目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第4話 囚われの花嫁と逆転の楔

 1.閉ざされた屋敷、閑寂の裏側


 クロウフォード侯爵家の別邸での生活が始まって数日が経った。

 雨は一向に止まず、空は依然として雲に覆われている。湿度の高い空気が辺りに立ちこめ、まるでこの屋敷全体を呪縛するかのように重苦しい雰囲気を漂わせていた。ルシアーナ・クロウフォード(旧姓フィオレット)は、屋敷内を自由に動けるとはいえ、実質的には“青の部屋”を中心とした狭い行動範囲に閉じ込められていた。

 使用人たちの態度は、相変わらず必要最低限の対応にとどまる。挨拶をしても、返事はそっけなく、どこか警戒心を滲ませている者も少なくない。まるで、屋敷の主人ヴィクトルから「夫人に無用な接触をするな」というお達しが出ているかのように思えた。


 (このままでは何も分からないままだわ……)


 ルシアーナは曇りガラス越しに雨の庭を眺めながら、深く息をつく。ここへ嫁いできたのは、ほんの数日前。にもかかわらず、あの黒狼のリュシアンが現れ、激しい押し問答の末に去っていくという事件が起きた。屋敷の使用人の動揺や、ヴィクトルの苛立ち具合を見る限り、あれは氷山の一角にすぎないと感じられる。

 愛情のない夫婦関係どころか、敵対組織との衝突まで抱える家の現状は、ルシアーナにとって想像以上に厳しいものだった。もしヴィクトルが、今後も黒狼との戦いにのめり込んでいくなら、それはフィオレット家にとっても大きな危険に繋がる。そう直感するほど、リュシアンの態度は異常なまでに攻撃的だったのだ。


 「……こんな状態で、“ざまぁ”を返すなんて、本当にできるのかしら」


 ぼんやりと窓を眺めながら、ルシアーナは自嘲する。自身が嫁ぐことで伯爵家の借金は返済されたが、だからといって伯爵家の将来が約束されたわけではない。下手をすれば、クロウフォード家が黒狼に敗れたり、あるいはヴィクトルが何らかの形で破滅するような事態になれば、連動してフィオレット家も危機に陥る可能性があるのだ。

 (……だからこそ、こんなところでじっとしてはいられない。わたしが動かなくては)


 使用人の話や、偶然目にした書類の断片から考察するに、“黒狼”は裏社会で暗躍する一大組織のようだ。そしてヴィクトル・クロウフォードは、過去に何らかの形で彼らと手を組んだ、もしくは利害が絡んだ一件を抱えているのではないか。それが破談になり、今は敵対関係にある――そう推測できる。

 ルシアーナは、髪を束ねたリボンを軽く引き締めるように触れながら、胸の奥で静かに意欲を燃やした。


 (黒狼が何を狙っているのか、そしてヴィクトルが何を隠しているのか――わたしがそれを探って解決することができれば、この愛のない結婚生活にも“活路”が見えてくるかもしれない)


 怯えているだけでは、いずれ全てが呑みこまれてしまう。彼女はあくまで“伯爵令嬢”であり、ここにただの囚われ人として存在しているわけではないのだ。形だけの契約でも、自分で切り拓く道を見つけようと決意する。そうしなければ、せっかく背負った犠牲が報われない。



---


2.冷たき主の書斎へ


 そんなある日のこと、夕刻が近づく頃に執事のアイザックがルシアーナの部屋を訪れた。

 「失礼いたします。奥様、旦那様(ヴィクトル)が“執務室に来るように”と申しております」

 ルシアーナは少しだけ身構えた。ヴィクトルは必要最低限しか彼女と顔を合わせない主義のようで、ここ数日はまったく接触がなかったのだ。何の前触れもなく呼びつけるなんて、また面倒な制限を言い渡されるのではないか――そう思うと胸がざわつく。

 「わかりました。すぐに参ります」


 鏡の前で身支度を整え、ドレスの裾を軽く直す。色味は落ち着いたラベンダーグレイを選んだ。かつてフィオレット家の象徴であった“薄紫”を意識しながらも、クロウフォード家の雰囲気に合わせた控えめな装いだ。

 廊下を歩き、屋敷の奥にある執務室へ。豪華なカーペットの上を進むと、使用人たちが一瞬こちらを見るが、すぐに視線をそらす。ルシアーナは気にしないふりをして扉の前に立ち、控えめにノックした。


