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【最終話】モリアーティ教授の娘 02

 それから。

 私は半ば覚悟をしながら日々を送ったが、私の元まで司法の手が伸びることはついになかった。

 ただし私はそれから、組織が死んでいく様をただ伝え聞くだけの存在へと成り下がることになる。

 シャーロック・ホームズの以前からの助力と彼が収集したすべての証拠をもとに、警察は組織の全容をすっかり暴いてしまった。情報を提供してくれる彼らは気を遣って私に情報を隠そうとしたけれども、私はそれを固く断った。

 すべて教えてほしい。

 捕まった者についても、裁判についても、彼らが受けた裁きについてもすべて明らかにしてほしいと。

 彼らは頼んだとおりにしてくれた。

 かつて仕事を与えた仲間たちが犯罪者として糾弾され、裁判に掛けられ、厳罰を受けるのを見続けた。得られるだけの情報を得ようとし、知ろうとし、そのたびに深く傷付いた。

 傷付く資格などないと思った。

 私がすべての裁きの様子を知らないで、他に誰がいるというのか。

 知らないでいる方がいい、そんなふうに誰から止められようとも信念だけが私を突き動かす。捕えられた全ての構成員の行く末を私は調べ続けた。

 ロンドンにいたら、耐えられなかったかもしれない。

 組織の救ってきた人間が大手を振って声を上げられるわけでもない。ロンドン中で幾多の犯罪を指揮した組織は善良な市民たちによって貶められ、司法によって裁かれ、打ち砕かれた。

 尊厳を奪われ、許されないものとして扱われた。刑事裁判は広く開かれ、最も重い刑に処される者も多かった。

 ロンドンの未解決事件は、その多くがこれを機会に一気に解決されることとなった。

 私の持ち続ける意思は変わらない。お父様が、組織がやってきたことは、決して完全な悪などではなかった。

 それでも。

 遠くで、ただ傍観者としてそれを見るうち。

 崩壊した組織と失われていく仲間たちを両の目で見ているうちに、私の心も死んでいく。

 私の誇りも、死んでいく。

 私はいつしか、ただ生きているだけの存在となっていた。


 報道からどれだけ経った頃だろうか。

 識者による検証がなされ、やはり二人の滝壺への落下は疑いようもないとわかった旨の発表がなされた。死体の収容も不可能だと。

 今更なことではあったけれど、身体の芯が改めて冷えていくような感覚に襲われた。

 傍観者であることで壊れてしまったらしい心がいよいよ崩れ落ちようとしている。

 お父様が作った組織は跡形もなく破壊されてしまった。理不尽に傷付けられた人を救いたいという愛情が始まりだったのに、そんなことを理解してくれる人はもう現れない。

 お父様ももう、二度と帰ることはない。

 夜だった。

 私は、私室のデスクに向かってしばらく――備え付けの引き出しのひとつを開けた。

 中から取り出したのは一枚の紙片。これを受け取ったのはいつのことだっただろう。

(ポーロック……)

 彼の文字はとても丁寧に綴られていた。間違えようもないように鮮明だ。

 彼の「隠れ家」の住所。

 ――ひとつ。たったひとつだけ、君の願いを叶えよう。

 泣きそうになるほど優しい声色は、今になってもはっきりと思い出すことができた。捨てるに捨てられず、誰に言うこともできず、お守りのように持っていたもの。まさか本当に使いたいと思う日が来るなんて思わなかった。

 今でも届くものなのだろうか。あんな、幻のような約束だって……。

 迷いながらも便箋を取り出す。ペンを執る。

(ひとつだけ)

 なんとなく意識が朦朧とするような感じがあった。その言葉を書く躊躇いだけは、もうなかった。

『お父様が亡くなられたというのなら、私のことも殺してほしい』

 お父様の愛情から生まれた組織。

 類稀な頭脳と、秩序を愛する心があったから作られた組織。お父様がいたから私はあの組織にいたのだ。

 父がいたから――私はこの世界を生きた。

 自分の人生を生きたのに。

 その一文を書き終えたとき、自分の頬を涙が伝った。

 もう二度と会えない。このまま私が生きていくことなど、とてもできない……。

 その涙を止めることも、できない。

 やがて声を上げて泣き始めたので、間もなく扉が開かれることになった。

「アザリー?」

 その声の持ち主。

 手紙を慌てて隠そうとして、その便箋が既に涙で濡れてしまっていることに気付いた。どうしようもなく呆然とする私の傍に、ヴィクターが驚いた様子で近付いてくる。

 彼が私の手元に目をやったのは一瞬だった。私のことを強く抱き締める。

「アザリー」

「ヴィクター。私、あなたのことを愛してる。本当よ。でも、それでも生きていけない」

 何を言っているか、自分でも分からない。

 彼が悪いことなど何もない。支えられ、助けられてばかりだ。それなのにこんな言葉しか返せないのだから最悪だ。彼に縋りながらもさらに涙が溢れて困惑させてしまう。

「……これは?」

「組織を抜けた人の住所。ここに連絡したら、私の願いを一つ叶えるって約束してくれた」

 私の突拍子のない言葉を聞きながら、ヴィクターは何かを考えるようにした。私が泣き疲れて静かになるまでその思考は続いたようだったが、やがて――彼はデスクに転がっている私のペンを手に取った。

