてもいいのよ?」

 踊りながら、ミアータはそっと声を潜める。彼女なりに、アレンの様子を気遣っていた。

 「い、いや……せっかくの舞踏会なんだ。踊らないわけにはいかないだろう。」

 そう言いながらも、アレンの表情はどこかぎこちない。普段はもう少し柔らかな笑みを見せるはずなのに、今夜はまるで借りてきた猫のようだった。


 ミアータは思う。もしや、アレンは自分に隠し事をしているのではないか――と。だが、それを詮索するのは「良き婚約者」の務めではないと、これまで思い込んできた。完璧であろうとするあまり、彼女は相手の心に土足で踏み込むことを避けていたのだ。しかし同時に、それが二人の間に溝を生む原因ではないのか、とも感じ始めていた。


 踊りが終わり、軽く礼を交わすと、アレンは「少し休憩してくる」と言い残してフロアの端へと消えていった。その背中はどこか落ち着きがなく、ミアータは一人取り残された形になる。周囲の貴族たちはその光景を見て「何かあったのかしら?」という視線を送ってきたが、ミアータはそれらを受け流すようにただ微笑み、近づいてきた友人たちと軽い談笑を始めた。



---


不可解な噂


 そんな中、ミアータの耳に気になる噂が飛び込んできた。

 「そういえば、アレン侯爵は最近、平民出身の娘と親しくしているらしいわね。名前はリリーとか言ったかしら……。噂だけど、かなり魅力的な女性だとか。」

 ひそひそ話をしていた友人たちが、ミアータの存在に気づき、ばつの悪そうな顔をする。

 「あ……ごめんなさい、ミアータ。別にあなたを傷つけるつもりで言ったわけじゃないの。」

 「……いいのよ。気にしないで。私も知らないことだったし、むしろ話してくれてありがとう。」


 ミアータはそう言いながらも、胸の奥に得体の知れない不安と、かすかな痛みが広がるのを感じていた。アレンが平民出身の女性と親しい――それ自体は悪いことではないだろう。貴族と平民が交流を持つ例はいくつもあるし、慈善活動の一環で関わりを持つこともある。しかし、先ほどからのアレンの挙動不審さを考え合わせると、何か大きな事が水面下で動いているのではないかという疑念がどうしても拭えない。


 「リリー……どんな女性なのかしら……?」


 それでも、ただ不安を煽るだけの噂に振り回されるのは本意ではない。ミアータは自分の胸に言い聞かせる。アレンが何か相談を持ちかけてくるのなら、その時に話を聞こう――と。それが、彼女がずっと守ってきた「相手を信じる」という信条でもあった。



---


婚約破棄の夜


 舞踏会が佳境に差し掛かろうとする頃、アレンが再びミアータの前に姿を現した。だが、どこか沈んだ様子は変わらず、むしろ先ほどより顔色が悪い。彼はちらりと周囲を見回してから、低い声で言う。

 「ミアータ……少し、外に出ないか?」

 「ええ、かまいませんわ。」


 ミアータは彼の腕を取り、広間を出る。王宮の裏手にある庭園は夜の風が少し冷たく、舞踏会の喧騒からは遠い静けさがあった。かすかに風が吹き抜け、花々が揺れている。時おり聞こえる夜鳥の鳴き声が、どこか神秘的な雰囲気を醸し出していた。

 アレンはミアータを連れて、小さなガゼボへと向かう。そこは灯火も少なく、ほとんど二人きりになれる空間だ。ミアータは心の準備をするかのように、ひとつ息を整えた。アレンの真剣な表情を目にして、何か大きな決意を感じ取ったからである。


 「ミアータ……。」

 彼は一度口を開きかけて、言葉を飲み込む。そして、もう一度深呼吸をしてから、ようやく言葉を紡ぎ出した。


 「俺は……この婚約を解消したいんだ。」


 その瞬間、まるで時間が止まったかのような感覚に陥る。ミアータの頭の中でアレンの言葉が反響する。「婚約を解消したい」――それはこの王国では重大な意味を持つ言葉だ。公爵家と侯爵家という、大きな家同士の結びつきを反故にすることになるのだから。