 「……入れ」

 低く響く声が扉の向こうから聞こえる。


 執務室の中は、以前と変わらず書類が山積みになっていた。重たい調度品に囲まれた部屋の奥に、ヴィクトルが椅子に腰掛けている。机の上には大きな地図と、何やら工業製品らしき図面、それに契約書の類と思しき書類が広げられていた。ルシアーナが静かに頭を下げて挨拶しても、ヴィクトルは目線を上げない。

 「呼び出しとのことですが、何かご用件でしょうか?」


 ルシアーナがそう問いかけると、ヴィクトルは書類をパラリとめくり、ようやく口を開く。

 「今度、クロウフォード家が関わる“商談”がある。取引相手は地方の有力貴族だが、あいにく日程が急になった。俺は明日から数日、外泊になるかもしれん」

 「外泊……ということは、この屋敷には戻られない?」

 「そういうことだ。お前はここにいればいい。勝手に屋敷の外へ出ないように。ただし、最低限の社交辞令くらいは知っているだろうから、もし俺の仕事相手が訪ねてきたら、それなりの応対をしておけ。呼んでもいない客なら追い返しても構わん」

 突き放すような言葉に、ルシアーナは微妙な心境になる。彼は自分の妻としての役割を求めているわけではなく、あくまでビジネス上の“飾り”として見ているのだろう。

 「かしこまりました。……ほかに、わたしが心がけることはありますか?」

 念のため確認すると、ヴィクトルは「うんざりだ」と言わんばかりに眉をひそめる。


 「余計なことをするな。屋敷の外に出るな。俺やクロウフォード家の名誉を損なう真似はするな。それだけだ」

 およそ夫婦間の会話とは思えない、冷えきった指示に、ルシアーナは苦い笑みを噛み殺す。

 (やはり……。形式的な『妻』として、最低限の振る舞いだけしていろ、というわけね)


 しかし、ルシアーナにとって、それはむしろ好都合とも言えた。ヴィクトルが留守にするなら、彼の目を気にせず、屋敷内を調べられるかもしれない。黒狼との因縁の手がかりを探す絶好の機会だろう。

 「承知しました。……お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 ルシアーナがそう言うと、ヴィクトルは一瞬だけ目を上げて、冷ややかな瞳で彼女を見た。何か言いかけたようにも見えたが、結局は黙ったまま書類に向き直る。

 その横顔には疲労の色が宿り、どこか脆さを感じさせる。ルシアーナは思わず声をかけそうになるが、今はすべてが無駄に終わるだろうと悟ってそのまま執務室を後にした。



---


3.手がかりを探して


 翌朝、早い時間にヴィクトルは屋敷を出て行った。秘書と数名の従者を連れ、馬車で外へ。執事のアイザックや主要な使用人たちも総出で見送りをする中、ルシアーナは距離を置いてその光景を眺めるにとどまった。

 やがて、門が閉じられ、別邸は静寂に包まれる。ヴィクトルという主の不在は、屋敷内の雰囲気をいくらか緩めたように感じられた。使用人たちも重苦しさから少し解放されたのか、言葉こそ少ないままでも、微妙に足取りが軽やかだ。


 (さて……今がチャンスよね)


 ルシアーナはさっそく行動を起こすことにした。表立って屋敷を探り回ると怪しまれるため、まずは人目につきにくい時間帯や場所を選びながら、少しずつ書斎や倉庫、物置部屋を覗いてみるのだ。かつてフィオレット家でも、父の部屋を借りて書類を読み込み、家計や商談を学んだ経験がある彼女にとって、書類をざっと読み解く程度の素養は備わっている。


3-1.書斎の引き出し


 昼下がり、執務室ほど厳重ではない「副書斎」に目をつけたルシアーナは、そっとドアを開けて中に入った。ここは使用人が日誌を付けたり、館の簡易帳簿を管理したりする場所で、以前ちらりと覗いたことがある。

 棚には古いファイルや書類が積まれ、埃が薄く積もっている。ルシアーナは袖で埃を払いながら、目を凝らしてみる。クロウフォード家の歴代当主の記録、納品書、各種証明書――そういったものが多く並ぶ中、とある引き出しに鍵がかかっているのを見つけた。


 (鍵……さすがにこれは勝手に壊すわけにはいかないわね。でも、開けてみたい)


 彼女は道具箱を物色し、細い針金のようなものを見つけた。さすがに錠前を破るのは容易ではないが、フィオレット家にいた頃、使用人からちょっとしたコツを教わったことがあった。幼い頃には、閉じ込められた倉庫から脱出するために鍵をいじったこともある――そういう小さな経験が、いま活きるとは思わなかった。

 無理やり針金を差し込み、カチリ……と微かな音を立てる。何度かトライするうちに、運よく錠が外れた。心臓が高鳴るが、それを抑えながら引き出しをそっと開ける。


 そこにはいくつかの封筒が並び、表書きには“B.W.”という謎のイニシャルが記されている。

 (B.W.――ブラックウルフ? まさか、黒狼の略……?)


