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第2話 凍える花嫁と閉ざされた扉

 クロウフォード侯爵家との「白い結婚」が正式に決まり、挙式まであと6日。ルシアーナ・フィオレットにとって、その6日間はあまりにも短く、それでいて濃密な時間であった。

 まずはじめに、母フロランスや妹マリアナ、屋敷の使用人たちへ現状を共有し、フィオレット家の今後をどうすべきかを話し合う必要があった。父を失い、名門伯爵家の経済が崩壊しかけている今、かろうじて伯爵の位を保ってはいるものの、その内実はスカスカだ。ましてや、この結婚がなければ、近いうちに屋敷を手放すことになる可能性も高い。いや、もしかすると既定路線だったのかもしれない。


 とはいえ、クロウフォード家の財政支援が入るというのは事実であり、実際、数日以内に大口の援助金が振り込まれることになっている。それだけで、今までの滞納分を一気に返済し、伯爵家としての最低限の体裁を取り戻すことができるだろう。ルシアーナにとっては、その点が唯一の救いであり、この「冷たい契約」を引き受けた大きな理由でもある。


 もっとも、その代償は決して小さくない。――愛のない結婚、離縁があれば家を取り上げられる可能性、そして冷酷無比と噂される旦那となる男の気配。ヴィクトル・クロウフォードが見せる表情には、相手を寄せ付けない一種の迫力があるように思われた。まるで何か大切なものを心の奥底に隠し、外部に対しては酷薄な仮面をかぶっているかのようだ。


 「……しかし、どんな男だろうと、わたしは家のために、そして自分自身のために負けるつもりはない」


 寝室の鏡に向かい、ルシアーナは自分を奮い立たせるようにそう呟いた。朝の薄暗い光が窓から差し込み、彼女の長い黒髪と白い肌を浮かび上がらせる。やがて明けきっていく空とともに、屋敷の中にも少しずつ人の気配が増えていった。



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冷たい契約に揺れる家族


 朝食の席では、久方ぶりに母フロランスと妹マリアナがそろっていた。母フロランスは体調の波が激しく、たいていは部屋にこもって過ごすことが多い。しかし今日ばかりは、娘の大事な報告を聞くために体を起こして来たようだった。まだ顔色は思わしくなく、皿に並ぶ食事もほんの少ししか口にしない。それでも、母は弱々しいながらも毅然とした表情を作っている。


 「ルシアーナ、あなたがこの家を守るために決断してくれたことは、母としては感謝の念に堪えません。でも……娘をそんな形で嫁がせることになろうとは、夢にも思わなかったわ」


 ぽつりぽつりと語る母の声には、やはり悲しみがにじんでいる。マリアナはまだ十代半ばという年頃で、状況を理解しきれていない様子だったが、それでも姉が何か大変な役割を背負っていることだけは感じ取っているのだろう。心配げに目を伏せていた。


 「……お姉さま、本当に行ってしまうの? わたし、どうしても信じられなくて。伯爵家が大変なのは分かってるけど……冷たい結婚なんて、あまりにもひどいよ」


 か細い声で訴えてくる妹の姿に、ルシアーナも胸が痛む。マリアナはまだ現実を受け止めきれずにいる。だが、すでに契約は結ばれ、挙式の日取りも決まっている以上、引き返すことはできない。ルシアーナは唇を引き結び、静かに、けれど力強く宣言した。


 「マリアナ、わたしはこれで終わりじゃない。むしろ、これからが始まりだと思ってるの。クロウフォード侯爵家へ行ったとしても、ただ耐え忍ぶだけの花嫁にはならないわ。……あの侯爵がどんなに冷たかろうと、わたしもフィオレットの名に誇りを持っているもの」


 マリアナは納得がいかないような表情を浮かべながらも、姉の真摯な目を見て何かを感じ取ったらしく、黙りこんでしまった。母フロランスは、そんな娘たちのやり取りを見守りながら、震える声で言う。