 ミアータは目を見開いたまま、しかし完璧な令嬢としての理性が彼女を支え、取り乱すことなく問いかける。


 「……理由を、聞かせていただけますか?」


 ほんの少し震え混じりの声ではあったが、彼女は懸命に平静を装おうとしていた。アレンはそれに対して眉を歪め、苦しそうに視線を伏せる。


 「お前は……完璧なんだよ、いつも。公爵令嬢らしく、微笑みを絶やさず、礼儀正しく、誰からも好かれている。でも……それが俺には息苦しかった。自分が小さく見えてしまうんだ。お前は、俺なんかよりもずっと立派で……本当に、何ひとつ欠点がない。」

 「……私が、息苦しかった? それは私の落ち度でしょうか……?」


 ミアータはゆっくりと言葉を返す。アレンの声には責めるような調子はなく、むしろ自分の小ささを嘆くような響きがあった。けれども、それが結果として婚約破棄へと繋がるとなれば、ミアータにとっては納得のいかない話でもあった。


 「それに……俺には、もう心に決めた人がいる。」

 決定的な告白だった。ミアータは「やっぱり」という思いをかすかに抱く。噂で聞いた『リリー』の名前が脳裏をよぎる。

 「彼女は……平民出身だが、とても明るくて、自由なんだ。俺のことをありのまま受け入れてくれる。彼女と一緒にいるときの方が、心が軽いんだ。」

 アレンはそう言うと、強く拳を握りしめ、「すまない」と最後に付け足した。


 ここで怒りを爆発させることも、悲嘆に暮れて泣き崩れることもできただろう。しかし、ミアータはそれをしなかった。むしろ、身体の芯が冷えていくように、静かな思考の渦へと沈んでいく。そして、目を閉じてゆっくりと息を整えると、瞳を開き、アレンを正面から見つめた。


 「……わかりました。アレン様のお気持ちはよく理解いたしましたわ。」

 低く穏やかな声で、しかしはっきりとした口調で応じるミアータ。その様子に、アレンは明らかに驚いた表情を浮かべる。まさか、こんなにも冷静に受け止められるとは思っていなかったのだろう。

 「ミアータ、お前……。」

 彼が言葉をつなごうとすると、ミアータはかぶりを振り、微笑みを浮かべる。


 「いいえ、お気になさらず。完璧であることが、かえってアレン様を苦しめていたのなら、それは私の不徳の致すところです。私は……私の至らない面が原因だと受け止めましょう。もし、平民出身のリリー様に本当の幸せを見いだせるのなら、どうかお二人で幸せになってください。」

 まるで感情の波がそっと引いていくように、ミアータの心は静寂に満たされていた。自分でも、この反応が本当に自分の本心なのか、それとも公爵令嬢としての“義務感”からのものなのか、判然としない。それでも、泣きたいはずなのに涙は出なかった。


 アレンは明らかに動揺していた。もしかしたら、ミアータが取り乱し、泣きすがることを想像していたのかもしれない。あるいは、怒りを爆発させて非難されることを覚悟していたのだろう。だが、ミアータはただ穏やかに微笑み、言葉を続ける。


 「ただひとつだけ、今まで一緒に過ごした時間には感謝しています。ありがとうございました、アレン様。」

 そう言って静かに一礼すると、ひるがえるドレスの裾を夜風がそっと揺らす。ミアータは振り返ることなく、その場から去ろうと足を進めた。



---


微笑みの消えた瞳


 ガゼボから出た瞬間、彼女は無意識にこぼれ落ちそうになる感情をぐっと抑え込む。今ここで泣くわけにはいかない――そう自分に言い聞かせながら、王宮の庭園を足早に歩く。

 舞踏会の喧騒がかすかに聞こえる大広間へと戻ろうとしたが、このまま人前に姿を出せば、周囲が混乱してしまうだろう。いずれ婚約破棄の話は公になるとしても、今この場で動揺を表に出すのは得策ではない。彼女の立場や家の名誉を守るためにも、冷静さを保たねばならないのだ。


 「ミアータ様、どちらへ……?」

 心配そうに声をかけてきた侍女を遠ざけるように手を振り、「ごめんなさい、少し外の空気を吸いたいの」とだけ言って、宮殿の外側の回廊へと向かう。

 そこは人影が少なく、冷たい石畳が夜の闇を映し出すように光っていた。時おり、護衛の騎士たちが見回りをしているが、ミアータに声をかけることはなく、ただ礼儀正しく一礼して通り過ぎる。彼女が高貴な身分であることをわきまえているからだ。