 息を呑む。封筒を開くと、中に手紙やメモが何枚か入っていた。読み進めると、黒狼のリュシアンがヴィクトルに宛てたと思しき文言が羅列されている。

 「我らの協定を遵守せよ」「このまま破棄するなら、クロウフォード家もろとも崩壊させる」――脅迫とも取れる言葉が並ぶ一方で、「共同事業の失敗を挽回する手段を示せ」「利潤の分配が変わるなら、話し合いの余地はある」など、ビジネスライクな要素も感じられた。


 (やっぱり、クロウフォード家は一時期、黒狼と手を組んでいたのね。何か大きな商売か事業か……それがうまくいかず、今は対立状態にあると)


 この文面から察するに、両者は元々“ある目的”のために互いに利用し合っていた関係らしい。ところが、何らかの理由で決裂した。その挙句、リュシアンは強硬な手段を取り始めている――その事実がうかがえる。

 さらに、束の奥には、ヴィクトルが黒狼に宛てて出した下書きらしき手紙も見つかった。そこには「こちらも譲歩するつもりはない。もしこれ以上の干渉があれば、全力で叩き潰す」といった強気の言葉が並んでおり、激しい衝突の予感を孕んでいた。


 (両者とも一筋縄ではいかないわね……。ここにわたしが巻き込まれると考えると、正直気が重いけど――逃げるわけにはいかない)


 ひととおり目を通し、ルシアーナは手紙を元通りに封筒へ戻して引き出しを閉めた。

 (黒狼のリュシアンは単なる荒くれ者の集団というわけではなく、裏で大きなビジネスを牛耳る組織かもしれない。ヴィクトルも、その力を当てにしていた時期があったのか)


 これで、ただちに事態を打開できるわけではないが、ルシアーナにとっては“大きな一歩”だった。ヴィクトルが何を守ろうとしているか、あるいはどうしてそんな危険な橋を渡っていたのか――今後の行動の指針になるからだ。

 もしヴィクトルがこのまま強硬に対立を続けるなら、フィオレット家の行く末も安泰ではいられない。逆に言えば、何らかの形で両者の衝突を回避できれば、ルシアーナにも“活躍”の場が生まれるのではないか。そんな予感が、彼女の胸をかすかに躍らせた。



---


4.不意の来訪者と、偽りの夫人


 翌日、ルシアーナが書庫の整理をするふりをしながらさらに情報を探していたところ、玄関ホールの方で騒ぎが起きた。どうやら、何者かがアポイントなしで訪問してきたらしい。アイザック執事や使用人たちの戸惑う声が微かに聞こえる。

 (また黒狼が押し寄せてきたのかも……?)


 急いで様子を見に行くと、そこには意外な人物が立っていた。

 「クロウフォード侯爵様はご不在だと伺いましたが、ぜひとも奥様にお目通り願いたいのです。わたくし、ラトレイ男爵家の令息でございます」

 そう名乗ったのは、まだ二十代前半くらいだろうか、柔和な笑顔を浮かべた青年。仕立ての良いスーツに身を包み、控えめな瀟洒なブートニエールをつけている。明らかに荒事とは無縁の雰囲気だ。


 「大変申し訳ございませんが、旦那様も奥様もお忙しく――」

 アイザック執事が困惑して断ろうとした矢先、ルシアーナは意を決して前へ出る。

 「いえ、少しならお時間をいただきましょう。……わたしが“奥様”です」

 名乗りをあげると、ラトレイ男爵家の青年は安堵したように微笑み、深々と頭を下げた。


 「これは失礼をいたしました。お会いできて光栄です、クロウフォード侯爵夫人……お噂はかねがね伺っております。急な訪問で恐縮ですが、実はクロウフォード家にご相談したい案件がありまして」

 柔らかな物腰に、ルシアーナは少し不思議な感覚を覚える。クロウフォード家の周辺人物といえば、硬い空気か、ゴリゴリの商魂、あるいは黒狼のように荒々しい者ばかりかと思っていたが、この青年はまるで“上品な貴公子”のようだ。

 (これは、商談の類かしら……? でも、ヴィクトルがいないのに、どうしてわたしに話を?)