 「ルシアーナ……どうか、あなたの人生が不幸にならないように。クロウフォード家でどんな仕打ちを受けることがあっても、あなた自身の尊厳を忘れないで。わたしにはそれしか言えないわ」


 その言葉に、ルシアーナは大きく頷いた。親としては、娘の幸せを願うのが当然だ。たとえ形だけの結婚であろうと、どこかで望みを捨てずにいてほしいと思う気持ちもあるだろう。ルシアーナは決意を新たにし、その日の朝食を終えた。



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挙式に向けた準備と、ささやかな思惑


 結婚式は6日後、クロウフォード家が所有する郊外の礼拝堂で行われることが内々に決まっていた。大々的な披露や招待客の饗応は行わず、貴族にあるまじき地味な式で済ませるというのがヴィクトルの方針だ。社交界の注目を浴びたくないのは、フィオレット家としても同じである。債権者に知られれば余計な騒ぎを起こしかねない。ルシアーナの心中にも、必要最低限の挙式で構わないという想いがあった。


 一方で、クロウフォード侯爵家からは、婚礼に関する細かい指示がいくつも届いていた。ドレスの色や形、当日の段取り、同行する使用人の人数、挙式後に新居へ移動するスケジュール――すべてが徹底的に「効率」を重視したものだった。ルシアーナはその書類に目を通しながら、あまりの事務的かつビジネスライクな記述に、思わず苦笑してしまう。


 (さすが、“氷の侯爵”……。結婚という人生の大事すら、ビジネスの一環として捉えているのね。これなら、ほんとうに愛なんて微塵も望めないかも)


 そう嘆息しながらも、ルシアーナは気を取り直し、挙式当日のイメージを頭の中で描いてみる。せめて自分が纏うドレスぐらいは、娘としての最後の意地を見せたいところだ。クロウフォード家からは「白を基調とするシンプルなデザインであれば問題ない」と指示されていたが、ルシアーナとしては、どこかにフィオレット家のモチーフを入れたいと思っていた。


 伯爵家の紋章は、薄紫色の花をあしらった優美なデザインだ。かつての当主が、庭に咲く花を愛でていたのが由来だという。それがフィオレット家の象徴でもある。今のように没落しつつある状況でも、その家名を捨てるわけにはいかない。まして、ルシアーナの“これから”を賭ける日である以上、どうしても誇りを示したい。


 「クロウフォード家からのチェックが厳しいでしょうけど、メインの生地が白であれば、多少の装飾は大丈夫なはず。……作りかけのあのレースを活かせないかしら」


 ルシアーナは屋敷の奥にある作業部屋へ足を運んだ。そこには、過去に使いかけだったレース生地がいくつも保管されている。フィオレット家では、伯爵夫人が趣味で刺繍をしていたこともあって、質の良いレースが少なくなかった。しかし、今では家計が苦しいあまり、なかなか手を伸ばす余裕がなかったのだ。


 「……ここに、フィオレット家の紋章を描いたレースがあったはずなんだけど」


 ルシアーナが物色していると、メイドの一人がそっとやってきた。歳はまだ若いが、器用な縫製が得意な娘だ。彼女はルシアーナの目的を察したのか、小さな声で言う。


 「お嬢様、お探しのものはこちらでしょうか。先代の伯爵夫人……つまり、奥方様(フロランス様)が昔、刺繍されていたレースです」


 そう言って差し出されたレースには、確かにフィオレット家のモチーフがあしらわれていた。薄紫色の花びらが見事に描かれ、その周囲を優雅な曲線で縁取っている。シルクの手触りが心地よく、長年保管されていたわりに、しっとりとした輝きを失っていない。


 「……これだわ。これを使えば、クロウフォード家の規定に抵触することなく、わたしらしさを加えられそうね」


 ルシアーナはそのレースを宝物のように抱きかかえた。ささやかではあるが、これも自分の意地だ。もしクロウフォード家から叱責が来ても、挙式までに強行してしまえばどうということはない。少なくとも、ルシアーナは自分の花嫁姿を“ただの白いキャンバス”のまま終わらせたくはなかったのだ。



