目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第73話 1巻最終話




 ――何時間経ったのか、再び彼が一歩を踏み出すと、



 パリン



 足元から乾いた音が響いた。


 反射的に飛び退き、音の出所に拳を放つ。




 ――彼の動きがビタリ、と止まった。




 辛うじて原形をとどめている菊のブローチが、そこにはあった。




「あぁあ、ああぁぁあぁぁぁ」


 慎重に、慎重に、ブローチを掬い上げる。


 のっぺりとした貌が徐々に剥がれ落ち、大粒の涙が紫の宝石を濡らす。


「あぁぁぁあぅっ」


 全身を包んでいた漆黒が霧散すると同時に、自重に耐え切れず東条が崩れ落ちた。


 彼を蝕む損傷は、既に許容できる限界値を越えている。


「勝ったよ、紗命ぁ。ちゃんと勝てたよ、ははっおぽっ……」


 愛しい人を思い浮かべ、勝利の報告を告げる。


 ブローチを掻き抱き、湧いてくる記憶を一つ一つ確かめる。


 今なら鮮明に思い出せる仲間の顔に、彼は安堵した。



「……そうか、勝てたのか……俺は、勝てたんだ…………勝っちまったっ、勝ったッ、勝てちまったッ、俺がいればッ、俺ガはッいればっ!がでだっ‼、がでたッ‼



 ――ックッッソガァァァァァァアッッッッッ‼……――」



 響き渡る慟哭は、自責と懺悔の色に染まっていた。


 彼が抱くのは、後悔、取り返しのつかない、絶望的なまでの、後悔。


 ……こんなことならば、ずっと、一人でいれば良かった。ずっと、自分の好きなことだけしていればよかった。


 ずっと、楽しいままでいたかった、楽しいままで……、


 脳裏に、微笑む少女の顔が過よぎる。


「……ちくしょうっ、ちくしょうッ」


 丸まって己を攻め続ける東条の頬を、ポツリ、ポツリと降り出した雨が叩く。


 空を見上げれば、汚らしい曇り空だった。



「…………ははっ、もぅいいや」



 次第に強くなる雨露は、彼の頬に線を作る。




「……………………疲れたわ」




 発した言葉は、行きつく先を求めて、……薄く、……儚く、……寂しく、……無情に、





 雨音に流された。










             §








 いつ、どこで、誰が死のうと、私達には関係ない。


 苦しみ、嘆き、絶望する人がいても、世界は大して変わらない。



 あなたは、今この時誰かが泣いてるとして、手を差し伸べられるか?


 あなたは、今この時誰かの命が消えたとして、涙を流せるか?



 無理だろう。



 あなたはそれを知ることもない。



 一つ一つの事象など、


 例えそれがどれだけ大きな事件、成果であっても、


 世界という概念の前では一いち事象、些細なことにすらなりはしない。



 例え何処かで男が冒険に胸躍らせても、


 それは風が吹くのと同じこと。


 例え何処かで手を取り合う仲間が生まれたとしても、


 それは川が流れるのと同じこと。


 例え何処かで少女が恋をしても、


 それは雲が揺蕩うのと同じこと。


 例え何処かで男が残酷な運命に打ちひしがれようとも、


 それは雨が降るのと同じこと。



 私達が世界に興味が無いように、


 世界も私達に興味が無い。





 ――鼻孔を撫でるのは雨に濡れた血の味。


 ――耳を通り抜けるのは吹き抜ける寂しさの色。


 ――舌に薫るのは血染めの若葉が紡ぐ痛ましさ。


 ――肌を刺激するのは穏かな死を待つ静けさ。


 目に映るのは、眼前に満ちる破壊の痕跡と、自分以外誰もいなくなった真っ赤な屋上。



 ここは、東京都にある池袋駅周辺、つい先日までは人で溢れかえり、喧騒に満ちていた場所である。









              §









 ――彼の手が、とさり、と地面に落ちた。







 現実なんて、こんなものだ。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?