 とりあえず応接室へ通し、茶を用意するようメイドに指示する。アイザック執事は「よろしいのですか?」と視線を送ってくるが、ルシアーナは軽く頷いた。

 (ヴィクトルからは“勝手に屋敷に来た客なら追い返してもいい”と言われたけど、もしかするとクロウフォード家にとって有益な情報があるかもしれない。何より、わたしが表舞台に立てる数少ない機会だわ)


 ラトレイ令息と名乗る青年は、応接室のソファに腰を下ろすと、改めて名刺のようなものを差し出し、「ラトレイ男爵家の第三子、ロイ・ラトレイ」と自己紹介をする。ルシアーナも慣れた手つきで微笑み返し、「初めてお会いしますが、何かお力になれることがあれば伺います」と答えた。

 ロイは目を輝かせながら語り始める。どうやら、彼の家は最近貿易を始めたばかりで、その拡大にクロウフォード家の持つ流通網を利用したいらしい。具体的には、航路の一部を共同で借り受け、相互に利益を分配する提案を検討しているとのこと。


 「ただ、侯爵様に直接お話しする機会がなく、アポを取ってもなかなかご都合が合わない。そこで、夫人のお耳に入れておけば、多少は興味を示していただけるのではないかと……厚かましい考えかもしれませんが」

 ロイの口調はとても丁寧で、下心を感じさせない。だが、ルシアーナはここ数日の屋敷内の書類を漁っているうちに、クロウフォード家の財政にもちらほらと“黒い噂”があることを知っていた。かつては潤沢な資金を誇っていたようだが、最近は黒狼とのトラブルもあってか、一部の取引先からは“リスクが高い”と敬遠されている可能性がある。

 (なるほど、ロイはその隙間を狙っているのね。大貴族が困っているなら、こちらに有利な条件で提携できるかもしれないと)


 商売の駆け引きとしては当然だろう。一方、ヴィクトルがこうした申し出を受け入れるかは未知数だ。なにしろ黒狼の件で神経をとがらせている今、追加の取引リスクを負う余裕はないかもしれない。

 「あいにく、わたくしには夫の権限を代行する立場はございません。ただ、こちらから夫に伝言をしておくことくらいは可能です。もしご要望があれば、正式な日取りを改めて設定するよう提案しましょう」

 ルシアーナがそう返すと、ロイは期待に満ちた表情で身を乗り出した。


 「ありがとうございます、夫人! それだけでも十分助かります。実は、試作品としてこのような品を――」

 彼は鞄から小さな箱を取り出し、中に入っていたガラス細工のような装飾品を見せる。海を渡った異国の細工人が作ったものであり、もしクロウフォード家のパイプを通せるなら大々的に売り出せる……というわけだ。

 (商売そのものに悪意はなさそう。……でも、この場で勝手に決定はできないわね)


 ルシアーナは苦笑気味に頷き、そのガラス細工を手にとって眺める。淡い色合いで繊細な彫刻が施され、確かに高級感がある。飾り棚などに置けば女性ウケは良さそうだ。

 「きれいですね。ぜひ、この件は前向きに検討すると夫にお伝えしましょう。ただし、最終的な判断は侯爵がすることになりますので……」

 「もちろんです! どうかよろしくお願いいたします」

 ロイは上機嫌で頭を下げた。しばらく商談めいた話を交わし、やがて彼は「また改めて参上します」と言い残して帰っていく。


 応接室に一人残されたルシアーナは、思わず肩をすくめた。

 「わたしが想像しているより、クロウフォード家はずいぶんビジネス相手として魅力的らしいわね。黒狼との問題さえなければ、夫の財力はまだ健在ということ……か」

 そう考えると、確かにフィオレット家を救うためにはこの“財力”が必要なのだ。だからこそ、ルシアーナは自分の意思でここへ嫁ぐ道を選んだのだから――と、改めて自分を奮い立たせる。



---


5.差し込む一筋の光と、噂の暗雲


 ロイ・ラトレイとのやり取りを通じて、ルシアーナは“侯爵夫人”として初めて“外の世界”の空気を感じた気がした。クロウフォード家の名がある以上、それは絶大な影響力を持つ。うまく活用すれば、黒狼に対する抑止力にもなり得るかもしれない。