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思わぬ来客


 挙式まで残り5日となったある日、ルシアーナはリディアを伴って町まで買い出しに出ていた。普段なら使用人を行かせるところだが、彼女自身が確認したい物があったためだ。もっとも、邸内にはクロウフォード家の監視役――先日の秘書らしき人間も頻繁に出入りしており、ちょっと気まずい雰囲気ではあったが、今のところは“婚約者の移動”を制限するような指示は出ていない。

 それでも、慎重に人目を避けるように外へ出たのは、フィオレット家の事情をあまり大きく知られたくないという思いがあったからだ。すでに伯爵家の凋落は噂になっているとはいえ、変な詮索をされて挙式に支障をきたしてはたまらない。


 町の中心部にある雑貨店や仕立て屋を回り、必要な材料を揃えていく。豪華な買い物はできないが、最低限の完成度を保つためには些細な部品でも疎かにはできない。レースを飾るビーズや糸、ドレスに合わせる小物など、ルシアーナは目利きの良さを生かして、質の良いものを最低限の出費で手に入れようとしていた。


 「お嬢様、そのビーズでしたら、こっちの色のほうがレースと調和が取れるかもしれませんよ」


 リディアが棚から取り出した薄紫のビーズを差し出す。確かに、紋章に合わせるならこちらのほうが自然に馴染みそうだ。ルシアーナは感心したように微笑み、


 「ありがとう、リディア。いいわね、それ。値段は……ふむ、これならギリギリ予算内に収まるかしら」


 と、少し嬉しそうにつぶやいた。この小さな工夫が、今のルシアーナにとっては大切な“生きがい”のようなものだ。愛のない結婚を前にして、せめて自分の誇りを装いの中に残したい――その一心で動いている。


 必要な買い物を一通り終え、二人は裏通りを抜けて屋敷へ戻ろうとした。メインストリートを堂々と歩いてしまうと、知り合いや債権者に見とがめられる可能性があるからだ。まだ援助金が届く前だけに、余計なトラブルは避けたい。

 ところが、裏通りを曲がりかけたとき、リディアがふと立ち止まった。


 「お嬢様、あれを……」


 視線の先には、何やら黒い馬車が止まっている。その馬車には、金色の家紋があしらわれていた。見慣れない紋章だが、かなり高位の貴族か、あるいは豪商のものではないだろうか。馬車の周りには数人の男がいて、中にはフードを深く被った不審な人物もいる。どこか物々しい雰囲気だ。


 「……何かしら。ここはあまり人目に付く場所でもないのに、あんな立派な馬車で来ているなんて」


 ルシアーナは訝しげに思ったものの、余計な詮索はしないほうがいいと判断し、足早に通り過ぎようとする。だが、そのとき馬車の扉が開き、ある人物が姿を現した。目が合ってしまったわけではないが、その存在感はひときわ異彩を放っている。


 ――黒い長髪を撫でつけ、瞳はまるで夜の底のように暗い色を湛えている男。

 衣服は質が良いが、どこか人の隙を突くような風貌。高貴でありながら禍々しさを感じさせる雰囲気があった。彼が姿を現した瞬間、周囲の男たちが一斉に頭を垂れる。どうやらこの集団の中心人物は、この男らしい。


 ルシアーナは思わず足を止めた。何か言い知れぬ不安が胸をよぎる。リディアも同じように固唾を呑んで、その男の動きを見守っていた。すると、男は馬車を降り、路地の奥へと姿を消していく。周りの男たちも続くが、その一人がこちらの視線に気づいたのだろうか。警戒するように睨んでくる。ルシアーナは慌ててリディアを促し、足早にその場を離れた。


 (……何だったのかしら。あの黒髪の男――)


