「あのときの女の子、目黒だったのか!?」
俺は驚きのあまり席から立ち上がった。ガタンと大きな音が、静かな教室内に響く。
「気付くのが遅いよ。剣道道場に通い出したときに気付かれなかったから、忘れられてるとは思ってたけど」
「ごめん。でも記憶の中のイメージと違ってたから……剣道道場に通ってた頃の目黒はロングヘアにスカートだっただろ?」
「イメチェンはしてたけど、顔は変わってなかったよ? もちろん小学生だから化粧なんてしてなかったし」
「うっ……」
それはそうだ。
要するに俺は「ショートカットで短パンの女の子」という覚え方をしていて、肝心の顔はよく覚えていなかったのだ。
可愛いとか美人になるとか言っていたくせに、まるっと顔を忘れていたなんて失礼過ぎる。
言い訳のようだが、目黒との会話の内容はしっかりと覚えていて、今でも正義のヒーローになるという気持ちは変わっていない。だからこそ俺の“想い”の武器は、剣と天秤なのだろう。
とはいえ、顔を忘れていた事実は変わらない。
「あんな会話をしたのに忘れられてるなんて心外だよな。全面的に俺が悪い。ごめんな、目黒」
何度も謝る俺を、目黒が制した。
「謝るようなことじゃないよ。きっと相馬君にとってあの出来事は何でもないことだったんだよ。だって相馬君は当然のように他人を助けられる人だから。私以外の人のこともたくさん助けてきたんだよね?」
「だからと言って目黒のことを忘れていいわけじゃないだろ」
それに、俺にとってあの出来事は何でもないことなんかじゃない。
あれがあったから俺は明確に正義のヒーローになりたいと考えた。
俺が正義にこだわるのは親父のせいもあるが、始まりはこっちだ。
「でも。一度は忘れたけど、思い出してくれたんだよね?」
俺は大きく頷いた。
一度思い出してしまうと、目元も鼻筋も目黒はあのときの女の子とそっくりだ。ショートカットにしたことで雰囲気もあの子に似ている。本人なのだから当然だが。
そして幼い頃の俺の見立て通り、目黒はミスコンに出るほどの美人になった。どちらかと言うと可愛い系だが、顔が整っていることに違いはない。
「相馬君が引っ越しちゃったから、もう二度と会えないと思ってたんだ。だから戻ってきてくれてすごく嬉しい!」
興奮した様子の目黒が俺の手を握った。目黒の体温が俺に移って手のひらが熱を帯びてくる。
しかしすぐにハッとした様子の目黒が、俺の手を離して自身の口を押えた。
「ごめん。相馬君はお家の良くない事情でこっちに戻ってきたんだよね。嬉しいなんて言っちゃいけないよね」
確かに俺は両親が離婚したから祖父母の家に戻ってきた。
とはいえ毎日が目まぐるしくて、そのことを半ば忘れていた。
それほどまでに、この高校での生活が刺激的だったからだ。
それに教室や部活動で目黒が仲良くしてくれたから、楽しくて時間が経つのが早かった。
「それこそ謝るようなことじゃないよ。嬉しいって言ってもらえて、俺の方こそ嬉しい」
「えへへ、お互い様だね」
俺たちは笑い合った後、青い折り畳み傘を見た。
子ども用のためやや小さなその傘は、十年近く経っているのに綺麗に保たれている。
「これを見たら相馬君が私のことを思い出してくれるかもと思ったんだ。持ってきて正解だったね」
この傘は始まりの傘だ。
俺が正義のヒーローになろうと思った始まりであり、目黒がその相手。
今の俺があるのは、あのとき目黒と出会ったからと言っても過言ではない。
「あれがスタートなんだ。意識して正義のヒーローになろうとしたのは、あれがきっかけだった」
「それなのに私のことを忘れてたの?」
「そう言われると何も言い返せないな」
目黒は突然、悪戯っぽい顔をすると、両手を頭の上でぴょこぴょこと動かした。
「私は雨に濡れた野良猫だニャン」
「ちょっ!? それは忘れてくれよ!?」
「やだニャン」
俺たちは顔を見合わせて、また盛大に笑った。