 一方で、こうした来客を許してしまうと、黒狼のような勢力から目を付けられるリスクもあるかもしれない。組織としては、「クロウフォード家が勝手に別の取引を進めている」という事実を快く思わないだろう。

 ルシアーナが廊下を戻ると、使用人たちのひそひそ話が耳に入ってきた。


 「奥様……意外に社交に慣れていらっしゃる様子だな。見掛けは清楚だが、ただ者じゃないかも」

 「あまり深入りしないほうがいい。旦那様の逆鱗に触れるからな……」


 彼女は聞こえないふりをして通り過ぎる。屋敷の中ではまだまだ“部外者”扱いだが、少なくともロイの来訪を冷静に処理できたのは一歩前進だ。

 (ヴィクトルが戻ってきたとき、どんな顔をするかしら。でも、わたしは最低限の応対をしただけ。責められる筋合いはないわ)


 そう心中で言い聞かせながら青の部屋へ戻るが、その途中、不意にアイザック執事が現れて声をかけてきた。

 「失礼ですが、奥様……先ほどの来客対応、大変お見事でした。旦那様が留守の間、こうしたお客様がいらっしゃることもあるかと思います。もし差し支えなければ、応接の際にお出しする茶器やお菓子の手配など、いくつか決め事を共有しておきたいのですが……」

 「ええ、もちろん。むしろ助かります。わたしはこの屋敷の流儀を何も知りませんので」


 ルシアーナが柔らかく微笑むと、アイザックの表情がほんの少し和らいだ。もしかすると、彼もまた“使えるなら使いたい”という思いがあるのかもしれない。

 「では、後ほど食堂にてお打ち合わせさせていただきましょう。お時間は……そうですね、午後の休憩にでも」

 「かしこまりました」

 こうして、ルシアーナは少しずつ、この別邸の“運営”に関わる隙を見つけ始める。ヴィクトルの留守中にできることは限られているが、それでもじっとしているよりは前進だ。



---


6.深夜の影と、微かな接触


 しかし、屋敷の平穏は長くは続かなかった。

 その夜、屋敷の裏口で不審者の影が目撃されたとの報告があった。巡回していた使用人が、窓の外に黒い人影がうずくまっているのを見かけたというのだ。すぐに駆け寄ると、すでにその姿は消えていた。

 (また“黒狼”……? あるいは、まったく別の盗賊かもしれない)


 物騒な話に、ルシアーナは胸をざわめかせる。こんな深夜に潜り込もうとする輩がいるとしたら、屋敷の宝飾品や財産を狙っているのか、それともクロウフォード家に恨みを持つ誰かなのか。いずれにせよ、普通ではない。

 アイザック執事は何名かの使用人に屋敷周りを見回らせる一方で、ルシアーナには「念のため、今夜は部屋から出ないでください」と注意を促す。

 しかし、ルシアーナはどうにも落ち着かず、夜中に目が冴えてしまう。雨がまた強くなり、窓を叩く音が神経を逆撫でするようだ。

 (どうしてこんなに不穏なことが続くの……。ヴィクトルが留守の間に、何か大きな事件が起きるんじゃないかしら)


 ベッドに横になっても眠れない。夜更け過ぎ、ルシアーナはこっそり青の部屋を出る。廊下の灯りは最小限、ほとんど闇に近い状態だ。足音を殺して進むと、階下から微かな光が見える。

 そっと覗き込むと、そこにいたのはアイザック執事と、先日も見かけた若い男性使用人の姿。彼らはひそひそ声で話している。


 「……まさかとは思うが、黒狼の連中がまた来たのではないでしょうか。旦那様がいないうちに、揺さぶりをかける気かもしれません」

 「確かにその可能性はある。だが、実際には姿を見失ったままだ。中途半端な調査で噂が広がるのも困る。……いいか、他の者には口外するな。奥様にも余計な心配をさせるな」


 ルシアーナは思わず息を呑む。アイザックが言う「奥様にも心配をかけるな」という言葉に、かすかに胸が温かくなる一方で、“黒狼”が本当に裏口まで来ていたらしい事実に戦慄する。

 (こうしてる間にも、彼らは何かを狙って動いているのね。ヴィクトルが不在と見て、弱みを探りに来たのかも)