 フィオレット家が関わる話ではないかもしれないが、貴族の馬車がこんな場所に止まっているのは異様だった。もしかすると、これから何か騒動が起きる前兆なのかもしれない。今はクロウフォード侯爵家のほうも敏感になっている。余計な火種に巻き込まれるわけにはいかない。ルシアーナは心を落ち着けるように深呼吸し、気を取り直して屋敷へ戻った。



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氷の侯爵からの通達


 フィオレット邸に戻ってみると、玄関ホールにエヴァン執事の姿があった。いつになくそわそわしている様子で、ルシアーナに気づくと駆け寄ってくる。


 「お嬢様、大変です。先ほどクロウフォード家の使者が見えられて、『本日午後、侯爵様が屋敷へお越しになる』との連絡がございました」


 「ヴィクトル・クロウフォード様が、直接ここへ? 一体何の用事なの?」


 ルシアーナは思わず戸惑いの声を上げる。挙式まではまだ5日あるというのに、わざわざ侯爵自身が足を運ぶなど、よほどの緊急事態なのだろうか。クロウフォード家ほどの大貴族ともなれば、書簡や秘書を介して用件を済ませるのが普通だ。

 エヴァンは肩をすくめるようにして答える。


 「それが、特に詳しい説明はなく……『重要な話がある。準備しておけ』とだけ。急いで客室の掃除をさせておりますが、何か不都合があれば、せめて早めに仰ってほしいものです」


 無理もない。没落とはいえ、ここは伯爵家の館だ。最低限の礼儀を整えたいという執事の思いも分かる。ルシアーナは「分かったわ、ありがとう。私も身なりを整えておくわね」と応じると、急ぎ自室へ向かった。



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再会――その瞳に映るもの


 午後の早い時間帯、館の外で馬車が止まる音がした。ルシアーナが玄関ホールに降りると、すでにヴィクトル・クロウフォードの姿があった。冷たい光を宿す灰色の瞳、プラチナブロンドの髪、その整った顔立ちはやはりどこか鋭く、こちらを威圧する雰囲気がある。彼の傍らには例の秘書が控え、書類鞄を抱えている。


 「お待ちしておりました、ヴィクトル様。突然のご来訪とは……何かお急ぎのご用件でしょうか」


 そう問うルシアーナの声に、ヴィクトルは軽く視線を投げるだけだった。彼は挨拶や世辞などを一切飛ばして、玄関ホールに立ったまま、低い声で切り出す。


 「婚礼の準備状況を確認するために来た。……加えて、あなたが挙式後に守らねばならない規定を、改めて伝えておきたい。どちらも文書で事前に渡してあるはずだが、直接口頭でも念押ししておく必要があるだろう」


 まるで“わずらわしい事務手続き”を処理するかのような言い分に、ルシアーナはわずかに眉根を寄せた。結局のところ、彼は自分の意向を一方的に押し通すために来たのだろう。しかし、伯爵家の面前で反論するわけにもいかない。彼女は深く息を吸い込み、冷静さを保ちつつ応じた。


 「かしこまりました。では、客間でお話を伺わせていただきます。どうぞこちらへ」


 ルシアーナが案内するのを合図に、ヴィクトルと秘書は何のためらいもなく館の奥へと足を進める。その背中を見つめながら、ルシアーナはほんのわずかな違和感を覚えた。――彼の足取りが、なぜだか以前よりも不安定なように見えたのだ。かすかな空気の揺れ、とでも言うのか。しかし、それを深く考える暇もなく、彼はずかずかと客間に入っていった。



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契約条項の再確認


 客間に入ると、秘書が書類鞄から何枚もの紙を取り出し、テーブルに広げる。そこにはすでにサインを交わした婚姻契約の要約と、挙式当日の流れ、クロウフォード家へ移ってからの生活ルールなどが書き連ねられていた。ルシアーナはそれらを一瞥しつつ、ヴィクトルの様子を探る。


 「まず、挙式当日のスケジュールは変更はない。昼前に礼拝堂へ集合し、あくまで形式的な式を執り行う。招待客はほぼなし。証人として数名が立ち会う程度だ。その後、車でクロウフォード家の本邸へ向かい、夕刻には新居へ落ち着く」


 淡々と読み上げるヴィクトルの声には、人間味が感じられない。ルシアーナは少しばかり呆れを覚えながら「承知しました」と答える。もともと知っていた予定なので、それ自体に意義はない。ただ、“ほぼなし”とされた招待客には、フィオレット家の家族すら含まれるのかどうか気になった。実際、母や妹は来られるのだろうか?