 ここでようやく、ミアータは心の整理をする時間を得る。夜風がドレスのスカートを揺らし、身体を少し冷やす。けれども、その冷たさがむしろ彼女を現実へと戻してくれた。

 「……婚約、解消……。」

 その言葉を口にしてみると、不思議と痛みが鮮明になる。小さく震える唇、胸に押し寄せる喪失感。完璧を求められ、完璧であることを当たり前としてきた自分が、婚約者から「完璧すぎる」と言われて捨てられる――何とも皮肉な話ではないか。


 悔しい、悲しい、虚しい……いくつもの負の感情が湧き上がってくるが、同時に安堵のようなものも感じている自分がいることに気づく。いつからか、アレンとの婚約は「義務」のように感じていた。彼の前で“完璧”を演じることが、自分の務めだと思っていた。

 それが、今この瞬間、すべて終わったのだ。



---


堂々たる退場


 そのまま王宮の敷地を出るのは無礼に当たるため、ミアータは回廊を一周して再び大広間の外側へ戻った。ここでは、まだ華やかな舞曲が響き渡り、社交の場が続いている。

 ミアータは意を決して、会場の扉を開けた。その瞬間、何人かが彼女の姿を認め、「あら、ミアータ様が戻られたわ」と囁く。だが、彼女は周囲に気づかれぬよう足早に歩き、クラレット公爵夫妻のもとへ向かった。公の場で退席を告げるなら、まず両親へ挨拶するのが礼儀である。


 「父様、母様、申し訳ありませんが、体調が少し優れないので先に帰らせていただきますわ。」

 娘の突然の申し出に、公爵夫妻は驚いた表情を浮かべる。

 「ミアータ、どうした? 顔色が悪いぞ。アレン殿と何かあったのでは……?」

 公爵は心配そうに尋ねる。しかし、ミアータはにこやかな微笑みを崩さず、「ご心配には及びません。少し頭痛がするだけですので」と頭を下げる。

 「では、お先に失礼いたしますわ。父様、母様はどうかごゆっくりと。」


 それだけ言い残すと、ミアータはまるで綺麗なドレスを纏った人形のように優雅な足取りで会場を後にした。見送る人々からは「お大事に」「ごきげんよう」といった声が飛び交うが、その表情には「あの完璧なミアータが珍しく体調不良?」という疑いが混ざっている。

 もっとも、真実を知る者はまだ限られたごく一部であり、ミアータ本人とアレン、そして本人たちの口から事情を聞いたであろうリリーのみ。周囲はただの病気かと心配しているだけだった。



---


車内での孤独


 クラレット公爵家の馬車に乗り込み、屋敷へと帰る道中――ミアータは背もたれにもたれかかり、ゆっくりと目を閉じる。暗い馬車の中に揺られながら、改めて事の重大さを噛みしめた。


 「婚約破棄……。両家の取り決めはどうなるのかしら。父様と母様にどんな説明をすれば……。」

 彼女の頭の中には、様々な問題が浮かんでは消えていく。貴族の婚約破棄とは、単に二人の仲が壊れたというだけでは済まされない。両家の家同士の取り決め、王国全体への影響、社交界での立ち位置――すべてがつながっているからだ。

 けれども、今さら取り繕っても仕方ないだろう。アレン自身の口から、はっきりと「婚約を解消したい」と告げられたのだから。ミアータが受け入れた以上、もう後戻りはできない。

 思わず、ぎゅっとドレスの裾を掴んで力をこめる。自分の体が小刻みに震えているのがわかるが、泣き出すわけにはいかない。心の底から泣き崩れたい気持ちもあるが、それは屋敷に戻って一人きりになってからにしよう――そう自分に言い聞かせた。



---


完璧なる「微笑みの薔薇」の仮面


 馬車を降り、夜風の冷たさを感じながら屋敷に入る。案内役の従者たちが「お帰りなさいませ」と出迎えるが、ミアータは淡い微笑みでそれに応じる。公爵令嬢として、いつも通りの振る舞いを崩さない。

 「ミアータ様、こんなに早くお帰りになるなんて。舞踏会はいかがでしたか?」

 優しい眼差しで問いかける侍女には、「とても盛り上がっていたわ。けれど、少し疲れてしまったから先に帰ってきたの。お休みなさい」と言うだけにとどめた。

 部屋まで付き添おうとする侍女たちを制し、彼女は自室の扉を閉じる。鍵をかける音が響くと同時に、フッとその場に膝をついた。誰にも見られない、たった一人きりの空間になって初めて、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちる。