 ルシアーナは踵を返し、青の部屋へ急いで戻った。廊下で見つかったら執事たちに叱責されるだろう。今は下手に干渉しないほうがいいと判断し、ベッドに潜り込む。

 だが、胸は高鳴ったまま、眠気は一向に訪れない。かすかに雨と風が窓を揺らし、“闇”が屋敷の壁を這いまわっているように感じられる。クロウフォード家の闇は、決して一枚岩ではない。ヴィクトルと黒狼との因縁、その余波が少しずつルシアーナの周囲を蝕み始めているのだ――そう思うと、背筋が冷えるのを止められなかった。



---


7.帰還と疑念


 それからさらに数日後の夕刻、ヴィクトルが帰ってきた。

 執事や使用人たちが総出で出迎え、彼らの馬車から大きな荷物がいくつも運び込まれる。どうやら商談は一応の契約にこぎつけたようで、いくつかのサンプル品や書類が増えているらしい。

 ルシアーナも階段の上で軽くお辞儀をして夫を迎えたが、ヴィクトルは彼女をちらっと見ただけで、すぐに書類を抱えた秘書とともに執務室へ引っ込んだ。


 (やっぱり、結局何も言わないのね。……まあ、これは想定内)


 ロイ・ラトレイという来客があったことを伝えるべきか迷ったが、ひとまず落ち着くのを待つことにした。あまりにすぐ報告すれば、逆に“干渉するな”と突き放されかねない。

 案の定、執務室からはほとんど出てこない。夜遅くまで明かりが灯り、秘書や使用人が何度も出入りしている。大きな商談をまとめたばかりだから仕方ない――そう自分に言い聞かせつつ、ルシアーナは静かにタイミングを待った。


7-1.衝突の予兆


 翌日の午後、ルシアーナが青の部屋で本を読んでいると、使用人から「旦那様が応接室へ来るように」と伝言があった。おそらく、ロイ・ラトレイの件かもしれない――そう直感したルシアーナは、落ち着いて部屋を出る。

 応接室には、すでにヴィクトルがソファに腰掛けていた。冷やかな視線のまま、入室したルシアーナを促す。

 「……聞いたぞ。俺が留守中、ラトレイ男爵家の令息が勝手に来たそうだな」

 単刀直入な口調に、ルシアーナは一礼して答える。


 「はい。お約束もないまま訪ねてこられたのですが、応接室へお通しして話だけ伺いました。失礼がありましたら、お詫びいたします」

 ヴィクトルは小さく舌打ちをし、呆れたような表情を浮かべる。

 「別に謝る必要はない。ただ、あの男は新興の貿易事業を立ち上げていて、あちこちに擦り寄っていると聞く。まだ信用に足る相手か判断しきれない。……お前は何を話した?」

 そう問い詰められ、ルシアーナは落ち着いた声で経緯を説明する。ロイの提案内容や持ち込んだガラス細工、クロウフォード家の流通網を希望している旨――。ヴィクトルは黙って聞いているが、その間ずっと鋭い眼差しを崩さない。


 「……なるほどな。どのみち、俺は奴の話をすぐに受ける気はない。こちらも新しい取引先を選ぶ余裕はないんでな。だが、勝手に夫人が応対するのは少々リスクがある」

 「リスク、ですか?」

 「……お前が“伯爵家の出”だということを利用されるかもしれない。クロウフォード家の名を脅し文句のように使う連中もいる。気軽に意見を述べれば、そこに付け入られる可能性がある。覚えておけ」

 ヴィクトルの言い分はもっともだが、ルシアーナは強く反発する思いを抑えながら、「肝に銘じます」とだけ返す。だが内心では、“あなたが何も教えてくれないから、わたしなりに動くしかないのよ”と叫びたかった。


 さらにヴィクトルは小さく息を吐き、言葉を続ける。

 「それから……留守の間、屋敷に不審者が出たと聞いた。お前に危害はなかったのか?」

 思わぬ問いにルシアーナはほんの少し目を見開く。彼が自分を気遣う言葉を発するのは珍しい。

 「わたしは何もありませんでした。使用人の方々が早めに対処されたようで……」

 「ならいい。……もし何かあれば、すぐに執事か秘書に報告しろ。無闇に首を突っ込むなよ。黒狼の連中が潜り込もうとしている可能性もある」

 「……はい」


 最後は、まるで優しさとも取れる雰囲気はなく、“契約上の管理対象”を確認するような冷たさだった。けれど、それでもルシアーナにとっては意外だった。あのヴィクトルが、自分から不審者や黒狼の話題を持ち出すとは……。

