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受付嬢アンナと「規約第0条」の運命 ~自己肯定感ゼロから世界を救うまで~
受付嬢アンナと「規約第0条」の運命 ~自己肯定感ゼロから世界を救うまで~
ことのはし
異世界ファンタジー冒険・バトル
2025年05月16日
公開日
3.1万字
完結済
ギルドの歪んだ規則に疑問を抱く平凡な受付嬢アンナ。彼女に秘められた「言葉の力」が、世界を支配する古代の呪いを解き、失われた絆を取り戻す唯一の希望となる。

第1話

ギルド『虹の架け橋』の巨大な七角形エントランスホールは、朝から様々な種族の来訪者でごった返していた。天井に浮かぶ魔法の虹だけが、この喧騒をよそに冷ややかに輝いている。その下では、多種多様な言語が飛び交い、不協和音を奏でていた。


「ですから、規約第127条3項に基づき、申請者様の氏名と所属クランをご記入ください。ドワーフ語ならB-3用紙を、エルフ語ならC-1を。竜人族りゅうじんぞくの方は少々お待ちください、専用インクを準備いたします」


受付カウンターの一角で、アンナは山のような書類と格闘していた。淡い金髪を揺らし、大きな丸眼鏡の奥の瞳を瞬かせながら、依頼者たちを懸命に捌いている。彼女の声は小さくおっとりしているが、記憶力はギルドでも随一だ。分厚い規則集の条文を、ほぼ完璧に暗記しているのだから。


「アンナさん、少しよろしい?」

隣のカウンターの先輩受付嬢、セリアが声をかけてきた。


「この影族かげぞくの方、口頭での自己紹介が難しいそうで。何か良い方法はない?規則では明記するようにって……」

セリアは規則集を指差しながら、途方に暮れた顔をしている。


アンナは内心で溜息をついた。

(またこのパターン。規則は規則、でも……)


ギルドの規則は絶対だ。しかし、その厳格さが時として、目の前の誰かを追い詰めることも痛いほど感じていた。


「ええと」アンナは擦り切れた表紙の規約集をめくった。

「セリアさん、規約第127条3項には『申請者は自身の出自を明らかにすべし』とありますけれど」


目的のページを開くと、特定の文字だけが温かい光を帯びて見える。彼女には、その光が何かを指し示しているように感じられた。


「こちらをご覧ください。この条項の『出自』という言葉の前には、『必要に応じて』という但し書きがあります。今回は『迷子の黒猫捜索』ですので、詳細な出自は必ずしも『必要ない』と解釈できます」

アンナは穏やかに、しかし確信を持って言った。


「まあ、アンナさん!さすがだわ、ありがとう!」

セリアは顔を輝かせた。影族の依頼者も深々と頭を下げ、ローブの奥から安堵の気配が伝わってきた。


(でも、この『必要に応じて』という文字、私だけに光って見えるのよね。まるで、こう解釈しなさいと囁くみたいに。他の人には、どう見えているのかしら?)


アンナは首を傾げた。時々、規則の文字が彼女に何かを訴えかけてくるような不思議な感覚に襲われるのだ。その度に軽い頭痛に悩まされることもあったが、誰にも言えずにいた。



昼休み。アンナはいつものように、ギルド地下の古文書保管室へ向かった。埃と古いインクの匂いが、彼女を安心させる。ここだけが、ギルドの喧騒と息苦しい規則、そして奇妙な感覚から逃れられる場所だった。


「おお、また来たか、アンナの小娘。今日のランチは古文書かい?若い娘がそんなものばかりじゃ、体に毒だぞ」


奥で羊皮紙の修復作業をしていたドワーフの資料管理官、グラン・ボルダーストーンが顔をしかめた。ぶっきらぼうな口調だが、その声には気遣いが滲んでいる。アンナにとって唯一、気兼ねなく話せる相手だ。


「こんにちは、グランさん。お昼はちゃんと食べました。今日はこの第0条の写しが気になって」


アンナは羊皮紙の束から一枚を取り出した。そこには『規約第0条』が美しい飾り文字で記されている。


「本ギルドは、七種族それぞれの『真実』を尊重し、いかなる規則もそれらの『調和』を乱すことがあってはならない」


アンナがその一文をなぞると、指先から微かな七色の光が溢れ出たように見えた。気のせいかもしれないが、心が温かくなるのを感じた。


「ふん。今のギルドじゃ、ただの飾り文句じゃわい。誰も本気にしておらん」グランは鼻を鳴らした。その目は遠い昔を懐かしむような色を帯びていた。「レオン筆頭調停官の『効率化』で、この『第0条』は次の改定で削除される運命じゃ。古臭い理想論は不要らしい」


「そんな……」アンナは胸が痛んだ。この言葉が飾りだとは思えなかった。

「でも、グランさん。この言葉には大切な意味があるような気がするんです。だって、この文字……」


「文字がどうしたと言うんだ?」グランは修復の手を止め、訝しげにアンナを見た。


「ううん、なんでもありません」アンナは慌てて言葉を濁した。この不思議な感覚を、まだ話す勇気はなかった。話せば「疲れておるんじゃないか」と心配されるだけだ。


(でも、確かにこの『真実』と『調和』の文字だけ、違う輝きを持っている。まるで生きているみたいに、私に何かを伝えようとしているみたい。この感覚は私だけのものなのかしら……)


その日の閉館間際。ギルドのエントランスがにわかに騒がしくなった。アンナがカウンターから顔を出すと、そこには全身から霧を立ち昇らせる霧人族きりびとぞくのミストが、怯えた様子で立っていた。彼の周囲の霧は不安を示すように青と紫の渦を巻き、見ているだけで胸が苦しくなった。


「たす……助けてください!」ミストは震える声で訴えた。「私たちの村の……言葉の色が……消えていくんです!もう、何も伝えられない……!」


その言葉を聞いた瞬間、アンナの脳天を鋭い痛みが貫いた。まるで頭の中で何かが「断線」したような衝撃だった。立っているのがやっとだった。


そして、目の前のギルド紋章――七色の虹が、一瞬、暗い色に変わり、泣いているかのように揺らめいたのを、アンナは確かに見た。


「これは……一体……何が起きているの……?」


アンナは自分の手のひらを見つめた。そこには『規約第0条』の羊皮紙の感触が、まだ微かに残っている。


そして、その羊皮紙の文字が、今までにないほど強く、鮮やかな七色の光を放ち始めているのを、彼女だけが見ていた。まるで、彼女の問いかけに答えるかのように。


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