『ヴィクター・ベネットについても、彼女と同様に』

「ヴィクター!」

 私はこのときはじめて怒鳴った。けれども彼はまったく構わずに視線を向けてくる。

 こんな時まで、どうして迷いがない。

 どうして。

 私は彼が記した手紙を破ろうとした。こんなことは許されない。彼を巻き込んでいいはずがない。

 便箋を手に取り、力を込めようとする。

 破ろうとする。

(……どうして……)

 手紙を破ることは、できなかった。

 力を入れようとしているはずなのに、どうしてもできない。そのうち私は、自分の手が震えていることに気付いた。

 怖い。

 怖い……。

 私は、一人で死ぬことが怖いのだ。彼が最後まで一緒にいてくれることに対する安堵を、自分で捨てることができない。

(なんて)

 なんて醜い。

 なんて醜い――ただの人間なのだろう。

「どこまでも一緒にと、約束したでしょう。あなたは組織に残る最後の人間として正しいことをした」

 正しいことをした。

「正しい、こと?」

「ええ」

 彼がそう言って頷き、便箋を私の手から優しく奪う。取り返すことはできない。

「私も、あなたと結婚してよかったですよ」

 それはいつの言葉に対する返答なのだろう。私はまた泣いて、ヴィクターはずっとそれに寄り添ってくれていた。


 *


 すべての裁判が終わるまで、彼がいたから生きていることができた。

 組織は完全に解体された。捜査の及ばなかった範囲を除いて、犯罪王の「悪行」はすべて断罪された。

 手紙は――静かに私達の元を旅立った。

 ヴィクターはジュネーヴに置いた支店が本格的に動き出して安定するまで仕事を全うし、自分の役目は終わりだと言った。

 そんなことは、ないと思うのに……。

 私達はヴィクターの提案で、朝と夜に森へ出ることにした。

 湖畔を歩いて。

 毎朝、ふたりで散歩をする。

 夜も、ふたりで散歩をする。

 死んでいるような日々だった。

 死んでいるように生きた。

 それでも――最後に、考えた。

 最後まで、考えた。

 どうすればよかったのか。何が正しかったのか。

 初めはきっと正しかった。どこまでが正しかったのか。

 多くの人を殺した。直接でなくとも、私が出した指示が人を殺した。

 そしてその犯罪によって、従ってくれた多くの者が司法のもと断罪されることになった。

 慕ってくれた者のことを救うことなど、できなかった……。

 あれほど憎んだ犯罪者に、私達もなった。

 けれども私達は他の犯罪者とは違い、秩序を重んじることができると信じた。

 それは間違いだった。

 無駄だった。

 自分だけが「正しい犯罪者」であることなど、できないのだ。

 結局、目に映るすべての苦しむ人を助けることなど不可能だった。そんな試みを見届け、愛してくれた人の命さえ奪うことになった。

 私の、すべての人生は――ほんとうの正義にとっては、無駄なことだったのかもしれない。

 だからこうして、無駄なまま終わる。

 色々な人を巻き込んで、付き合わせて、終わることになる。

 許されないことだ。きっと死んだって償うことにはならない。償えるとも、思っていない。

 だけど。

 犯した罪は許されないと知っていても、自分の人生をなかったことにはできない。

 私にとっては大事だったのだと、すべて抱えて去ることにしよう。

 ほかの生き方は、私には有り得なかった。たとえ目の前にどれほどの選択肢が用意されていたのだとしても。

 それは、自分に流れる血が知っている唯一の真実だ。


 とある朝。

 背後から、とても懐かしい気配がした。姿は見えず、言葉は端的だった。

「モリアーティ教授の、娘だね」

 全てを理解し、包み込んでくれるような問いだった。

 私は自信を持って答えた。

「そうよ」

 約束を守ってくれて、ありがとう。

 そう呟いたとき、風が吹いた。

 いつかの風だ。音もなく、目の前が真っ暗になった。

 不思議と痛みはない。組織を去った彼からの、とても温かな餞別。やわらかく自分の意識が閉じていく。

 もう何も考えることはない。

 でも――ひとつだけ。

(無駄な人生だった。最低の、犯罪者としての命だった。それでも――)

 救いようがない。

 ヴィクターの妻として。

 母の娘として。

 そして父の娘として死ぬことができる。そのことが、私は。

(――こんなにも、嬉しい)

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