 (彼も、わたしに“万が一の事態”が起こるのは困ると思っているのかもしれない。なぜなら、契約結婚が壊れればクロウフォード家の損になるから――そういう意味かもしれないけど)


 ほんの僅かな会話であっても、ルシアーナはヴィクトルの変化を感じ取った。あの黒狼と完全に決裂している現状に、何かしらの焦燥感や不安を抱えているのだろう。

 応接室を後にする彼の背中を見送りながら、ルシアーナは胸に小さな違和感を残す。どこか、ほんの一瞬だけヴィクトルの表情が揺れた気がしたからだ。冷たい仮面の奥に、別の感情が渦巻いている――そんな予感がする。



---


8.“ざまぁ”への小さな布石


 その晩、ルシアーナは青の部屋で、これまでに得た情報を整理していた。

 - 黒狼(ブラックウルフ):ヴィクトルと過去に協定を結んでいたらしき裏社会の組織。共同事業が破綻した結果、互いに脅し合いのような関係に陥っている。

 - リュシアン:黒狼のリーダー格で、凶暴かつ狡猾。屋敷に押し入り、ヴィクトルとの衝突を辞さない姿勢を示している。

 - ラトレイ男爵家のロイ:新参の貿易商。クロウフォード家の財力と流通網を利用しようとしているが、信用できるかは不明。ただし、彼自身は誠実そう。

 - ヴィクトル:表向きは冷徹そのものだが、時折わずかな疲労や焦りが垣間見える。黒狼との問題が長引いていることや、新規ビジネスの判断に慎重にならざるを得ない背景があると思われる。


 この四つのピースを組み合わせれば、何か突破口が見いだせるかもしれない。

 (例えば、ラトレイ男爵家と手を組むことで資金やルートを増強し、黒狼に対抗する力を得る――なんて可能性があるんじゃないかしら。でも、ヴィクトルはそれを望まない。まだリスクが高いと判断している。かといって、黒狼をこのまま放置すれば、いずれ大きな被害が出るのは目に見えている)


 ルシアーナが頭を抱えていると、ふと机の上に置いたフィオレット家の紋章入りのブローチが目に入る。

 (わたしが、この結婚を“ただ耐えるだけ”で終わらせたくない。フィオレット家を守るためとはいえ、ここに嫁いできたのに、何もせずに破滅を待つなんてまっぴらよ)


 自ら動き、ヴィクトルすらも“利用”してやる――そう決意してから、まだ日は浅い。けれど、その思いは確実に彼女の内面を変えつつあった。

 (……もし、わたしがヴィクトルの問題を解決に導き、クロウフォード家を支える形になったらどうだろう。彼は驚くだろうし、“ざまぁ”という言葉を投げつける機会だってあるかもしれない。愛のない結婚でも、わたしがこの家の実質的な“大黒柱”になってしまえば、きっと彼も否応なしに評価せざるを得ないわ)


 そう考えると、胸の奥から不思議な力が湧いてくる。愛されることを捨てたのなら、せめてこの結婚を“わたしの勝利”に塗り替える。たとえ冷たい契約であっても、ルシアーナにはまだやれることがあるはずだ。

 薄紫のブローチをそっと撫で、ルシアーナは瞳を閉じた。いつか必ず、ざまぁと言わしめる日が来る――と、眠りに落ちる直前、静かに誓うのだった。



---


9.嵐の前夜――次なる波乱へ


 そして、時は緩やかに進む。黒狼の動きは相変わらず不気味に沈黙し、ヴィクトルは執務室で忙殺される日々。ルシアーナは表立った行動を慎みつつも、使用人から徐々に館の習慣や規則を学び、いざというときに動ける準備を整えていた。

 アイザック執事との連携も、少しずつ築かれ始めている。余計な詮索はするなと言われつつも、屋敷の運営や雑務の一部を手伝うことで、ルシアーナの存在は小さくない影響を与え始めていた。

 (余計な干渉は禁物だけど、わたしには“裁量”が生まれつつある。着実に、次の一手を打つ下地を作れているはず)


 そんなある朝、珍しく快晴の光が窓辺を照らした。長く続いた雨が止み、雲間から陽光が差し込んでいる。まるで、重苦しい空気を振り払うような爽快な青空だ。

 使用人たちもどこか明るい表情を浮かべ、玄関先や庭の掃除に勤しんでいる。庭の花壇では、長雨で痛んだ草花を片付ける様子が見えた。ルシアーナも少し散歩に出ようかと思い立ち、ドレスの袖を整えて扉を開ける。