 彼がひととおり読み上げ終えると、秘書が目を通した書類を一旦まとめ、改めて言う。


 「ルシアーナ・フィオレット様におかれましては、挙式後は侯爵家の妻として公の場に立つ機会も増えるでしょう。クロウフォード家の名誉を損なう言動はご遠慮いただきたい。また、家の経済的事情や内部の動向を他言することも厳禁です。もし違反があれば、契約破棄の上、フィオレット家の負債をすべて即時返済させていただくことになります」


 最後の言葉に、ルシアーナは息を飲んだ。“この結婚を破棄したいなら、家もろとも破滅しますよ”と示唆しているに等しい。それが“白い結婚”という冷たい契約の重みだ。そう分かっていても、改めて言われると胸に重くのしかかる。


 「重々承知しております。……けれど、ひとつお願いがあります」


 ルシアーナが言いかけると、ヴィクトルは初めて少しだけ興味を示すように目線を動かした。


 「何だ?」


 「挙式当日、母と妹だけは式に同席させていただけないでしょうか。最低限の人数しか呼ばないのは分かりますし、大々的な披露宴は不要だと思っています。でも……家族だけは、娘の嫁入りを見届ける権利があるのではないかと」


 母フロランスと妹マリアナが来られるかどうかは、ルシアーナにとって譲れない点だった。限界まで体を押してでも、母はきっと式に出たいと言い張るだろうし、幼い妹にとってもそれは大きな節目になるだろう。ヴィクトルが「駄目だ」と言えばそれまでだが、ここで引き下がるわけにはいかない。


 しばしの沈黙が流れる。傍らの秘書は書類を整える手を止め、ヴィクトルの回答を待っている。ヴィクトルは深く息をつくようにして、低い声で言った。


 「……構わない。だが、多くは呼べない。数人以内に抑えるんだ。これ以上、余計な人間を呼んで騒がれるのは困る。結婚式はあくまで形だけでいい。下手に祝福されたいなどと思うな」


 最後の一言は、まるで“そんな暇があれば働け”とでも言わんばかりの冷淡さを帯びていた。しかし、少なくとも家族の立ち会いは許可された。ルシアーナは胸を撫で下ろし、「ありがとうございます」とだけ言う。ヴィクトルはそれに応えることもなく、さも当然というように視線をそらした。



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偽りの笑顔


 契約内容の確認と挙式の予定、それから今後の生活面について、ヴィクトルと秘書は立て続けに話を進めていく。ほとんどが事前の書類通りだったが、ところどころ細かい変更や追加事項があり、ルシアーナは頭を使わなければならなかった。例えば、式後の滞在先はクロウフォード家の広大な本邸ではなく、市街地にある別邸になるらしい。ヴィクトルも仕事柄、都心部に近いほうが好都合だということで、そちらを拠点にするのだという。


 「何か質問は?」


 最後にヴィクトルがそう尋ねる。ルシアーナは頭の中を整理しながら、先ほどから微妙に気になっていたことを切り出した。


 「……ひとつだけ。婚礼の準備とは別件なのですが、最近、町の裏通りで妙な人物を見かけました。馬車に金の紋章があって、黒い髪の男性が人目を避けるように移動していて……もしかしてクロウフォード家の関係者かと思ったのですが、ご存じありませんか?」


 ヴィクトルは意外そうに目を細める。クロウフォード家は貴族社会の頂点に近い地位にある分、敵も多い。もしかすると、あれは競合する相手や商売敵の一派かもしれない。ルシアーナには、そんな予感があった。