 「……どうして……。」


 おそらく、心のどこかで結末を予感していたのかもしれない。それでも、実際に言葉として突きつけられると、あまりにも辛く、苦しい。今まで積み重ねてきた時間は何だったのか――そもそも、アレンとの婚約は“形”だけだったのかもしれない。

 ミアータは顔を両手で覆いながら、静かに泣いた。ドレスのまま床に座り込み、その華やかな衣裳がまるで夜闇に溶けていくように見える。涙がボロボロと落ち、フロアに濡れた跡を作った。


 こんな姿は、誰にも見せたくない。彼女は幼い頃から「公爵令嬢としての品格」を叩き込まれ、完璧であることが当たり前だと教えられてきた。だが、それが結果としてアレンを苦しめ、自分自身を傷つけることになるとは、夢にも思わなかった。

 とはいえ、こうして一人きりで泣くのも、今夜限りだろう。ミアータは、長くは嘆かないと決めている。たとえどんな苦境に立たされようとも、翌朝にはきっと「微笑みの薔薇」の仮面をかぶって、毅然とした姿を見せる。そうしなければ、公爵家の看板を背負う者として失格だからだ。



---


虚空に浮かぶ問い


 涙を流し尽くして少し落ち着いた頃、ミアータは頭を持ち上げ、かすかに月明かりの差し込む窓辺を見つめた。

 「完璧でいることが、そんなにも相手を苦しめるなんて……。私がずっと信じてきた“理想の貴族令嬢”という姿は、私のエゴにすぎなかったのかしら。」

 自問自答を繰り返すが、答えは見つからない。むしろ、これまで教わってきた貴族としてのあり方と、実際にアレンが感じた“息苦しさ”とのギャップに、彼女はどう向き合えばいいのか迷うばかりである。


 しかし、どれだけ嘆いても過去は変えられない。自分の育ちや在り方を否定するのは容易ではないが、事実として婚約は破棄された。その事実を受け止めたうえで、これからどうするべきなのか考えなくてはならない。

 ミアータは少し震える足で立ち上がり、ゆっくりと鏡台の前へ進む。そこに映るのは、目元の赤い、涙の跡が残る自分自身だった。いつもなら完璧な化粧を施し、微笑みを湛えた気高い公爵令嬢がそこにいたはずなのに、今は疲れ切って、儚げな女性が映っている。


 「これが……私、本来の姿なのかもしれないわね。」


 自嘲気味に呟いてみるが、誰が聞いているわけでもない。自分自身との対話だけが、この静かな夜の中で続いていく。

 やがて、彼女はドレスを乱暴に脱ぎ捨て、侍女を呼ばずに自分で手早く着替えを済ませる。そしてベッドに潜り込むと、枕に顔をうずめて再び小さな嗚咽を漏らした。悲しみと安堵がないまぜになった涙が、再び彼女の頬を濡らす。



---


夜明けへの一歩


 いつしか眠りに落ち、朝日が射し込む頃――ミアータは重たいまぶたをこじ開けるようにして起き上がった。頭痛こそ残っているが、少しは気力を取り戻していた。

 「……さあ、起きなくちゃ。」


 今までどおり、彼女には公爵令嬢としての責務がある。使用人たちが屋敷のあちこちを行き来し、朝食や今日の予定を整える音が聞こえる。まるで昨夜の出来事など存在しなかったかのように、日常は何事もなく続いていく。

 しかし、ミアータにとっては全く新しい“世界”の始まりだった。婚約破棄――それは大きな痛みを伴う出来事だが、もしかすると、これまでの束縛から解放されるチャンスでもあるかもしれないと、彼女の中のもう一人の自分が囁いていた。


 「完璧であることに囚われなくてもいいかもしれない。私らしい生き方を探してみるのも……悪くないのかも。」


 まだ答えはない。ただ、昨夜の苦しみに比べれば、その可能性を感じるだけでも救いだった。何より、ミアータは“他人を傷つけないために完璧であらねばならない”という価値観を見直そうとしている。アレンが平民の女性――リリーを選んだのは、彼の自由だ。ミアータはそれを尊重する。けれども、その結果として自分に得られる新たな道があるなら、それを探すのも悪くはないだろう。


 こうして、ミアータの「婚約破棄の夜」は幕を下ろした。悲しみと喪失感を抱えながらも、彼女は新しい一歩を踏み出す覚悟を固める。いつものように優雅な微笑みを浮かべながら、しかしその瞳の奥には、これまでの完璧な仮面の裏側で芽生えた決意の炎が揺らめいていた。



---



この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?