 だが、そのとき、館の門の方で黒塗りの馬車が止まるのが見えた。紋章は……ラトレイ男爵家のものだった。


 「またロイが来たの? 今日はヴィクトルが在宅しているけれど、どうするのかしら……」


 少し戸惑いつつ、ルシアーナは廊下を通って玄関ホールへ向かう。すでにロイは門をくぐり、使用人と話をしているようだ。彼がどんな意図で訪れたのか気になる一方、ヴィクトルがどう反応するかも重要だ。

 ところが、程なくして玄関ホールの扉が開き、ロイが勢いよく中へ入ってきたかと思うと、その後ろに現れたのは――黒髪をした、見覚えのある男だった。


 「……え?」


 思わず声が出そうになる。あの“黒狼”のリーダー・リュシアンだ。どういうわけか、ロイの後ろをついて屋敷の中へ入ってきたらしい。使用人たちが慌てふためいて止めようとするが、ロイは「今日の商談に同席してもらうことにしたのです」と言い張っている。

 (なんてこと……! ロイとリュシアン、まさか繋がっているの……?)


 ルシアーナは頭が真っ白になる。ロイが誠実な青年だと思っていたのは早計だったのか。それとも彼にも事情があるのか――いずれにせよ、これは尋常ではない事態だ。あの黒狼が仲間を引き連れて乗り込んでくるのとは違い、“客人”の体裁を装って正面から入り込んでいるのだ。

 「おいおい、こんなところに奥様がいるじゃないか。久しぶりだな、伯爵令嬢さんよ。いや、もう“クロウフォード夫人”か」

 リュシアンは嫌らしい笑みを浮かべ、まっすぐルシアーナを見つめる。彼女は一瞬ひるむが、必死に表情を崩さないように踏ん張る。

 「あなた方……どういうつもりですか? ここはクロウフォード家の別邸。むやみに上がり込んでいい場所ではありません」

 「もちろん、承知のうえさ。だが今日は、“お友達”を通じて正式に招かれている。なあ、ロイ坊や?」

 リュシアンがロイの肩をバンバンと叩く。ロイは気まずそうに目を伏せ、消え入りそうな声で言う。


 「す、すみません。リュシアンさんは、ある商会の共同代表として、この取引に関わる立場にあるんです。僕は……その事実を侯爵様にお伝えしようとしたら、先に連れて来てしまって……」

 (なんて展開……!)


 ルシアーナは強烈な動悸を覚えながら、どうにか落ち着きを取り繕う。クロウフォード家と黒狼は敵対関係にあるのに、ロイが共同事業者としてリュシアンを帯同してきたのだ。下手をすれば、ここで血を見ることになるかもしれない。

 「ヴィクトル様にお知らせしないと……!」

 使用人の一人が階段を駆け上がり、執務室へ急ぐ。ルシアーナは玄関ホールの中央で、リュシアンを正面に見据え、気丈に言い放つ。

 「勝手に上がり込むのは困ります。ラトレイ男爵家のロイ様はともかく、そちらのあなたとは取引の話など一切聞いておりません」

 「へえ、だったらここで立ち話でもいいぜ。いずれ“旦那様”が顔を出すんだろ? あいつが嫌がろうが何しようが、俺たちは交渉する気で来てんだ。ついでに言うと、このロイ坊やは俺らのルートを使って大陸へ品を回そうとしてるんだよ。……あんたにとっちゃ意外かもしれねえがな」

 リュシアンの言葉に、ロイがさらに肩を縮こませる。その姿は“利用されている”とも見えたし、“共犯”とも見えた。どのみち、事態は極めて危険だ。


 (どうする……? ヴィクトルが来たら、きっと激怒する。あの二人が真正面からぶつかり合えば、ここが戦場になりかねない)


 クロウフォード家の別邸に、黒狼のリュシアンが堂々と入り込んだ――これはもう、ただの商談では済まないだろう。

 ルシアーナは心を決める。ここで立ち尽くしているだけでは、確実に破滅の道が開けてしまう。フィオレット家はもちろん、この屋敷の使用人たちの安全さえ危ういかもしれない。

 (わたしが何とかするしかない……!)


 ざわめく使用人たち、震えるロイ、挑発的なリュシアン。嵐を呼ぶ黒雲が、快晴だった空を再び覆っていくかのようだ。もう後戻りはできない。愛のない結婚に縛られたはずのルシアーナが、ここで“何をなすか”が問われる局面に突入しようとしていた――。



---





---


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?