 「金の紋章、黒髪の男……特に思い当たらないが。何か問題があるのか?」


 「いえ、ただ妙に気になっただけです。……もし、クロウフォード家に仇なすような輩なら、挙式にも悪影響があるかもしれないと思って」


 ヴィクトルは鼻で息をつく。まるで「余計な詮索をするな」と言わんばかりだが、その一方で少しだけ考え込み、秘書に目線を送った。秘書も首を横に振り、


 「こちらでは、そのような馬車の情報は掴んでいません。ですが、侯爵家の商売敵か、あるいは裏社会の大物か……警戒しておいたほうが良いかもしれませんね。いずれにしても、今の段階では確証がありませんので、しばらくは静観といたしましょう」


 そう淡々と言い、再びテーブル上の資料をかばんに収め始めた。ルシアーナはやはり腑に落ちない思いを抱えつつも、深入りはすまいと言葉を引っ込める。ヴィクトルと秘書が何らかの警戒を示しているなら、それで十分だ。

 一方、ヴィクトルの表情は、どこか刺々しさが増しているように見えた。彼は急に立ち上がり、椅子を乱暴に引いて言う。


 「この件は以上だ。挙式まで、あなたは余計な行動をするな。今さらスキャンダルが起きたら面倒だ」


 「分かりました。でも、わたしは別に何も――」


 「いいから黙っていろ」


 ヴィクトルの冷たい声音に、ルシアーナは言葉を失った。それ以上何かを言えば、また契約を持ち出されるかもしれない。相手に媚びるつもりはないが、今は耐えるしかない。彼が踵を返すように客間を出て行くのを、ルシアーナはただ見送ることしかできなかった。



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仮面の裏側


 館を出る直前、ヴィクトルがほんの一瞬だけ振り返った。灰色の瞳がルシアーナを捉えたかと思うと、すぐに視線を外す。その刹那、彼の瞳に何かの揺らめきが走ったように見えた。しかし、それを確かめる間もなく、彼はさっさと玄関の外へ出て行ってしまう。


 ルシアーナは複雑な思いでその背中を見送りながら、自分の胸に芽生え始めた小さな疑念を噛み締めていた。――彼は本当に、ただの冷酷で無慈悲な人間なのだろうか? 確かに人当たりは最悪だが、その奥に閉じ込められた何かがあるようにも感じる。


 (……わたしが気にすることじゃないのかもしれないけど。愛情なんて期待してないとはいえ、あの様子、普通じゃない)


 もしかすると、ヴィクトル・クロウフォードという男が抱えている闇は、思った以上に深いのかもしれない。そう思ったところで、ルシアーナにできることは限られている。この結婚は“ビジネス”なのだから、下手に首を突っ込めば逆に危険だ。

 やがて、玄関前に待機していたクロウフォード家の馬車が動き出す音が聞こえた。ルシアーナはしばしその場に立ち尽くし、去っていく車輪の音を耳にしながら、重苦しい感情を抱いたまま動けずにいた。



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夜の囁き


 日が沈むと、フィオレット家の館はまた静寂に包まれる。半分以上の部屋はもう使われておらず、少数の使用人が寝所に下がれば、廊下には一人歩く音すら響かないほどだ。ルシアーナは自室に戻っても落ち着かず、廊下を行ったり来たりしていた。


 (あと5日……あっという間に、あの冷たい館へ嫁ぐことになるのね)


 想像するだけで息苦しくなる。だが、ここで逃げ出すわけにはいかないし、逃げるつもりもない。自分が選んだ道だ――そう何度も自分に言い聞かせる。

 だが、心のどこかで、確かに何かが叫んでいた。

 “こんな相手との結婚で、本当に自分の人生は報われるのか?”

 “フィオレット家を救うといっても、結果的にクロウフォード家の所有物になりかねないのではないか?”

 不安は尽きない。だが、それでも歩みを止められないのが、ルシアーナの矜持だった。


 ふと、暗い廊下の角を曲がったところで、メイドの一人と鉢合わせした。彼女は洗濯物を抱えており、ルシアーナに気づくと慌てて頭を下げる。


 「お嬢様、こんな時間まで何を……」


 「少し考え事をしていただけよ。……こんな遅くまでお勤め、本当にありがとう。無理しないでね」


 そう優しく声をかけると、メイドは恐縮した様子で微笑む。少ない人員で屋敷を回しているため、一人一人が相当の負担を抱えている。ルシアーナもそれを分かっているからこそ、彼らを労わりたいと思っていた。だからこそ、少しでも現状を改善したい――その一心で、この結婚を受け入れたのだ。

 メイドと別れると、また静寂が戻ってくる。ルシアーナは廊下の窓から外を見下ろした。夜闇が深く広がり、月が雲間に隠れたり姿を現したりを繰り返している。まるで、自分の心の揺れを映し出すかのようだった。



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小さな反撃の準備


 翌朝、ルシアーナは早速、前日に買い揃えたビーズや糸、それに屋敷に保管されていたレースを使って、挙式用ドレスの仕上げに取りかかった。表向きには「ドレスの大部分は既製品を用いる」という形でクロウフォード家に通達してあるが、実際にはそこにフィオレット家のモチーフを足すことを画策している。ほんの少しの意地と反抗心だ。

 貴族女性が裁縫道具を持って作業するのは珍しいことではない。むしろ手芸はたしなみの一つとしてよく推奨されているが、ここまで本気でドレスの改修をするのは異例だろう。だが、ルシアーナは誰の手も借りず、自分の意志を形にすることを望んでいた。リディアが「手伝いましょうか」と声をかけても、ルシアーナは首を横に振る。


 「ありがとう。でも、これはわたし自身で仕上げたいの。……ほんの少しの自己満足かもしれないけど、わたしの“誇り”を詰め込みたいのよ」


 リディアはその思いを理解したのだろう。彼女は「分かりました」と言って、針やはさみの場所を整えたり、飲み物を用意したりと、陰ながら支えてくれる。黙々と縫い進めるルシアーナの横顔には、まるで闘志が燃えているような輝きがあった。


 ――翌日、翌々日と作業を続け、挙式まであと3日というところで、ようやくドレスの改修は形になってきた。白いサテン生地の裾には薄紫色のレースがあしらわれ、そこにフィオレット家のモチーフがさりげなく添えられている。明るい場所で見ると、淡い花の模様がふわりと浮かび上がり、美しくも儚い印象を与える仕上がりだ。


 「……これでいい。わたしがクロウフォード家に行っても、フィオレット家の血と誇りは消えていない。そういうメッセージを、少しでも込めたかったの」


 満足げに呟いたルシアーナの瞳には、確かな光が宿っている。クロウフォード家との冷たい契約に従うだけではない、自分の意思を少しでも形にすること。それは彼女にとって、一種の“ささやかな反撃”だった。



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運命の足音


 そして、結婚式まで残り2日。フィオレット家は慌ただしくなった。最低限ではあるが、母と妹が挙式に同行するための準備や、ルシアーナが屋敷を離れた後の家の管理体制などを整えなければならない。とはいえ、クロウフォード家からの借金返済金はすでに振り込まれ、急を要する取り立て屋の姿は消えつつあった。使用人たちも少しは安堵しているが、いかんせん伯爵家そのものの衰退傾向は変わらない。


 結婚式当日の流れを細かくシミュレーションしながら、ルシアーナは内心で何度も深呼吸をしていた。数日前にヴィクトルに言われた「余計な行動はするな」という言葉が頭をよぎるが、もう後戻りはできない。いよいよ、本当に“白い結婚”の幕が上がろうとしている。


 そんなある夜、ルシアーナは自室の窓辺に座り、外を眺めていた。月は雲に遮られ、星も見えない。まるで夜の世界に閉じ込められたような漆黒の闇が広がっている。

 (あと2日……。わたしは、この館を出て行く。クロウフォード家の門をくぐった瞬間、何が待っているんだろう。どんな仕打ちを受けるのか、想像もできない。でも、絶対に屈しない)


 そっと瞼を閉じると、またあの黒髪の男の姿が脳裏に浮かんだ。町の裏通りで見かけた不可解な集団。一度気にし始めると、なぜかモヤモヤと胸に引っかかる。ヴィクトルも秘書も特に言及しなかったが、あれは何らかの波乱を予感させるものだったのではないか。

 自分の結婚式と、その“黒髪の男”――まったく無関係であってほしいと願うが、どこか落ち着かない。そして何より、クロウフォード家と敵対関係にある何者かであれば、今後の暮らしに暗い影を落とすかもしれない。


 (――いくら相手が冷酷だといっても、わたしも巻き込まれるのは御免だわ。今はあまり深入りしないほうがいいでしょうね)


 思考が堂々巡りをし、ルシアーナはため息をついた。やがて、疲れ果ててベッドに横になっても、すぐには眠れず、天井を見つめ続ける。新たな生活への不安、家族との別れ、意味のない形での結婚。そして、侯爵の瞳に透けて見えた闇――すべてが頭の中で絡み合っていた。



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次なる幕開けへ


 朝日が昇ると、挙式まで残り1日。フィオレット家はいつになく静かな空気に包まれていた。決戦前の張り詰めた空気と言うべきか。使用人たちは慣れないながらも、一生懸命に館の掃除をしている。結婚式が終われば、クロウフォード家からさらなる指示があるかもしれない。そうなれば、使用人の配置や役割分担も大きく変わることになるだろう。

 ルシアーナは最後の仕上げとして、ドレスに付け忘れていた小さなパーツを縫い付けていた。薄紫色の小花がレースの隙間にちょこんと顔を覗かせる。その繊細さが、彼女の心をほんの少しだけ温めてくれる。なにより、これこそが「わたしはフィオレット家の娘である」という誇りの証なのだ。


 やがて、準備のすべてが整うと、ルシアーナは深い呼吸をして自分を落ち着けた。次の日の昼前には礼拝堂へ向けて出発し、短い挙式を経て、そのままクロウフォード家の車で都心の別邸へ移るという段取り。母と妹にも同行してもらい、式を見届けてもらえることになっている。


 「……それじゃあ、あとは神に祈るだけね」


 苦笑しながらそう呟いたルシアーナの横顔には、覚悟の色がはっきりと浮かんでいた。

 どんなにつらくても、屈しない。彼女は自らの手で、“白い結婚”にザマァを添える未来を掴みとると誓ったのだ。形ばかりの契約をするなら、それを逆手に取ってでもこの家を守り、そして自分の生き方を貫いてみせる。それが、伯爵家の長女として培ってきた意地であり、ルシアーナの“矜持”である。


 残り1日を迎え、結婚式の前夜。フィオレット家の館は物音ひとつせず、深い闇に包まれていた。ルシアーナは自室の窓際で、かすかな月明かりを眺めながら、最後の夜を噛みしめる。もしかすると、ここで過ごす夜はもう二度とないかもしれない。それでも、涙をこぼすことはしなかった。

 “わたしは、もう覚悟を決めた。”

 すべては明日。クロウフォード侯爵家との白い結婚がどんな未来をもたらすのか――それは誰にも分からない。だがルシアーナは確かに、自らの意志で立ち向かう決心をしていた。真っ白なドレスの裾に忍ばせた薄紫の誇りを胸に、冷酷な扉をこじ開ける。その先に待つのが破滅でも、あるいは新たな可能性でも、彼女はただ前を向いて進むしかない。

 夜が明ければ、運命の歯車が大きく動き始める。


 こうして、フィオレット家の長女ルシアーナは、いよいよ次章で“白い結婚”という契約の祭壇へと赴く。その道程には苦難と計略、そしてほんの少しの奇跡が潜んでいるのかもしれない。誰もが先を知らぬまま、夜は静かに、しかし確実に明けていくのだった。



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